第一章(9/10)
若い男。レイナよりは年上だろうが、十も上ということはないだろう。長身で手足が長い。引き締まった体には、過度な筋肉も脂肪もついていないように見える。剣は下げていない。持っている荷物もない。身に着けているのは、ゆったりとした動きやすそうなズボンに、素肌がのぞく白いシャツが一枚。小さなナイフのようなものなら別だが、大きな武器が隠せそうな場所もなかった。外套も身に着けていないから、この町の人間なのだろうか。
周りに人はいない。少なくとも、彼の仲間はいないように見える。
――勝てるだろうか、とレイナは考える。
相手は素手でこちらには剣がある。だが体調は最悪で、立ち上がることにさえ全力を振り絞る必要がある。
「大丈夫か?」
男はそう言って、今度は掌を差し出してきた。地面に座り込んでいるレイナを立たせようとしているのはわかったが、大きな手と彼の顔を見比べて、最終的には視線だけを彼に返した。瞳の茶色と似た明るい髪色と、意外と整った顔貌。全く飾り気のない服装に身を包みながらも、どこか人の目を惹く雰囲気を持っていた。一見して、悪い人には見えない。が、特別に善良な人間にも見えない。
攻撃してくる様子はなかったが、知らない人の手を取る気になれず、レイナは両手を使って体を起こした。立ち上がるのはひどく億劫に感じたが、これ以上、他人に弱みは見せたくない。体勢を崩さないようにゆっくりと立ち上がると、服についた土埃を払う。
「大丈夫。心配してくれてありがとう」
にっこりと形だけの笑顔を作って男に向けた。形だけではあるが、まだ自分が笑顔を作れたことに安心した。彼は差し出した掌を見下ろして肩をすくめると、どういたしまして、と言った。そんな男に、レイナはさっと背を向ける。目的地はなかったが、とにかく彼のもとから去ろうと足を進めた。
しかし、男は意に反してレイナと同じ方向に歩を進めてくる。しばらくは放っておいたが、角を二つほど曲がったところで耐えきれずに声をかけた。
「何か用なの」
「困ってるなら、俺で良ければ力になるぜ」
口の端を上げて言われた言葉に、レイナは眉根を寄せる。何も言い返さなかったレイナに、男はさらに続けてくる。
「ここの人間じゃなさそうだが、荷物も盗まれて、金もないんじゃ行くところもないんじゃないか?」
「荷物って。見てたわけ、全部」
レイナが子供に荷物を盗まれて、子供を追っているところを見ていたのだろう。それでいて、レイナを助けるでも子供を追いかけるでもなく、ただ見ているだけだったのだ。そもそも、彼以外にも人はいたと思うが、誰一人として、レイナを助けてくれようとはしなかった。そう考えると、怒りを通り越して諦めの気持ちが強くなる。やはり味方はいない、と改めて思う。
そうしたレイナの思いを察したのか、男は軽く手を振って笑った。
「助けられたら助けてたぜ? だが、荷物を持ってった方はもう路地に逃げ込んじまったし、あのちっこい子を捕まえても無駄だ。ああいうのは、単なる囮で、奴らにとっては仲間でもなんでもないからな」
「そう。ご親切にどうもありがとう」
会話を切り上げるように強く言ったレイナに、なぜか男はおかしそうに笑った。馬鹿にしたような笑いではないが、何がおかしいのかわからないのに笑われるのは不愉快でしかない。レイナは顔をしかめながら問いかける。
「何かおかしいのかしら?」
「いいや、たくましいなと思って。さっきから自分の足元があぶなっかしいの気づいてるか? 右足も痛めてるみたいだし、ひどい熱もある。そんな体で良く歩けるもんだ」
「熱?」
歩けないほどではないが、右足首には確かに痛みがあった。いつ痛めたのか、正確なところはわからなかったが、数日前に窓から飛び降りた際かもしれない。だが、熱があるという自覚はなかった。
「気づいてないのか? こんなに熱いのに」
また額に向かって無造作に手が伸ばされてきて、レイナは慌ててそれをはねつける。先ほど、彼がレイナの首筋に手をやったのは、それを確かめるためだったのか。彼は手を払われても、面白そうに口の端を上げるだけで、全く意に介した風ではなかった。
「家や宿はあるのか? 医者に連れて行ってやろうか」
「家はある。家族もいるわ。心配してくれなくても大丈夫よ」
「じゃあ、家まで送っていこう。どっちだ?」
話しているうちに頭痛がひどくなって、こめかみに指をあてた。熱があるせいか、男に付きまとわれているせいか。ふらついた足が地面につまずいて、転びそうになった。大丈夫か、と軽い口調で言ってくる男を無視すると、レイナは睨み付けるように男を見据えた。
「本当に親切で言ってくれているなら、ほうっておいてくれないかしら?」
「親切で言ってるんだ。あんたのいた所じゃ知らないが、ここでは弱ってる人間は格好の餌食になる。いまのあんたを放っておいたら、変な男たちに路地裏で乱暴されて殺されるか、娼館にでも売り飛ばされて一生をそこで暮らすか、どっちかになると思うぜ?」
物騒な台詞をさらりと言った男の目には、やはり真剣なものはない。口元は楽しそうに笑んでいるし、茶色の双眸もこちらの反応を面白がっているようにしか見えず、レイナは彼から目をそらす。
速足で彼をまいてしまいたいが、足は鉛がついたように重く、一歩を進めるだけでも気力を振り絞る必要があった。熱がある、と言われてしまったことで、さらに自分の体調の悪さを感じてしまう。当然のようにレイナの後をついてくる男に、意を決してレイナは足を止めた。
ぐらつく地面に力を入れてまっすぐに立ち、真正面から彼を見上げる。
「ご忠告ありがとう。あなたみたいな変な男についていくなってことでしょう」
これ以上、自分についてくるな——と。そんな思いを込めて出来るだけ強い口調で言った言葉に、彼は少しだけ考えるような顔をしていたが、やがて肩をすくめた。
「まあ、警戒することは良いことだと思うけどな」
飄然とした、何を考えているのかつかめない表情は変わらない。だが、レイナが足を進めても彼が動きだす気配はなかった。諦めたのだろうか。しばらく歩いてから、角を曲がる直前に彼の方にちらりと視線を向ける。彼はその場から動いてはいなさそうだったが、もうこちらを見てもいないようだった。それに安心したものを感じながらも、だが、この先どうしたら良いのか途方に暮れる気持ちの方が強かった。
行くあてなどない。どこに向かって歩いたら良いのかわからない。
だが、ひとまず歩くしかない。