(上)
賑やかな夏も終わり、秋の虫達のコーラスに移り変わる季節。
丹羽屋結城は季節とは無縁の生活だ。
春はなく、夏はなく、秋はなく、そして冬はこない。彼にとって季節とは、肌に対する刺激への備えの違いでしかないからだ。
今日も目覚まし時計が鳴る。通年変わらない布団から起き上がり、時計を止め、顔を洗うついでに軽い体操に運動を終えれば、寝巻きをスーツに着替えて仕事へと向かう。
片手には革靴とそれに使うブラシやヘラが同じ半透明のプラスチックケースに突っ込まれたものと、使いもしないが、持ち物検査でチェックされるスーツケースに必要最低限。佑樹のいつもの装備だ。
擦り切れたというには、まだ新しい靴底がアスファルトを打ち、気乗りしない体を会社へと導く。
結城にとって人生最大で最後の幸運は、彼の働く会社は自宅から徒歩二〇分圏内ということだ。
そして人生最悪から五指に入るのは、会社に着くと、貼り紙が出されていたこと。〈まことに勝手ながら〉の一文から始まり、要約すれば倒産、経営者は夜逃げというものだ。今日は給料日だった。
「帰ろーぜ」
悪態を吐く者、会社だったものの入り口を蹴飛ばす者、嘆く者、悲嘆にくれる者様々だが、少なくとも笑って済ませられた社員は一人もいなかった。
結城は一人、来た道を帰る。働き先を失った社員達は各々グループを作って今後を相談していたり、胸に渦巻くむしゃくしゃを発散させようと、昼間から居酒屋に向かおうとする者達などいたがーー結城の道は、一人なものだ。
赤トンボが群れていた。
もう夏は終わり、秋の季節ではあるが、まだ少し残暑が厳しかった。
シャツの裏に薄っすら広がる汗を感じながら、(次はどこで働こうか)と結城は考えていた。どこでも、家から近いなら、彼にこだわりはなかった。ライン工でも良いし、貧乏な車修理屋でも良い。生きられれば、それ以上は望まなかった。
いつの間に夜が来たのか。
結城が、ふと気がつくと、足休めで座っていたのだろうベンチの上で太陽を見終わっていた。
朝とは違う、怪しい雰囲気に変わった夜の街には、あまり出たくはなかった。結城とは肌が合わないからだ。
仕事終わりのサラリーマンの集団が周囲を巻き込みながら嵐の目となっていて、夜の店は道行く人を招こうと小鳥のようにさえずった。
ネオンとLEDが半々の明るい夜はーー俺には合わない。客引きを振り払い、足早に去った。
その時、とん、と胸に軽い衝撃。見下ろせば、どこかの学校の制服を着た女の子が、結城に跳ね飛ばされたのか尻餅をついていた。
妙なのは、彼女の両手に生地の薄い手袋をしていることか。ライダーというにはバイクもヘルメットもなく、防寒にはまだ暑い。
結城が彼女の手袋に首を傾げていると「何ジロジロ見てんのよ」と注意された。気の強そうな女だ。口を開いた時、ネオンの明かりの中に、目立つ犬歯が見えた。凶暴そうだ。
「いや、これは失礼しました」と結城が手を伸ばすが、彼女は自力でさっさと立ち上がり、スカートやセーラーの汚れを叩いた。
「一九歳の年下に借りる手なんてないよ。私よりずっと小さいしね!」
結城はいかにも一九歳の男だが、女のあてずっぽうの正確さにはドキリと胸が鳴らされた。
「子供が、こんな夜に、こんな場所に来るものではありません」と結城はたしなめ「攫われても知りませんよ?」
しかし女は「ふん!」と高らかに鼻を鳴らし「おあいにく様ですこと。この制服はコスプレで、この不鹿島五十鈴、れっきとした大人の女よ」と答えた。
よく見れば、夜の光の中で立ち上がる不鹿島は、髪こそ黒であるものの、どこまでも、早すぎる積雪のような肌、月よりも深い黄金の赤い瞳をしていて、人間というよりは、吸血鬼や妖魔の類のような、怪しげな風の目であった。
不鹿島とやらは、立ち上がろうと刻々するたびに背が伸びていく。結城が見上げ、しかしまだ高く、たしかに不鹿島は高く、結城は小さく、彼女は目測で2mはあるのではと思わせるだけの巨女だった。
「あら『坊や』……思ってたより、良い男じゃない」
無造作に、自然に、しかしそれは無遠慮に、不鹿島は結城の顎を手で撫でるように左右に振らせ、彼の横顔を、目を念入りに見ては溜息を吐く。
「アタシの弟子にピッタリ。人間一号の坊や、光栄なことにも貴方は今から、この不鹿島様の一番弟子候補に人生格上げね。喜びなさい、坊や」
不鹿島の言葉は突風のように吹き当たっては、結城の足をぐらつかせる言葉として形になった。だが……だが、しかし結城の人生においてこの程度の風がいかほどのもの足り得たのだろうかといえば、大したではあっても、大地に根ざした二脚が折れるものではない。
「お弟子になったとして、私は食べていけるのなら、お師匠と呼ばせてください」
「やった!」と不鹿島は指を鳴らし、契約書を書きあげた。メモ帳に名前を書くだけの単純なもの、子供が大人のフリをして、背伸びした真似事とも見えるそれは、しかし紙質の違和感で消えた。「……」心地の良い触り、薄れることのない香り、上級の紙とも違う何かがあると感じさせる、不思議な紙だ。
後戻りはできないだろう。これを書いてしまえば、何かが終わり、何かが始まる。
だがーー迷いはなかった。
「ふむ、坊やの名前は丹羽屋結城ね」とチラリ、郡堂は僕を見下ろし「贅沢な名だね、これからお前は“ユウ”だよ」と言った。たぶん、不鹿島はアニメーション映画が好きなのかもしれない、と結城は思った。有名な映画の一句をもじったものだからだ。
別に、ユウと名付けられることはなかった。
「初仕事だよ」
契約直後に言われた不鹿島の言葉にも、結城はただ頷くだけで返した。問題はないから、やれと言われれば、やれることをやる、それだけのことだ。
ただ不鹿島は「良い返事だ」と満足気を隠さなかった。不鹿島は、反抗は好みではない、結城は心の中でメモを取った。
星が消えた、ネオンとLEDの明るい夜を、制服の大女と、スーツ姿の男が並んで歩く。
目立つ組み合わせだ。
しかし声掛けはなく、道すがらの多くは横目で好奇を射ても、見返せば雑踏へと逃げ込み、二度と現れない。関心はしても踏み込む人間なんて、多くはないものだ。彼ら、そして彼女ら、それぞれの時間がある。余計なものを挟む余裕はーーないのだ。
「見てくれ、坊や」と不鹿島が指差すのは、ビルとビルの隙間に残された土の残る空間だ。
幅は180cmくらいで大半の日本人は横に収まりそうなくらい、奥行きは50m走にはずっと短く、長くても20mはないだろう。
「何かありますね」と結城はそこだけ明かりのない狭い路地の突き当たりに、小さな建物を見た。目を細めたが、明かりが届かず、何かまでは正確にわからない。だが、結城は勘を口にし「祠でしょうかね」と声色に疑問を混ぜず言い切った。
ビルに挟まれる位置関係からか、雑音が遮断されるのか、路地に踏み入ると雑踏が消えこそはしないが、すっと小さくなった。10mと離れていないのに、『中と外で区切られているような静寂』が、気味の悪さに拍車をかけ鳥肌を立たせた。
「何でしょうか。神社の結界内に入ったみたいな……妙な感覚です。私、ホラー苦手なんですよ」
「坊や、お前の勘は、アタシの見立てよりも鋭いな」
「どういうことでしょうか?」
「あの祠、奥にある奴に祀られてるのは、ある種の荒神だ」
「荒ぶる神、人に害をなす神、でしたか」
「うーん……」と結城の質問に不鹿島は唸り「そうだな、間違ってない」と引っかかる答えをくれた。
「坊や、神てなんだ」足を止めた結城を脇に避けて、先を行く不鹿島が背中で訊いてきた。「坊やの答えで良い」
結城は困った。彼は神学は完全な門外漢であるし、宗教もまったくと言って良いほど詳しくないのだ。それでも不鹿島に訊かれた、訊かれたのならば、答えを出さなければいけないものだ。
「人が望んだ……願望?でしょうか」
「興味深いよ。もっと詳しく」
「私、宗教の神様という存在を信じているから、無神論者ではないんです。でも、宗教勧誘にくる、お金目的の人達の信じている神様はいないと思うんです」
「なるほど」
「信じる所に神様はいて、それは人間からの派生であり、神様がいて人間がいるのではなく、沢山の人間の想いの集合としての神様がいると思うんです。共有された意識が、私の思う神様ですね。そう言う意味で、願望の形、と言う風なのが神様ではないかと考えています」
それを全て聞いた不鹿島の背中が「いひひ」と笑った。
「信じた形が神であり、神を信じているわけではない。祈りが神になるのであり、神に祈るわけではない」
不鹿島の喋りはどこまでも、新品の生物を前にした少年のように楽しみを含ませていた。
「アタシの、そしてアタシ達の仕事は神殺しだよ」
「神殺し……ですか。不穏な言葉に聞こえます」
「大したことじゃない。ちょっと神様に死んでもらうだけだ。人間様だって毎日死んでる、神様だって毎日死ぬさ、八百万もいるんだ」
「隣のビル、何か知ってる?」と不鹿島に訊かれた結城は、首を横に振り「いいえ、知りません」と答えた。
「病院だよ。産婦人科が賑わってるかな。赤児は、ここの神様と関係大有りでね。祠のは安産の神様なんだ」
「良い神様じゃないですか。子宝と言う言葉もありますし」
「そうだ。安産だけを祈っていたならな」
「……嫌な予感がしてきました」
結城は、子供が産まれる、それだけを祈っていないのではないか、と言った答えに跳んだ。
「胎の子に障害があったら?夫の血に自信がなかったら?小学生や中学生が妊娠したら?そうでなくても、ただ堕児させるには胎の中の肉塊は邪魔だろうな」
「安産の神様にーー」
まさか、を結城は口に出した。
「ーー子が流れることを祈っていた、のですか」
子の護り手に子殺しをさせていた。なんて恐ろしいことを、と結城は考えたが、すぐに振り払った。まだ私の推測でしかない。罪深いことを一体、誰が祈ると言うのだ。
「……」
不鹿島は何も答えなかった。彼女は祠の入り口を開ける。祠の内側から外に向かって、それは溢れ落ちるように広がった。見えない影のように、影ならば個体である筈がないのにまるで起き上がるように、それは触手のように伸ばされた。
「うっ!?」
結城は思わず鼻を、服の袖で塞ぐ。
ーー腐臭だ。
魚、あるいは獣のハラワタを丸一日放置していたような、肉が死後に自らを分解して、タール状の粘体になった、形を失った肉の酷い臭いが鼻を襲った。
「やっぱり、信仰が変わってた。ここの神様はもう死んでる。いるのは荒神だけだ」
結城には、不鹿島の言っている単語の意味を正確に読み取ることはできない。だがしかし、断じてこの祠の中身が安産の神様などではなく、より悍ましい何かであることだけは、彼の脳と肌が考えを越えて直接警告していた。
「さっき神殺しが仕事と言っていましたが、具体的にはどうやって神様を殺すのですか」
「おぉ?オカルトは好き?のってきたのは良い傾向だ、坊や」
「簡単だよ」と不鹿島は祠に手を置き、二、三、結城の読解力、聴力を無視する形で理解を阻害する言葉を紡いだ。聞こえているのにわからない、意味はわかると思うが理解ができない。そんな不快さに結城が混乱しているうちに、手を引かれた。
引いたのは、不鹿島だ。
「呪い返しだ」
「……誰にですか?」
「胎の子を『呪った』お母様お父様に決まってるだろ」
「一つ、良いですか」
「なんだい、坊や」
「呪い返しを受けた人達、どうなるんですか?」
「呪われる」
不鹿島は、キッパリと言い切った。
「神様に祈る人間がいなくなれば、おのずと神様は死ぬ。それが神殺しだよ、坊や」
結城の掌が、祠の屋根に乗せられた。彼の意思ではない、不鹿島の長く、しなやかすぎる手に掴まれたからだ。
「安心しろ。呪い返しはもう終わってる。坊やには、これから出てくるものを一緒に見て貰おうと思ってるだけでね。……できれば、漏らさないでくれたら嬉しい」
祠の入り口は開け放たれている。私の手は焼き付けられたように、剥がせなくなっていた。祠の脈動のようなものが、掌から伝わる。
風が止まった。
しかし祠はきぃ、きぃ、と音を立てて軋む。結城は息を止めていた。何か、何かが出てくる。
形なんて、優しいものがそれにはない。ぐちゃぐちゃに、全部をミキサーにぶち込んで、ぶち撒けた、そんなのだ。歯らしきもの、髪らしきもの、それらが脂肪も筋肉も混ざった肉のスープの中で浮き沈みを繰り返しながら、液体を失って皮だけになった眼球が思い出したように周囲を死んだ目で見つめていた。
祠から現れたそれは、結城、そして不鹿島を見つめるように僅かに動きを止めたが、しかし路地の外へと出た。それは多くの誰の目にもつかず角を右に曲がる。
病院のある方角だった。
「これが呪い返しだ。あれが神様だ」
「思ってた神様と違いました……」
「安心しろ、坊や。たぶん初見はみんなそうだ」
「神様はどこに行ったのですか?」
「呪いの元を巡るだろう」
その祈った人達に神様は何をするのでしょうか、と口を開きかけたが、結城は言葉にせずに飲み込んだ。
「転職する気にもなったかな、坊や?」
「神様を見て、本当、正気を疑うのですが、お世話になってもよろしいでしょうか?お師匠」
不鹿島は結城の答えを聞いて「ふん!」と鼻を鳴らすが、不愉快さは微塵もない。
「よろしい、そしてようこそだ、坊や。歓迎しようじゃないか」




