巨石文明と同時多発
巨石文明の担い手としてアナトリア(トルコ)農耕民の影響と言うのがあり、Y染色体ハプロはG2Aと言う集団になる。以前書いたと思う。だが最新のデータで地域差と言うものが明確に分かるようになってきた。以前から欧州のものとアジアのものが異質だとの報告があり、独自に発達したなど言われるようになっていた。
ただこれもうちょっと複雑なものかもしれない。最新のデータによると、欧州の巨石文明の担い手は大半がI2Aらしい。これは所謂クロマニヨン人になる。この集団から分かれたI1が新しい時代にバイキングとなっていく。だがその前に北欧にもクロマニヨン人が広がって、欧州全体に農業が広がっていく。この子孫が後に中国遼河集団のN系に置換してサミー人となる。
R1Bに置換した集団がおそらくバスク人じゃないか?と考えられる。サミー人は大きくフィンウゴルに影響を受けたため、バスク語が孤立言語になってしまったのじゃないか?と私は見ている。
もう一つ重要な点で貝塚は東アジアで有名だが、欧州のクロマニヨン人の時代にも発見されている。東アジアほど偏って多くないだけで。ここからI2A狩猟採集民が海と係わり合いがあった点。次にG2Aがイタリア人に多いJ2やサルディーニャに多いHなどを巻き込んで島伝いに農耕が広がった点。
欧州は海伝いに巨石文明が広がってる点。この点からアナトリア農耕民が島伝いに広がったとしても、海と関わっていた狩猟採集民の集団との混血が海洋の広がりと無関係じゃなかったのでは?と見ている。それと言うのもG2Aの集団は北欧に行くほどIの割合が上がっていうためである。
ただサミー人は狩猟採集民のままだった可能性もある。バスク人とは言語が違う理由がこれもあると思われる。サミー人は混血の子孫では無い可能性が高い。古い人骨から混血集団が北欧に広がった事は分かってるので問題ないのだが。バスク人は狩猟採集民の子孫ではない。アナトリア、狩猟採集民の混血集団の子孫が東から来た牧畜民のコーカサスR1B集団に言語を変えずに置換した集団になる。
G2A集団の海洋航行技術と、I2A集団の狩猟採集と関わる海洋航行技術どっちが上だったか?分からないが、後にI2Aの割合が高くなった北欧へ広がっていった集団は融合された航行技術だった可能性は高い。これらの集団が独自に発展させたため全世界的な広がりを持つ巨石文明は欧州で独自の発展を遂げたように見えると私は見ている。
巨石文明は単純に同時多発的とは言えない面がある。今回I2Aに置換する事で集団に異質な色を持った可能性がある事が私は何となく感じたため書く事にした。
では東アジアではどうか?
以前書いたHLAに続きがあり、日本人の集団にも西からの遺伝子の流入が考えられる。日本人最大の近畿天皇系集団はモンゴル人と密接に関係していて、このモンゴル人の集団の祖がさらにチベット奥地インド中央アジアに絡んだ集団となる。中国人とどう違うのか?と言うと中国人はパキスタンから中央アジアに向かいやや北よりの中央アジア集団なのに対して、日本人の集団は、そこから南に向ったインドに一度定着した牧畜民ではなく焼畑民である可能性が高い。
根本的に生業が異質で全く違う集団だと分かる。キーとなるのは乳産業だと分かる。ただ中国においてはそれらの影響は消えてしまっていて、かつ、モンゴルにおいても後のコーカサス乳産業集団に置換しただけで、古代に大きな乳産業があった形跡は一切無い。乳産業と切り離された羊の牧畜だけが中央アジアルートでモンゴルに入ってきたことになる。
それでも植物焼畑を中心としたインド集団との生業の違いは明白で、日本だけが牧畜民と遠い文化なのはこれが影響していると思われる。日本の巨石文明の影響がおそらく古墳やドルメンに限定されるのはこういう理由ではないか?と考える。
ちなみにモンゴルはこの両方の源流になる。後の時代チンギスハンの時代に発展したハルハ族。この集団がインドから四川省などのチベット系少数民族と繋がる日本人と共通の祖先を持つ。過去には中国人と共通した、アナトリアを起源としたイランザクロス山脈の酪農牧畜集団がモンゴル人の多数派だった可能性があるのだ。
歴史の趨勢によって、今は高くなったハルハ族だが過去は中国人と共通した集団が多分多数派だったと考えられる。ハルハ族が増えた分中国人との共通性が下がり、日本人との共通性が高くなったと見ている。これによって日本だけが大陸の牧畜文化と異質な性質を持った理由が説明されて、巨石文明が弥生以降に限定される理由では無いか?と見ている。
ただし、縄文時代にもストーンサークルが発見されており一部入ってきた集団があるのは確かだが日本においては主流派ではないし、父系直系はもう残ってない。
次に南方ルートはどうか?O1B2の存在だろう。これがかなり複雑なのだが、明確にG2の南インドへの広がりと巨石文明って点でインドルートとかかわりがある集団が薩摩人になる。それ以外のO1B2はかなり怪しい。薩摩人の集団がO1Aだったのか?O1B2だったのか?は定かじゃない。
元の集団がO1Aなのは疑う余地もなく、G2の広がりがマレーシアでとまっているため、O1A以外日本には着てない。欧州の様にR1Aなどと混ざった集団がまとめてO1A父系に置換した可能性が高い。それらがさらに北方に移動して中国南部でO1B2と混ざった可能性もあり、複雑怪奇になっていく。
これらがすっきりしないのは、弥生集団が南方なのか?北方なのか?がとても複雑だからになる。稲作南方集団が山東省渤海において北方の遼河集団と結合してN集団がO1B2に置換されてしまったとなっている。
だが、この集団O1B2である必要は全く無い。南方O2集団やO1A集団であった可能性もあり、渤海、列島、半島に暮らしていたO1B2漁労民と結合した可能性も高い。それと言うのも、稲作は何度も日本に来てるが、最大の集団は、漁労を渤海から半島の付近で捨ててしまっている傾向が遺跡から分かっている。
これは南方の漁労民が日本に移住していたわけじゃない証拠になる。山東省辺りで一度独自の稲作文化を高めて異質な集団として発展した可能性が高い。そうなるとO1B2の単純な南方からの移住と言うこれまでの流れがおかしくなってくる。
ある程度大きな広がりをもった渤海から列島までの海岸部のO1B2の漁労民の中で、山東省に住む半農半漁の集団の一部だけが独自に稲作を発展させて弥生人の中核になった可能性がある。
日本の中のO1B2のすべてがこの集団の子孫だったとは私は考えてない。むしろ大陸の発達したO2やO1Aを含んだ稲作集団で、列島に移動する過程でO1B2の漁労集団と絡み会う事でO1B2の割合が高くなってしまっただけじゃないか?と見ている。
そうなるとドルメンは北方系で割り切れるという話になる。実際中国南方のドルメンは北方からの南下の可能性が示唆されている。台湾あたりの巨石文明は南インドルートでほぼ間違いないと思われる。ただポリネシア人のルーツは中国南部から台湾に渡った集団になる。でも問題はタイムラグの問題から、インドネシアの巨石文明は明らかに中国南部のものより古く、そのルートは無視して良い。
おそらく台湾あたりまでの巨石文明の文化圏と中国南部のドルメンは無関係だと思われる。インドネシアの東の方まで広がるものはほぼ南インド経由で間違いないと思われる。
参考までにザクロス牧畜民と巨石文明は全く関係が無くて、ザクロス酪農集団が途中で立ち寄ったコーカサス狩猟採集民との融合によって生まれたコーカソイド集団によるものになる。これは大きなタイムラグがあり同じG2Aが関わったものだが全く異質ななものと見てよい。農業よりも青銅器加工の流れと結びついたものと考えられる。