第二章(5/10)
アレイスはあれ以来、本当に出かけてしまったのか、全く姿を見せなくなった。ラウも食事を運んできたり、包帯をかえにきたりする以外にはレイナのところに寄り付かない。一体彼らはどういうつもりなのだろう。狭い部屋に閉じ込められたまま、ただただ時間だけが過ぎていく。
レイナは起きているほとんどの時間を、窓辺に寄せた椅子に座って過ごしていた。
そこに座ると、格子越しに外の景色が見られる。部屋の下は、どうやら建物の裏庭になっているようだった。それなりに広さのある庭だが、物は何も置かれていないし、周囲はぐるりと囲むように壁がある。十分に手入れがされているのか、草は生えているが雑草が生い茂っているという雰囲気ではない。
壁の向こうには、いくつかの建物と整備された道が見えた。さほど栄えている町でもないのか、それともこの建物が町の外れにあるのかはわからないが、行き交う人の数はそう多くない。
ふと視界の端で何かが動いて、レイナは庭を見下ろした。すると男の子が二人、こちらを見上げている。レイナと目があうと、黒髪の子はにっこりと笑顔を作った。もう一人の茶髪の男の子は、少しだけ会釈するように頭を下げる。彼らは昨日も庭で遊んでおり、その時にも同じように目があった。
二人とも十歳前後に見えるので、まさかアレイスやラウの息子ではあるまい。——とは思うが、それならどう言う関係なのだろう。アレイスの弟なのか、親族なのか。だが屈託のない笑顔で遊んでいる二人を見ていると、どうにもアレイスの雰囲気には似つかわしくないような気がした。レイナが閉じ込められているこの建物は大きいようだし、もしかしたら、彼ら以外の関係のない人間も暮らしているのかもしれない。
「こんにちは!」
にっこりと笑顔を向けてきた男の子が、大きな声で言った。昨日は声をかけてこなかったから、こうして話しかけられるのは初めてだ。子供特有の明るい声に少し温かい気持ちになったが、心配にもなる。彼らはレイナと関わって良いのだろうか? あとでラウやアレイスに怒られやしないだろうか。
「こんにちは」
小さな声で返す。ラウが隣の部屋にいるかもしれないから、と小声にすると、ほとんど口を動かしただけになった。わからなかったかもしれないから、せめて笑顔を向ける。
「ちょっと待っててね」
男の子はそう言うと、一度、建物の中に消えた。次に現れたときには、自分たちよりもずっと大きなハシゴを抱えていたので、レイナは驚いた。彼らは二人がかりで折りたたまれたハシゴを伸ばすと、それを建物に立てかけた。何をしようとしているかはわかったが、あまりに大胆な行動だ。
「ちょっと、何してるの? 大丈夫?」
思わず大きな声が出る。
茶髪の子がハシゴの足元を押さえて、黒髪の子が登ってくる。ぐらと揺れるたびレイナはハラハラとしたが、子供の方は気にもならないらしい。軽い足取りでとんとんと登ってくると、ちょうど目の辺りが窓枠の下まできたところで止まった。ハシゴの一番上がそこらしい。
「こんにちは」
もう一度、大きく挨拶をされて、レイナは目を瞬かせる。思わず、こんにちは、と繰り返してから、彼の目線に合わせてしゃがみこんだ。ラウが隣の部屋にいれば彼らの声は聞こえているだろうし、姿も丸見えだろう。意味はない気もしたが、一応は小声で言う。
「こんなところまで来てくれたのは嬉しいけど、ハシゴに登って遊ぶのは危ないんじゃない? 早くおりた方がいいわ」
「別にここから飛び降りても怪我しないよ。飛んでみようか?」
言われてレイナは慌てて首を振る。
「やめてやめて。どうしたの? 私に何か用?」
「うん。レイナさんとお話ししたいと思って。怪我はもう大丈夫?」
名前を呼ばれて、レイナは息を飲む。
「私の名前、誰に聞いたの?」
彼は少し首をかしげてから、アレイス、と言った。
「あなたの名前は?」
「僕はクルーだよ。下のはリュカ」
「二人はアレイスの知り合い?」
「うん。レイナさん、元気になったみたいで良かったね。アレイスが連れて来たときは全然動かなかったから、このまま目を覚まさなかったらどうしようって心配してたんだ」
本当にほっとしたような顔で言われて、レイナはありがとうと言った。
にこりと笑顔を作りながら、だが、こんな子供のことすら信用できないと考えてしまっている自分にも気づいていた。以前、レイナの荷物を奪ったのは、彼らよりもさらに幼い子供だった。彼の狙いは何だろう——心のどこかで、そんなことを考えてしまう自分が嫌にもなる。だが、彼は子供とはいえ、アレイスの知り合いだと言っている。多少は警戒しても悪くはないだろう。
「二人ともここに住んでいるの?」
「そんなものかな」
そんなものとは何だ。
子供らしからぬ返答に、ますます警戒心が深まる。だが、彼はそんなレイナをまっすぐに見上げると、まるでこちらを励ますように、大人のような口調で言った。
「レイナさん、何か僕たちでできることがあったら言ってね。そこから出してあげられないし、アレイスからは近づくなって言われてるんだけど、退屈だったら話し相手になれるし、お見舞いのお花くらいは持ってこられるから」
そう言って彼は肩に下げていた袋から、花を一輪だした。レイナにそれを差し出してくる。大きなオレンジ色の花弁がついた花を手渡され、レイナは思わず部屋の中に置かれた花を見る。机の上に置かれた一輪挿しの中の花は、レイナが目を覚ましたときには綺麗な赤い花を咲かせていたが、今はもうすっかりしおれてしまっていた。
「もしかしてこれ、クルー達が?」
赤い花を指して言うと、彼は嬉しそうに頷いた。
「たくさん怪我をしてたから、早く元気になればいいなって」
その言葉に、レイナは一気に彼に対する印象を変えた。
何となく、アレイスやラウという人物達と、部屋に花を飾るという行為が結びついていなかったから、違和感があったのだ。誰がなんのために、とずっと思っていたから、もやもやが晴れてすっきりする。
体を起こすのが辛かったとき、寝台からなんとなくこの花を眺めていることが多かった。窓から見える空の青に映える赤い色。特別に花が好きだと思ったことはなかったのだが、しおれてしまった時には本当に悲しい気持ちになった。たかが一輪の花、だが、ここに閉じ込められているという焦燥感や疲労感、それから諦めのような感情を幾度となく慰めてくれた。
「嬉しい。ありがとう」
手の中の美しいオレンジ色の花に鼻をつけると、とても良い香りがした。レイナは笑顔で少年を見る。今度のありがとうは、心の底から言うことができた。