第一章(4/10)
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「アウラが戻ってきた」
ステフェンが言うと、リュートは驚いた顔をした。彼は部屋の中のいくつかの精霊を見回してから、最終的にステフェンの指先で遊んでいる風の民に視線を当てる。
「その子?」
ああ、と答えると、彼はまじまじと風の民を覗き込んだ。
風の民とは、風の元素を司る精霊である。魔術師が魔術を使う、と言うのは実のところ正しくなく、魔術師はこの地に満ちているそれぞれの気のエネルギーを、精霊を通して操っているに過ぎない。風の民以外にも水の民、土の民、火の民がおり、これらの精霊たちと、風水土火のそれぞれの元素がこの地を形作っていると考えられていた。
「いつ見ても、精霊が人に懐くってのは信じられないな」
「リュートには何に見えるんだっけ?」
「官能的な女性。風の民はみんな美人だな」
リュートがそう言って指先で机を叩くと、アウラは驚いたように姿を消す。次の瞬間には、ステフェンの鼻先にいた。きらきらとした青い光をまとうそれは、親指の先ほどの大きさしかない。ステフェンには羽が生えた可愛らしい妖精の姿に見えるが、精霊は見る人によって姿が違うらしい。男に見えるものもいるらしいし、獣や空想上の生き物に見えるものもいるらしいし、単なる光しか見えないものもいる。
そのため精霊というのは、実体がある訳ではなく、見るものの想像に依るのだと考えられている。
ふわふわと浮かんだアウラを見ながら、リュートは表情をかげらせる。
「いつ戻ってきた?」
「レイナが王都をでてすぐだよ。本当に、すぐだ」
魔術を使えないものが王都を追放されるのは、十六歳になる誕生日の正午と決まっている。それから馬車で郊外に連れて行かれ、外に放たれるのだ。陛下とともに視察に出ていたステフェンの元にアウラが戻ってきたのは、その当日の、まだ日も暮れぬ時間だった。
レイナに何かあったのだろう——としか思えない。
ステフェンはレイナに渡した太陽の涙に、アウラを閉じ込めていた。太陽の涙と呼ばれる鉱石は発見される際、精霊が閉じ込められていることが多い。原理は解明されていない。だが、魔術師はそれを使って魔術を放つことができたし、魔術を使えないものであってもある程度の理論を知っており、軽い訓練をすればそれに似た力を使えることがわかっている。とはいえ、一度、中にいる精霊を解放してしまうと中に戻すことはできないし、精霊を中に封じるのは、精霊を捉えて使役できる魔術師にしかできない。
レイナはもちろん、それをわかっている。だからこれは、本当に最後の手段として渡したのだ。彼女がそれを持ってくれている間は、きっと彼女が無事だということがわかる。——そんな気休めのようなものでもあったので、こんなに早く戻ってきたのは流石に想定外だった。
鼻先をかすめる青い光は、柔らかく儚げで、それを見ていると胸を焼くような焦燥感がわいた。だが、どうあってもいまさらレイナの行方など分かりはしない。助けることも、見守ることすらできやしない。
「レイナなら大丈夫だよ」
リュートはそう言ってから、ふっと自嘲するように笑った。
「——って言っても気休めにもならないけどな。俺はそう信じたい、というだけだ」
彼の言葉が胸に痛い。
レイナならきっと大丈夫。
自分でも何度もそれを唱えていたが、なんの意味もないことは分かっていた。ステフェン達には、仮に彼女の身に何かがあったとしても、それを知ることすらできないのだ。
——だが、そもそも心配する資格がステフェンにあるのだろうか。
ステフェンはレイナと一緒にここを出ることができなかった。彼女に止められたからではない。本気でレイナのことを想っていたのであれば、何を言われても彼女を説得すべきだったのではないか、と思うのだ。
そういう意味で言えば、ステフェンにははじめからその覚悟はなかったのかもしれない。貴族であることを捨て、陛下からの信頼を捨て、自分の持っている全てを捨てて彼女と一緒にここを逃げる、ということはできなかった。
彼女がステフェンと一緒に行くことを本気で望んでくれれば、違ったかもしれない。だが、レイナがそれを望まないことまで、きっとステフェンはわかっていた気がする。
「せめて、彼女の行方を探れれば良いんだけどな」
そんなリュートの呟きにも、力はない。
彼はステフェンのことを気遣って言っているだけではない。彼自身もレイナとは仲が良かったし、王都を出るレイナのことを本当に心配して、自分にできることはないのかと考えていた彼女の友人の一人だ。
リュートは十家に数えられるサフィラス家の跡取りであるが、まだ成人前の子供という扱いであり、父親であるサフィラス卿の目を盗んで何かを成せる立場にはない。その点、ステフェンはすでに一家の長として動いており、人を動かすことはできるのだが、ステフェンの補佐をしてくれる人々はすべて陛下の息がかかっていると言ってもいい。陛下に知られずにレイナを追うことなど出来やしない。
ステフェンは苦い気分を吐き捨てるように、言った。
「自分が無力で嫌になる」
あと十年。いや、せめて成人するまでのあと二年。
ステフェンが大人になり、リュートのような頼れる友人が大人になり、国の中枢に関わることができるようになれば、何かしら手はあるのではと思うのだ。陛下を説得して魔術師でない貴族を追放する制度をなくすことは難しいかもしれないが、少なくとも陛下の目を盗んで手を差し伸べることはできるのではないだろうか。
だが、そんな悠長な話ではないのは、戻ってきたアウラが証明している。
彼女はステフェンによって石の中に封じられたにもかかわらず、相変わらずステフェンを慕ってくれているようだった。何を言っているのかはわからなかったが、彼女はステフェンを慰めるように指先に身を寄せた。