序章(1/2)
カーテンを開けると、すぐそこに人の顔があった。
レイナは思わず声を上げかけ、それをなんとかそれを飲み込んだ。外にいる人影はよく見ると十分に見覚えがあったものであったし、そこにいる人物が必死に唇に指をあてているのが見えたからだ。
「ステフェン」
レイナは慎重に窓をあけ、息を吐きながら名を呼んだ。
控えめにガラスを叩くような音が聞こえたのだが、まさか本当に人が叩いている音だとは思わなかった。外では昨日までの嵐の影響で風の音がうるさいくらいに鳴っていたし、外は真っ暗でとっくに眠っていてもおかしくない時間なのである。
そしてここは三階の寝室であり、バルコニーのように人が立てる場所があるわけでもない。
「こんばんは。随分と珍しいところで会うのね?」
窓枠にしがみつくように立っている彼に、レイナはにっこり笑って声をかける。彼――ステフェンは、そんなレイナに曖昧な笑みを返した。
色の白い肌に、色素の薄い金髪、淡い青色の瞳。この国の貴族としてはごく一般的な色合いを持つ彼は、窓の外にあっても部屋の灯りに明るく照らされ、闇夜に溶け込む気配はなかった。目立たないようにか、いつもは着ない黒い上着をはおってはいたが、首から上の白さは隠しようもない。よく誰にも見つからずにこんなところにまで来られたものだ、と思う。防犯上、王都では夜間でも通りの灯りが絶やされることはないし、不寝番も定期的に巡回しているはずなのだが。
「怒ってる?」
「こんな時間にこんな場所から女性の部屋をのぞき込んでることを?」
レイナの言葉に、ステフェンは首をすくめるようにする。
窓から顔を出すようにして、彼の足元を確認した。どうやら壁にある狭い出っ張りのようなところにつま先をかけているだけで、いつ足を滑らせて落ちてもおかしくない場所にいるらしい。どうやって登ってきたのだろう。ろくに視界も利かない暗闇で、随分と器用な真似をする。
「無礼は百も承知だし、手をついて謝りたいのはやまやまなんだけど、この場所だとちょっと厳しいかな……。ごめん。謝るから、刃物は手放してくれないかな?」
言われて、レイナは自分の手を見下ろした。最近、枕元に置くようにしていた護身用のナイフを、無意識に手に取っていたらしい。
「そうね、ナイフなんてなくても、いつでも退場してもらえるわね」
レイナは肩をすくめて手の中のナイフを傍らの台に置いた。代わりに空いた手で彼の前髪に指を触れようとすると、ステフェンは困ったような表情を見せた。このまま彼の頭を押せば、簡単に突き落せる。そうは思いながらも、レイナは手を差し伸べる。窓枠を越えるのに手を貸そうと思ったのだが、彼はさらに困った顔をした。
「こんな時間に部屋にあがるのは非常識かな、と思うくらいの分別は一応あるのだけど」
「そのままでいる気なの? 灯りが付いているから、外から丸見えよ」
人目を避けて話がしたかったから、こんな時間にこんな場所からやって来たのだろう。部屋の灯りを消せば外からは見づらくなるだろうが、そうすると彼の顔が見えなくなる。ステフェンは少しだけ迷ったようだったが、やがて頷いた。
「……そうだな、助かる」
彼はレイナの手は取らなかった。ふっと力を入れるようにして飛び上がると、窓枠に膝をつけた。窓がみしりと嫌な音を立てたが、壊れるほどではない。レイナが場所を譲ると、彼はそのまま部屋に入り込み、床に足をつけた。
「人の部屋に土足で上がり込むなんて、良い度胸をしてるわね」
「今日だけだ。許してほしい」
本当に申し訳なさそうに言った彼に肩をすくめてから、レイナは素早くカーテンを閉めた。
無理な姿勢でしがみついていたのだろう。ふう、と息を吐いて軽く肩を回した彼を、改めて見つめた。いつもの制服姿ではなく、黒い外套で身を包んだ彼は普段より大人びて見えた。年齢より少し幼く見える顔立ちは昔から変わらないが、身長はいつの間にか追い抜かれている。彼ももう十六なのだ。
レイナももうすぐ、十六になる。
「こんな夜中にどうしたの? 明日もまた学舎で会えると思うんだけど」
レイナは平常心を装いながらそう言った。彼の目を見られなかったのは、後ろ暗さがあったからだろうか。最近、彼と二人きりになるのをさりげなく避けていたのはレイナの方である。彼はそれに気づいていただろうか。
「もう会えない」
「え?」
目を瞬かせる。レイナが王都を出て行くのは、レイナの十六の誕生日と決められていた。まだ一週間は猶予がある。どういう意味かと問いかけるレイナに、彼の青い目がひたと当てられた。
「俺が先に王都を出る。と言っても、陛下の視察につき合わされて、二週間だけだけどね」
「二週間? いつから?」
「明日の昼にはもうここを立っているはずだ。今日決まった」
感情のこもらない声で告げられた言葉に、レイナは息を止めた。
ということは、彼が王都に帰ってくることにはもう、レイナはここにいないのだ。いきなり突きつけられた言葉に、何を考えれば良いのかわからなくなった。ステフェンをはじめとして、ここにいるみんなと別れる心の準備はできていたはずだ。だが、あと七日ある。別れの言葉はまだ、考えていなかった。
「随分と急な話ね?」
「陛下の気まぐれだよ。いつものね」
さらりと告げられた彼の言葉が、レイナの心に引っかかる。
彼は王位継承権こそ持っていないものの陛下の甥にあたる。また、父親が亡くなったことによって、ステフェンは未成年ながらもベラルト家の当主となっており、たびたび公務に似た仕事を行なっていた。彼が陛下の視察に付き合うというのもさほどおかしな話ではない——が、それにしてもあまりに急な話だった。
「もしかして、陛下に何か言った?」
「何かって?」
「ステフェンがわたしの見送りをするのを邪魔したくなるような何かよ」
レイナの言葉に、ステフェンは黙って首を横に振った。
ここカエレスエィスは、魔術師が治める国である。
魔術を使うことのできるのは、国民の中でもほんの一握りの人間だけなのだが、その魔術師たちのほとんどが国の首都である王都に集まっている。もともとカエレスエィスという国家が、人間たちに虐げられていた魔術師達が反旗を翻し、建国したという歴史を持っているからだ。
よって王家の人間は勿論、周りの貴族も全員が魔術師である。そればかりか、一般市民であっても、魔術を使うことができさえすれば、貴族になる資格を持つ。逆に貴族の家に生まれたとしても、魔術師の素養を持たない人間は貴族ではない。——施政者というのは力を持たなくてはならない、と言うのがこの国の大前提だからだ。
一般的に、魔術の習得には個人差がある。
魔術を使うためには精霊たちを使役する必要がある。物心付いた時から精霊と共に生きているような魔術師もいれば、急に精霊の姿が見えるようになる子供もいる。一方で精霊を見ることができず、精霊を使役することができないものは、十六になったときに選択を迫られることになる。
貴族として処刑されるか。身分を剥奪されて王都を追放されるか。
レイナはそもそも精霊の姿を見ることも感じることもできていない。もうすぐ十六になるが、自分にはその才能は与えられていないのだろう、と何年も前から諦めていた。
死を選ぶつもりは毛頭なかった。王都を出ることについて抗うつもりもない。レイナはもう何年も前から王都を出ると決めて覚悟をしているのだ。だが、幼い頃からの友人である彼は、そんなレイナのためにいろいろと力を尽くしてくれていた。もしかしたら、最終手段として陛下に直接何かを訴えたのかもしれない。
そう尋ねたレイナの考えを、彼は否定した。
「考えすぎだよ。陛下の視察は三か月も前から予定されてる」
「でも、ステフェンが同行するのは、今日いきなり決まったんでしょう?」
「陛下のいつもの気まぐれでね。——それはいい、どうせ俺に拒否権などないんだ」
彼はそう言って強く首を振る。
「だからどうしても今日、レイナに会っておきたかったんだ。こんな時間に本当に申し訳ないと思ってる」
「来てくれなかったら、もうこのまま会えなかったのでしょう?」
お別れに来てくれたのだろう。
心の整理はできないまま、レイナは笑顔を向けた。
彼はそんなレイナを何とも言えない表情で見ていた。ステフェンは何かを言いかけてから——口を閉ざした。お別れの言葉を探しているレイナと、黙ってしまったステフェンの間に、長い沈黙が流れた。窓から入ってくる風は涼しく心地よかったが、心にたまる重たい何かを払しょくしてくれるほどの強さはない。