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患者

作者: 結城アポロ

寝込んで目が覚めてみると、昨日まで通りの良かった鼻が詰まっていた。

風邪でもなんでもない、胃腸炎でしょうと医者が言っていたような気がするから、たぶん僕は夜のうちに泣いたんだろう。背中は冷たくなり、シーツとシャツが汗ですっかり張り付いていた。


容体はずっと良くなっていた。遠くの方で老婆が咳き込む騒々しさも耳障りにならなくなった。それからあまり意識をしっかり保つとすぐに体の不調も戻ってくるので、目を細めてなるべく夢見心地のままでいるように努めた。


平和だった。人が死ぬ時はこういう気分なんだろうと思った。無性に寂しくなった。

長い間、生活らしいことをしていないと、つまり、薬を飲んで点滴にぶら下がって眠るだけの日々を送っていると、なんだか自分が隔離されたような心細い気分になった。

自分は果たして何から隔離されていて、本当はどこに属していたのだろうとまた思う。健康な生活を送っている間は嫌悪していた、社会だろうとも思った。


枕元の椅子には友人が座っていた。片方の足をもう一方の膝の上に寝かせていて、頬杖をついて文庫本を読んでいた。僕が目覚めたらしいと確認すると、文庫本を閉じた後で、おはようと言った。

「僕の隣の方のベッドにも人が寝ていたはずだけど…」

「さぁ。今朝はもういなかった。それより、お前が寝ている間に一度人が採血に来たんだぜ。針を刺されてるのにビクともしないから、お前死んだのかと思ったよ」

友人は組んでいた足をどさりと落とすと、長い四肢を伸ばしながら欠伸をした。それで僕はなんだかこんな早い時間に見舞いに来られたのが申し訳ないような気がしてきて、「朝早くから悪いね」とボソボソ呟いた。友人は鼻でフンと笑っただけだった。


それから僕たちは黙っていた。友人は椅子に反対向きに座って、背もたれから身を乗り出して、読みにくそうな姿勢で文庫本を広げていた。僕は着替えようかなと考えたり、だけど点滴の針がずっと刺さっているから服の袖を通せないなと考えたり、つまり当たり障りのない事を延々考えていた。それで恐らく昼頃に、何かの拍子に「こうして長い間ずっと病院にいると」と起きがけに思っていたことを呟いた。

「なんだって?」友人は文庫本から顔を上げた。

「だから、こうやってずっと病室で寝転がっていると」

「うん」

「こんな場所でこういう言い方は良くないだろうけどね」

「なんだよ、」

「どうも、死にたくなってくる」


病室は静かになった。友人は文庫本の表紙をジッと見つめて低く唸った。やがて、「なんだよ」ともう一度言った。僕は「悲しくなってこないか」と今度は自分への補足のつもりで言った。言ってから僕は、最初から気取らずにそう言えば良かったと後悔した。なるほど僕は、全てが悲しかった。自分の背中に張り付いたシャツ、点滴の管を流れる液体、その針に貫かれる僕の皮膚、汚くなった鼻の頭、深夜に喚く老人、それに悪態を吐く看護婦たち、今朝いなくなった隣のベッドの誰か、その顔を思い出せない自分…


「お前は考えすぎてるんだよ」文庫本からは目を離さずに、友人が息を吐いた。ため息ではなく、深い呼吸といった具合だった。

「こうも時間があれば考えもするよ。…お前だって入院してたらきっとこうだった…」

「そりゃそうだけど…そういう事を考えていても元気は出ないだろうよ」


友人は手持ち無沙汰になったと見え、僕の足元で丸まっていた毛布を手繰り寄せると丁寧に僕の身体に被せた。僕は暑くてその毛布を蹴飛ばしたのだけど、そう言って友人の善意を無下にするのも図々しく思われ、黙っていた。


「僕はこれからどこに向かうんだ」

これは僕が場を和ませるつもりで言った冗談だったが、友人は口をモゴモゴ動かした後で、僕よりも具合が悪そうにのろのろ口を開いた。

「健康になると、そういう事を忘れるんだよ。…具合が悪いと、思い出すんだ。本当はみんな怖いけど、…お前、下剤を飲めってさ。それで明日検査をするって医者が言っていた」

「忘れるんだって…何を忘れるって?」僕はポツリと友人が漏らした本音を耳聡く拾って、聞き返した。

「いいって、いいって」友人はもういつものような調子に戻っていた。「薬を飲めよ」と乱暴に薬の入った小さな椀を揺らした。錠剤が中で転がって、カラカラと軽い音がした。


それで僕は、この友人も怖いのだと気づいた。友人もまた、言いようのない悲しみから目を逸らしながら生活をしているのだと知った。

そして知ってから、何だか無性に寂しくもなった。親の小さくなっていく背中を見るような痛々しさがそこにはあった。この早朝から見舞いに来てくれる献身的な友人は、言い知れぬ恐怖に脅かされていて、それに太刀打ちできず逃げ続けているという事実が、急に心細く感じられた。今まで背中を預けてきていた、巨大な柱だと思っていたのが実は老いた枯れ木だったかのような頼りなさが恐ろしかった。


友人はもう文庫本を読む振りはやめていて、今度は少しどういう表情を見せるか考えあぐねた様子で自分の頬をしきりに撫でたり鼻の下をこすったりしていた。

長い入院生活で、困った時には看護婦を呼ぶべし、という考えが僕の頭にはすっかり刷り込まれていたのか、手が無意識にナースコールを握っていた。僕は手を離した。友人はそれをしげしげと見つめた後で、利口そうな口を引き伸ばした。

「昨日高熱が出ていたらしいから、多分まだ少し錯乱しているんだろ。もう一度寝て覚めたら、多分もうそんな事は考えないよ」

「でも僕はもう少し考えていたい」と僕は駄々っ子のように返した。

「もう寝ろったら、…」

友人は眉を顰めたが、それは苛立っているというよりは困惑しているような表情になった。

友人の言う通り僕は熱で錯乱していたのか、考えるんだと息を巻いた割には、僕の瞼は素直に力無くなって、やがてしっかりと閉じられた。


「起きたら薬を飲んで、…血圧を…」

友人が何かをぶつぶつ呟いた。


気づけば背中の汗は引いていて、院内はまたざわめきだしていた。老人が獣のような唸り声を上げて、壁がガタガタ揺れた。ずっと遠くで新生児が泣いた。それから台車が廊下を駆ける音がだんだん忙しなくなってきて、院内はあっという間に日中の騒がしさを取り戻した。

錯乱した頭で、僕もあの騒がしさの渦に早く呑まれなくてはと脈絡なく思い、強く目を瞑った。衣擦れの音がして、友人が煙草を吸いに立ったのがはっきりわかった。けれど僕が目を覚ます頃には必ず元いた位置に座っていて、また難しい小説を読んでいてくれるだろうともそれと同じぐらい確信していた。


それでもどうしても僕は、この病室だけが世界中の全てから隔離されていて、それが何やらとても悲しい事らしいという気が拭えなくて、やっぱり強く瞑った瞼の隙間から涙を流しながら眠った。


読んでいただき、ありがとうございました。

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