序章(2/2)
「もしも、だけど」
風の音に紛れるような声が、レイナの耳に届く。
レイナが目を上げると、彼もこちらを見ていて、淡い色の瞳に吸い込まれそうになる。彼の瞳は部屋の灯りを反射してか、水面のようにゆらと揺れた。
「俺が視察中に抜け出すから、どこかで落ち合おう——と。そんなことを言ったら、レイナはどうする?」
思いがけない言葉に、レイナは息を飲んだ。
彼が優しいのは知っている。困っている友人や仲間を見捨てられない性格であることも知っている。実のところ、彼がレイナに好意を抱いてくれていたのも、知ってはいた。だが、それらを知っていたとしても、彼がそんなことを口にすることはないと思っていた。あまりに非現実的な申し出であるし、リスクが大きすぎる。
なるべく冷静を装って、レイナは言った。
「馬鹿なこと言わないで、って言うわね」
「そうだろうな」
ステフェンはそう言ってから、苦く笑った。そして少し迷うようにしてから、続ける。
「……馬鹿なこととは、分かっている。分かってはいるが、もう他には何も思いつかなかったんだ」
「国家反逆罪で一気に賞金首になったステフェンなんて、足手まといでしょ」
「逃げきる自信はあるよ。風の民が味方してくれる」
「ステフェンの魔術の腕が優れてることは認めるけど、上には上がいる。陛下が本気を出して追っ手をかけたら、ひとたまりもないわ」
レイナの言葉に、彼は口を開きかけたが、すぐに閉じた。ステフェンは決して楽観的な人間ではない。自分の申し出が無茶だということは、きっと彼だって始めからわかっているはずだ。
ステフェンの亡くなった父親は、陛下の弟にあたる。だから彼は幼少時代から陛下に随分と目をかけられているし、父親が亡くなった際には随分と面倒をみてもらったらしい。彼が陛下を裏切り、王都から逃げ出したとわかれば激怒するはずだ。そうでなくとも、力を持った魔術師が王都から逃げ出すこと自体が罪なのだ。必ず追っ手が出される。
その時、足手まといになるのは、きっと一緒にいるレイナだろう。いくら彼でも、魔術の使えないレイナを守りながら、逃げきることなどできるはずがない。
「だが、それでも俺はレイナを一人で行かせたくない」
彼は強い口調で続けた。
「王都の外はどこも治安が良くないし、泊まる場所や食べるものも十分にない場所も多い。排他的で、よそ者が嫌われるのはどの土地でも同じだし、郊外なんて国の定めた法など紙切れ同然の扱いだ。身寄りも頼る仲間もいない少女が一人で生きていける場所じゃない」
「そんなこと、ステフェンに言われるまでもないわ」
「それなら」
「だとすれば余計、そんなところにステフェンを巻き込む気はないもの」
自身を落ち着かせるように、一呼吸おいてから、つづける。
「ステフェンがわたしのことを可哀想って思ってくれてるのはわかるけど、わたしなら一人で大丈夫よ。わたしが強いの知ってるでしょ? 剣術だってステフェンには負けないもの」
「そういう問題じゃない。それに、同情して言ってるわけでもない」
強く首が振られる。そして、真摯、としか言いようのない瞳がレイナに向けられる。
「俺は、レイナと離れたくない」
逃げられない言葉に、息が止まるかと思った。
彼のまっすぐな視線に耐えられなくなり、レイナは目を伏せた。彼が自分のことを想ってくれていることを察していながらも、自分が彼のことをどう思っているかについては、ずっと考えることを放棄していた。
自分は一人で王都を出るのだ。ここにいる皆との別れは確定事項であり、誰にも覆すことはできない。ならばレイナは、ここに想いを残してなど行きたくない、と思っていた。
どうすれば彼を傷つけずに済むのだろう。それを考えているうちに、ステフェンの方が口を開いた。
「ごめん」
「……何を謝るの?」
「こんな時に困らせるつもりはなかったんだけど、ごめん。レイナにとっては俺がついて行くことが負担になる、ってのもわかってる。けど、やっぱり他に何も思いつかなかったんだ。——自分があまりに無力で嫌になる」
彼はそう言うと、ぐっと拳を握った。彼の目に涙はない、が、声だけを聞くと泣きそうな声にも聞こえた。そこまで自分を思っていてくれたことに、そこまで悩ませてしまっていたことに、苦い思いを感じながら、レイナは首を横に振る。
「ステフェンには、これまでたくさん助けてもらったわ」
そう言ってから、レイナは少しだけ笑う。
「私なら大丈夫。それにね、こんなことを言うと強がってるって思われると思うけど、私は外の世界に出ることも、少し楽しみにしてるんだから」
たしかに強がりの部分もある。そう考えなければやっていられないという部分もあるが、半分は本気の台詞だった。
十歳を過ぎても、十二歳を過ぎても、魔術を使えないというのはほとんど絶望的である。稀にそこから十六までに魔術の才がひょっこりと顔を出す者もいるらしいが、周りでは見たことも聞いたこともない。レイナもその時点で覚悟をしていたし、周りにもきっとそう思われていた。
魔術を使えない同胞を明らかに下に見る仲間もいたし、哀れむような言葉をかけてくる仲間もいる。同情する仲間もいたし、まだ大丈夫と励ましてくれる仲間もいた。ステフェンのように、本気で自分のことを考えてくれる仲間もいる。だが、いずれ自分は彼らとは違う道を歩むのだと、レイナは長らく諦めにも似たような気持ちを抱いてきた。
だからこそ、外に出れば何かが変わるのではないかと思っている。レイナは魔術を使えない。ここではそれが異端だったが、王都の外に出ればそれが当然なのだ。王都に住んでいる貴族とされる施政者の数は、国内の全人口の千分の一にも満たない。ステフェンやレイナが生まれたここは、実はとても狭くて小さく、ある意味でとても恵まれた世界なのだ。
ステフェンが言うように、王都の外の治安はかなり悪いと聞いているし、なんの縁もない女の子が一人で生きていくのは大変なのだと思う。が、それでも悪い人ばかりではあるまい。楽観的かもしれないが、生きてさえいれば少なくとも希望はある、と思うのだ。
「レイナは強いな。敵わない」
ステフェンはゆっくりと首を振った。そんな彼に見せつけるように、レイナは笑顔を向ける。
「いま気づいたの?」
「いいや。レイナに敵わないのは最初からわかってたけどね」
彼はこちらに歩み寄ってくると、こちらの目の高さに何かを掲げて見せた。鎖がつけられてゆらりと揺れたそれは、ロウソクの灯をうけてきらりと輝いた。とろけるような、琥珀色の光。それが何かわかったレイナは、微かに息を飲む。
「太陽の涙じゃない」
「風の民の加護だ。レイナに持っていてほしい」
「……謹慎くらいじゃ済まないんじゃないの?」
「ばれればな」
太陽の涙というのは、鉱石の一種である。特別に希少なものというわけではないが特殊なもので、国で大切に管理されている石だった。いくらステフェンとはいえ、それを手に入れようとしたらまともな手段は思いつかない。彼はそれをレイナの手のひらに落とすと、逡巡するような表情でこちらの顔を見る。やがて、ぽつりと言った。
「俺にできるのは、本当にもうこれくらいだな」
「十分すぎるくらいよ。ステフェンが責任を問われないことを祈ってるわ」
「俺のことなど気にする必要はない。レイナは、レイナの身を守ってさえくれればいいんだ」
彼はレイナに触れられるだけの距離に立っていたが、その距離を詰めることはできないように見えた。彼はレイナを抱きしめたいと思っている——そう考えてしまうのは、自意識過剰だろうか。だが、仮にそうだとしても、きっとステフェンはレイナに触れはしない、という確信もあった。
「これでお別れね?」
「……俺は明日は学舎には行かないし、俺が陛下の視察から帰った時にはレイナはもういないだろうな」
彼はそう言ってから、首を横に振った。
「別れは言いたくないな。俺はレイナとまた会えると信じているから」
「それなら、私も言わないでおくわ」
「ああ」
彼はそういうと、またな、と言った。
レイナも、またね、と返す。
しばらく彼はレイナの顔を見ていたが、やがて窓から身を翻す。あっという間に、彼は窓から地面に飛び降りた。
暗闇の中で彼がこちらを振り返った気配だけが分かった。
〜〜
レイナは持ってきていた剣と鞄を拾い上げる。
促されるがままに馬車を出ると、真っ白な光が目を刺した。強い太陽の光で、瞳の奥が強く痛む。目の端で涙がにじんだ。やがてそれに慣れると、外に広がる光景が目に飛び込んできて、レイナは思わず息をのむ。
辺りは見渡す限りの赤茶けた大地。ところどころに岩場があり、大きいものはまるで山のように地面から屹立していた。足元は乾いた赤土でおおわれ、強く吹いた風が土埃を巻き上げる。どこまで遠くをみても同じ景色が続き、視界の奥では白けた空と黒い地面がぶつかった。草や木の緑は全く見当たらず、水辺や川もない。こんな場所では、人はもちろん動物や虫だって生活できないだろう。実際に、視界の中に生き物らしきものは見当たらない。
王都では見ることもない途方もない光景に、自分の居場所を見失うような、そんな感覚に襲われた。足元の地面が揺れている気がするのは、馬車に長く乗っていたから、というだけではないだろう。話には聞いていたが、予想以上に外の世界は広大である。レイナが生まれてからずっと暮らしてきた場所は、世界のほんの一部だったのだ、と改めて認識した。
「寒期に外に投げ出されるよりはマシよね」
自分を奮い立たせるために、あえて独り言を言った。しばらくは野営しなければならないことを考えると、やはり暖かい方が良い。生まれる日月は選べないから、運が良かったのだ。前向きに、そう捉えてみる。
レイナを王都の屋敷からここまで運んできた馬車は、レイナを下ろすとすぐに全速力で走り出した。馬車の姿が豆粒ほどに小さくなり、ついに視界から消えてしまうまで、レイナは視線をそらすことができなかった。何も見えなくなってから、レイナはようやく地面から荷物を拾い上げる。そして馬車の中で渡された地図を広げた。
「よし」
立ち止まっていても、仕方がない。
ここからは本当に一人で生きていかなければならないのだから。
レイナは町のあるだろう方向へと、歩き出した。