第八章(8/10)
ヘイスベルト、と言ったのはレイナだけではなかった。レイナが傷を負わせた男の一人も、叫ぶように男の名を呼ぶ。
「どういうつもりだ? 何しにきた」
その口ぶりからは、仲間が助けに来たと喜ぶものは感じられず、レイナは内心で首を捻る。ヘイスベルトが軽く口元に笑みを浮かべるのが見えた。彼はゆっくりとこちらに歩いてきて、レイナの剣の間合いに入る随分と手前で止まった。
「もちろん、君たちの応援だよ。君らだけで手にあまるようなら、手伝おうかなと思って。万が一にも失敗すれば、ダーフィットの顔に泥を塗ることになるだろう?」
ダーフィットという名を、レイナは記憶の中から探す。アレイスに話を聞けていた頃に、その名が出ていた。記憶違いでなければ、ルドの子でヘイスベルトの兄だ。当然、彼らと同じ立場——貴族たちを倒して自身たちが王になるためにレイナを利用したい——の人間だろうとは思う。
だが、ヘイスベルトの言葉に、男の一人が唸るような声を出した。どこか忌々しげにヘイスベルトを睨む彼を楽しげに見やってから、彼はレイナに向き直った。黒髪に切長の黒い瞳。物腰の柔らかい口調とは異なり、目に宿る光はこちらを突き刺すように鋭い。
「こんにちは、レイナ。久しぶりだね」
ヘイスベルトは腰に剣を佩き、加えて左手に小ぶりな剣を持っている。二刀流か、とも警戒するが、それにしても左右の剣の大きさはだいぶ違う。腰の剣を抜くつもりはないのかもしれないが、それでも注意を払わないわけにはいかないだろう。
レイナは汗ばむ手のひらで、剣を握り直した。
「……しばらくは大人しくしよう、じゃなかったの?」
かつて彼が語っていた言葉を口にする。
レイナのことを今すぐにでも連れて帰りたいが、アレイスが手を出すなというのなら、しばらく大人しくしよう、と彼は言った。しばらくという時間がもう過ぎたとでもいうのか、それとも。
「悪いね。あの時とは少し状況が変わったんだ。それにこちらにも面倒くさい事情が色々とある」
彼はそういうと、だらんと下げていた左手を少しだけ動かした。
「さっき見事な悲鳴が聞こえたから、人を抑えるのもそろそろ限界かな。ちゃんとした説明をする暇もなくて申し訳ないけど、一緒に来てもらおうか」
とん、と彼の足が前に出る。
と思った次の瞬間には、驚くべき速度で一気に間合いをつめられた。逃げられない、と判断し、レイナは後方に飛び退きたい衝動を抑えて前に出る。ヘイスベルトの出した剣を受けると、その感覚にぞっとした。明らかにレイナの持っているものより軽くて扱いやすそうな剣。にも関わらず速度が乗っているせいか、それとも単純に彼我の腕力の差か、通常の剣と変わらないほどの重みがある。
続けて繰り出される剣の攻撃を、レイナはただ受けることしかできない。スピードが圧倒的に違う。なんとか隙をみて攻撃に転じたい——などと考えられる余裕もなく、ただ本能的に体を狙う攻撃を剣で守るのが精一杯だった。身長差もさほど大きくはないはずだが、間近にまみえる彼は異常なほどに巨大に見えた。
ひときわ重い一撃に、剣を持つレイナの指が痺れる。それを感じた時には、ヘイスベルトの剣がレイナの剣をすり抜けていた。咄嗟に体を動かそうとするが、動けたかどうかも分からない。上腕に熱さを感じ、痛みを感じるよりも先に全身からどっと汗がふき出した。同時に、ほとんど力の抜けていた別の腕から、剣が弾き飛ばされる。
続く攻撃がレイナの体を狙う——そんな想像をして体も思考も固まるが、気づけばヘイスベルトは動きを止めていた。地面に剣が落ちる固い音が響き、レイナははっと思考を取り戻す。
ヘイスベルトはゆっくりと剣を鞘に戻した。
「勝負あり、ってことでいいかな。一緒に来てもらおうか」
二の腕から流れる血が、腕を伝う。だが不思議と痛みは感じず、それが指の先を伝って落ちる感触を覚えながら、レイナは首から下げた石に意識を向けた。頭の中をガンガンと脈打つような感覚がするのを、なんとか冷静に抑え込む。
レイナが口を開こうとした瞬間、ヘイスベルトの黒い瞳が眇められる。視線がまるでレイナを射るように刺さった。
レイナが声を出すよりも先に、ヘイスベルトの体が近くにあった。身を引くことしか出来なかったレイナは、彼の手がレイナの肩にかかると同時に足元を掬われた。あっけないほど簡単に足裏が地面を離れ、次の瞬間には背中から地面に叩きつけられていた。
目の前が白くなる。
胸を打つ衝撃と、次いで頭を打つ衝撃。今度こそ全身を襲った痛みから逃れられず、レイナは詰めていた息を全て吐き出した。思わず目ににじんだ涙が視界を歪め、真っ青な空に浮かぶ雲の白を歪めた。そこにヘイスベルトの姿が映る。レイナに近づき大きくなる手のひらをなすすべもなく見あげていると、それはレイナの首元からこぼれ落ちていた鎖にかかる。
「結局は魔術に頼っちゃうってのは、王都の人間の悲しい性だね。こんな近くにいて、精霊の名を呼ばせるわけがない」
間近にあるヘイスベルトの顔が、口元だけで冷たく笑む。彼は立ち上がると、再び腰の剣を抜いた。陽を浴びて煌めく刃の鋭さに息を飲むうちに、彼はそれを地面目掛けて振り下ろす。一瞬、レイナは自分の死を覚悟した。
が、痛みも衝撃も訪れはしなかった。
男は鎖から離れて地面に転がった太陽の涙を拾い上げると、改めて遠くからレイナを見下ろした。




