第一章(6/10)
一番近い町に着いたとき、レイナは想像よりも荒れた様子ではないことに安どの息を吐いた。自分は貴族として生まれ、貴族として暮らしてきた。王都では立派な屋敷が並び、城壁や道路が整備されていた。だが、外の世界には想像のつかない貧しさもあると聞かされている。
ここが標準的な町かはわからないが、文献で読んだよりもずっと清潔できちんとした場所に見えた。馬を引きながら歩いているせいか、すれちがっていく町人にぶしつけな視線を向けられはするが、レイナ以外の旅人もいる様子でさほど排他的な雰囲気でもない。
傾いた赤い日が、建物に長い影を落とす。町の中心を道が通り、その両側にいくつかの店が並んでいた。小さい建物が多いが、さほど古いわけでもない。ちょうど、閉める時間なのだろう。それぞれ陳列していたものを片付けていたが、もとは多くの品物が並んでいたのだろうことが分かった。今はだいぶ閑散としているが、昼間は活気にあふれている町なのかもしれない。年配の女性が袋詰めしている見たことのない野菜が目をひいたが、まずは食事か宿だ。店が閉まってしまうまでに見つけなければならない。そう思って左右を見回していると、ふいに声をかけられた。
「嬢ちゃん、どうしたんだその格好は? 怪我してるのか?」
すぐ傍の店から声をかけたのは、ちょうど父親くらいの年齢の男性だった。驚いたような彼の視線を受けて、レイナは自身の格好を見下ろす。砂にまみれた暗褐色の外套だが、それでも血に濡れているのはわかるだろう。頭や腕に包帯代わりの布も巻いているし、顔も少しだけ腫れている。それを隠すように頬に手を当てながら、レイナは小さな笑顔を返す。
「少しだけ。でも大丈夫」
「大丈夫って、女の子がそんな怪我をして。顔も腫れているし、冷やした方が良い」
彼はそういうと、すぐさま奥に引っ込んでいく。食事を出す店なのだろうか。看板が出ているわけではないが、陳列されているものはなく、代わりに椅子やテーブルが並んでいた。ただ、客らしき男が二人ほど座っていたが、何かを食べている様子はない。彼らはレイナのことを物珍しそうに見ていたが、視線をやると目がそらされた。
しばらく戻ってこない男性に、立ち去って良いものかとレイナが逡巡しているうちに、彼は戻ってきた。手にしていたのは、水にぬれた布だった。それで頬を示されたため、素直に受け取る。未だ痛んでいる箇所に当てると、ひんやりと冷たく心地よかった。
「ありがとう」
「見たところ、この町の人間じゃないみたいだが、ご両親は?」
十六にもなれば、両親と離れて一人で働いていてもおかしくない年齢であると思っていたが、ここではそうでもないのだろうか。レイナは答えに困って悩んでいたが、結局、曖昧な笑みを浮かべた。
「ちょっと事情があって今日は一人なの」
「そうかい。宿はもうとったのかい? まだなら急いだ方が良い。今の時期は旅人が多いから、こんな田舎町でも泊まれないことがあるよ。そんな連れがいれば特にね」
男が顎で示したのはレイナが引いていた馬だった。確かに、馬と一緒に泊まろうと思ったら、それなりに宿の条件が絞られるのかもしれない。盗まれる可能性は高いだろうが、町のはずれの木にでも括り付けておくほうがよかっただろうか。そんなことを考えていると、男が軽い口調で言った。
「良かったら、うちに泊まっていくかい?」
「え?」
レイナは視線を上げて、男と店内を交互に見やる。ここは宿屋だったのだろうか。そんな疑問を感じたのか、男は店内を示して言う。
「もともとは飯を出す店だが、たまに人も泊めてるんだ。厩舎みたいな立派なものはないが、裏庭に馬の一頭くらいは繋いでおけるよ。大した部屋は用意できないが、食事は期待してくれて良い」
くしゃりと顔にしわを寄せて笑う表情は、彼の大柄な体に似つかわしくなく、そのギャップが逆に人の良さを感じさせた。押しつけがましいところのない口調。レイナはほっとしながらも、少し首をかしげて見せる。
「甘えてしまっても良いのかしら? ご迷惑ではないの?」
「もちろん、食事代はいただくつもりだけど。お金は持ってるのかい?」
「一食と一泊でいくらになるかしら?」
男に示された金額は、レイナが考えていた相場よりもずっと安いものだった。それが男性の好意によるものなのか、この町の相場がそうなのかはわからなかったが、なんにせよ、渡りに船である。王都を出るときに少しの現金といくつかの貴金属類――現金は持ち出せる額に限度があるため、換金するためのものだ――を持たされているが、今のレイナにはいつ何があるかわからない。また、職について金銭を稼げるようになるまで、どのくらいかかるかもわからない。なるべくなら残しておきたい、という気持ちはあるのだ。
礼を言いながら提示された金額を渡すと、男性は馬を引いていき、裏庭につないだ。ちょうど良い場所にあった杭は、もともと馬を紐でつなぐためのものなのだろう。しっかりと結び付けられるのを確認して、男はレイナを中へと案内してくれた。テーブルの並んだ食堂を抜け、二階の部屋へと通される。そこは寝台しか置いていないこぢんまりとした部屋だった。だが、白い清潔そうなシーツがかけられ、開放感のある大きな窓もある。普通の宿屋がどのような部屋かはわからなかったが、屋根のある場所で眠れるだけでも十分だと考えていたレイナにとっては、文句のつけようもない。
彼は部屋の鍵のかけ方を教えてくれてから、にっこりとした笑顔を向ける。
「すぐに食事を用意するから、しばらくして降りてくると良い」
考えてみると、王都を出てからほとんど何も口にしていない。食事と聞いて、レイナはようやく空腹感を覚えた。これまで、空腹を感じる余裕すらなかったのだ、と思う。一階へと降りていく男に礼を言ってから、レイナは床に荷物を置いた。
窓の外を見やると、旅人らしい人が足早に歩いていた。宿を探しているのかもしれない。町中で野宿をするのは逆に難しいだろうから、都合よく宿が見つかって本当に良かった、と思う。当然だが、悪い人ばかりではないのだ。王都でも、レイナに冷たく当たる人もいれば、親切にしてくれる人達もいた。それはここに来たって変わらないのだろう。
汚れてしまった服を着替えてから階下に降りると、レイナのほかにも客らしき人達が食事をとっていた。男性に勧められた席に座ると、男の妻だろうか、店の女性がレイナの怪我の手当までしてくれる。
王都を出てから初めて食べる食事は、これまで食べていた食事と比べ物にならないほど質素なものではあったが、それでも空腹と安心感から感動するほどにおいしかった。