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第三章(2/11)


「まさか、毎朝やってるわけじゃないわよね?」


 食器を洗うラウを手伝いながら言ったレイナに、彼は首を傾げた。


「何をです?」

「……アレイスの言う、挨拶みたいなもんよ」


 そう言ってもピンとはこなかったらしく、しばらく考えるようにしていたが、ようやく朝のキスを思い出したらしい。彼は落ちてきた袖をまくりながら、まさか、と言った。


「その割には驚いてなかったみたいだけど……」

「ちゃんと驚きましたよ」


 ちゃんと驚いた、という言葉もよく分からないが、そもそもそう言った彼の顔に、ほとんど感情がうかがえなかった。もともと感情の起伏の乏しい人間なのか、それともそれが表に出ないだけなのか、いまいちよくわからない。もしかしたら、感情というものがすっかり摩耗してしまっているのではないか——とも思っていたから、強く何かを聞くのも気がひける。


 彼の手の甲には切られたような傷がある。


 だが彼が今のように袖をまくっていると、その傷は手の甲だけでないというのがわかる。腕にも反対の手にも無数の傷があり、最初に見たときレイナは絶句した。彼はそんなレイナの反応にも特に気にした様子を見せなかったし、傷もすっかりと治ってはいるようだが、古傷と言うにはあまりに生々しい。どうやったらそんな傷が負えるのだろう。まるで拷問でも受けたかのような傷だ。少なくとも正面から戦ってこんな傷ができるとは思えないから、誰かに執拗に痛めつけられたのか。


 首や顔には傷はなかったから、人目に触れるのは手の傷ぐらいのものだが、もしかしたら服の下には他にも傷があるのかもしれない。何があったのだ、と軽々しく尋ねられるようなものでもなく、どうせ尋ねたところで答えてはくれないだろう、とも思う。彼は傷についてだけではなく、そもそも彼自身の話に全く触れさせてくれない。


 そんなことを考えていたからだろう、レイナの手から水に濡れたグラスが抜ける。ガシャンと大きな音がして、それは流し場で砕けた。


「ご、ごめんなさい!」


 慌てて拾おうとするレイナを、彼は静かに制する。


「大丈夫です。触ると怪我をしますよ」


 レイナを遠ざけてから、淡々と片付ける彼に、レイナはもう一度謝った。実は、こんな風に食器を割ってしまうのは三度目である。さすがに呆れられているかもしれない。


「……本当にごめんなさい。高価なものじゃないのかしら」

「値段はわかりませんが、必要であればアレイスがまた仕入れてくるでしょう。すぐに数が不足するわけでもありませんし、気にする必要はないと思いますよ」


 相変わらず声に感情は乗っていないが、きっと彼は優しいのだと思う。必要以上のことは話さないが、それでもちゃんと、こちらを気遣う言葉が入っている。彼はこちらを見るでもなく、黙々と割れたグラスを片付けていた。


「ありがとう」


 すっかりと片付けられた流し場を見て言ったレイナの言葉に、ラウはまた少し、考えるような顔をする。だが、結局、何も言わずに作業に戻った。


 彼は一日中、こうして生活している。朝から晩まで、ここで炊事をするなり掃除をするなり洗濯をするなりして働いているのだ。別に俺が頼んだわけじゃない、とアレイスは言っていたから、労働を強いられているわけでもないのだろう。特別楽しんでいるようには見えなかったが、それを苦痛に感じているようにも見えなかった。


 なんとなく、彼にいきなりキスを食らわせたアレイスの気持ちが、少しだけわかるような気がして恐ろしくなる。怒らせるでも、驚かせるでも、笑わせるでもいい。彼の感情が揺れるところを見てみたい——と、付き合いの浅いレイナですらそう思ってしまう。


「レイナは、無理して私に付き合う必要はないと思いますよ」

「え?」

「アレイスに私を手伝うように言われたそうですが、深い意味はないと思います。家事を体験してみても良い、くらいでしょう」


 無表情でそんなことを言われると、不安になる。どう見ても、誰かと一緒にいるのが好きなタイプではない。もしかしたら、私が毎日のように付いて回って何かを教わろうとしているのが煩わしいのかもしれない。


「ごめんなさい。私、ラウの仕事の邪魔になっている?」

「そういうわけではないですよ」


 そんな言葉も、感情が乗らないので本心なのかどうなのか、全く掴めない。彼ならばきっと、本当は邪魔に思っているのだとしても、こちらを傷つけないように否定するのではないかという気がした。レイナは少しだけ迷ったが、彼の言葉に甘えることにした。


「それなら、役には立っていないかもしれないけれど、私も一緒にさせてもらって良い? やったことがないから楽しいし、他にやることもないもの」


 レイナの言葉に、彼は特にこだわりもなさそうに頷いた。


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