第一章(10/10)
荷物がない、ということは現金をすべて失ってしまった、ということだった。また、着替えや水袋などの身の回りのものもすべて無くなってしまった、ということでもある。荷物に入っていた貴金属もなくなった。現金に換えればかなりの額になったと思うが、それはもう言っても仕方のない話だ。失ったものは大きい。
もちろん、鞄が盗まれることを想定しなかったわけではない。小さな指輪や宝石は服に仕込んでいたし、護身用のナイフなども服に仕込んでいる。剣は奪われていない。万事休す、というわけではない。とは思うが、これからどうしたら良いか、全くわからなかった。
レイナは建物の影に入ると、壁を背にするようにしてずるずると座り込んだ。熱いのか寒いのかわからなかったが、冷えた汗が出る。目をつぶったら、今すぐにでも意識を失ってしまえそうだった。額に掌を押し付けると、びっくりするほどに熱い。ずっと体が重かったのは、熱が高かったからなのだろう。何かの病気だろうか。それとも、怪我をした傷口を放っておいているからか。
王都を出てから、何日が経っただろう。六日か、七日か。最初に立ち寄った町を逃げるように飛び出てからも、ろくな目にはあっていない。馬も荷物も奪われ、今まさに体力も気力も底をつこうとしている。
まさか、これほどまでにレイナの常識が通じない場所だとは思わなかった。誰もが敵で、レイナに危害を加えようとしていて、金目の物を見るとすぐに奪っていく。いくら貧しい町とはいえ、そんなことはありえないと思っていたのは、世間知らずのお嬢様の考えだっただろうか。
どれくらいそうしていただろう。
足音が近づいてきて、レイナは顔を伏せた。汚れた外套を身に着け、フードですっぽりと頭を覆っていたから、相手には男か女かわからないだろう。本当は逃げ出したかったが、立ち上がって走る気力はもうない。何事もなく通り過ぎてくれることを祈っていたが、二対の足はレイナの前を行きすぎようとして、止まった。
「おい」
レイナに向かってかけられた声ではない。男同士で密かに交し合った短い言葉。それから小声で何かを言い合った。何を言っているかはわからなかったが、笑いを含んだ声に、レイナは身の危険を感じる。逃げ出した方が良いだろうか。そう思っていると、いきなり右肩に激しい痛みが襲った。
同時に耳に響いた、がしゃんという大きな音。肩が外れたのではないかと思うほどの衝撃と痛みがレイナを襲う。ちかちかとする視界に、剣の鞘が見える。それでレイナを打ったのか。思わず漏れてしまった声に反応するように、男の低い声が降ってくる。
「ん? 女か?」
一人がそんなことを言って、乱暴にレイナのフードを剥いだ。顔をつかまれ、無理やりに上を向かされる。男たちはレイナを見ると、驚いたような顔をしてから、楽しそうに口笛を吹いた。
「汚れてるが、随分と綺麗な女じゃねぇか。ご立派な剣を持ってるから、どこぞの金持ちか、どっかの傭兵が行き倒れてるのかと思ったが」
「こんなところで何してるんだ? お家がわからなくなったのか?」
男たちはそう言って笑ったが、肩の痛みと顎をつかんでいる強い手の痛みに、レイナの顔は歪む。レイナを片手でつかんでいる男は、もう一方の手でレイナの外套の下からのぞいていた剣を無理やり外した。慌てて手を伸ばそうとするが、鞘で打たれた肩はひどく痛んで、全く動かすことができない。男はレイナから奪った剣を値踏みするように見てから、それを仲間へとほうった。それを受け取った仲間も、満足そうにそれを見る。
「想像以上の上物だな」
「こっちの女もな。――行く当てがないのなら、良いところに連れてってやるよ」
座り込んでいるレイナに合わせるようにしゃがんだ男は、顔を歪ませるようにして笑った。自由になる方の手でその顔面を引っ叩いてやろうか、と。思わずそんな衝動に駆られるが、それをしたところで相手を怒らせることはできても、逃げることも状況を打開することもできない。どうしようもない状況に、思わず涙がにじむ。
「そんな泣きそうな顔をすんなよ。綺麗な顔が台無しだぜ」
男はレイナの顎を持ったまま、剣と同じようにレイナの顔を値踏みする。舐めまわすような視線に鳥肌が立ったが、レイナは目をそらすことすらできなかった。首にまで指がかかる大きな手は、強い力でレイナを押さえていたのだが、その力がいきなりすっと抜けた。
気づけば、先ほどにはなかったはずの、黒い紐が男の首に巻き付いている。何が何だかわからないままに目の前の男の目が赤く充血していき、苦し気に口が開かれる。男はレイナから手を放すと、今度は自身の首に巻き付いた紐にすがるように手をかける。
唖然としたレイナが視線を上げると、そこに立っていたのは見たことのある男だった。先ほどレイナに付きまとっていた若い男。彼はレイナの視線を受けて、楽しそうに口の端を上げた。
「随分と久しぶりだな。困ってるなら助けてやろうか」
レイナの後をついてきていたのだろうか。何かを言おうとレイナは口を開いたが、言葉は何も出てこなかった。そんなレイナの思いを汲んだのか、男は首をかしげる。
「別につけてきたわけじゃねぇよ? 俺の家がここの近くでね」
軽く言った男の足元に、倒れた男の仲間を見つけ、レイナは息をのむ。いつの間に、倒れていたのだろう。悲鳴の一つも聞こえなかった。
「で、どうする? 助けようか?」
「助けてくれるの?」
「もちろん。素直に俺のところに来てくれるならな」
そんな条件も、先ほどまでと全く同じ口調で告げられた。真剣みのない、軽いとしか感じられない言葉。言った表情にも、こちらの反応を面白がっているような色がある。
「……行かないっていったら?」
レイナの言葉に、男は可笑しそうに目を細めた。
「もったいないが、この紐を外してそれだけだな。こいつらの慰み物にでもなる方が好みなら、仕方ない。趣味は人それぞれだからな」
男は黒い紐のようなもので首を絞められているが、完全に窒息させられているわけではないらしい。レイナを連れて行こうとした男二人はある意味わかりやすかったが、こちらの男は得体が知れない。
「わたしを連れて行って、どうするつもり?」
「別に? まあ、美人に対してしたいことなんて、そう多くはないと思うけどな。もちろんちゃんと医者に診せて、優しく看病してやるよ?」
そう言って笑った男に、レイナは深くため息をつく。
どちらにせよ、レイナに選択肢などほとんど残されていないのだろう。生きるか、死ぬか、殺されるか。壁に頭をつくと、痛む肩にもう一方の手で触れた。考えるのも面倒になって目を閉じた。視界が暗くなると、急激に意識が引いていく感じがする。
「おい、どうするんだ?」
遠くで男の声が聞こえた。今はこの選択が、少しでもマシな方に転がっていく、と信じることしかできない。
「とりあえず、助けてくれる?」
あとはあなたの好きにすればよいわ——と。そう言ったつもりだが、そこまでが声になったかどうかはわからない。