2.黒い影1
黒い何かが隠れている。あたりは一面暗闇。その中に一層黒い何かが潜んでいた。見えないが、確かにいることは分かる。しかし、それは一向に現れない。いや、現れることができない。それはあまりに深くに押し込められていた。その深さに、己の重さに、それはそこから這い出ることができずにいた。
けれど、千穂は身の危険を感じた。冷たい汗が背中を伝う。それの視線を感じる。じっと見られているのを感じる。
―怖い
ぎゅっと両手を握る。ここには誰もいない、一人しかいない。この手を握ってくれる人間は今はどこにもいない。
しゅるっと何かが足に絡みついた。下を見やると黒い何かが足にまとわりついている。問題はそれではなかった。地面の底、奥の奥に黒いものが滞っている。そこから伸びた黒が千穂の足に絡みついていた。じっと地底の底にいるそれを見つめる。ぎょろりと一対の目が姿を現した。それが千穂をとらえる。そのとたんぎょろぎょろと何対もの瞳が現れ千穂を見た。
―なにこれ
こんな化け物に追われたことがある。命からがら武尊の部屋まで逃げ込んだことがある。けれど、あの時の妖と見た目が似ていても質が全く違うのが分かった。こちらの方がよほど凶暴で悪質だった。
がくんと足がくじけた。膝をつく。したたかに打った膝は痛かった。
「え?待って!」
見れば、地面に付いたところからじわじわと体が沈み込んでいた。慌てて掴まれていた足を見る。そこが一番沈み込んでいた。引っ張られたのだと知れた。ずぶんと体が地面に飲まれていく。
「え?嫌だ、嫌だ!」
足を抜こうと手をつくが、そこから沈み込んでしまう。そいつが笑った気がした。口などついていないのに。
―わ
「え?」
頭に微かに声が響く。千穂は耳を澄ます。
―の、うつわ
―ぎんの、うつわ
―銀の器!
「きゃあ!」
ぐいと体を引かれ、腕は肘まで、下半身は腰まで沈んでしまう。
「何?何なのよ~」
涙が溢れてくる。怖い。こんなに怖いことなんて知らない。
なんなのだろう、これも妖の一種で自分を狙っているのだろうか。力の源にしようとしているのだろうか。
―ね
「何よ!」
―死ね!
その言葉に千穂は目を見開いた。
「私が死ぬことを望んでいるの?」
そんなの初めてだ。千穂はもう一度それを見た。まだ幾対もの目は千穂を見て―否、睨みつけていた。
「敵意だ」
妖から向けられたことのないに感情に千穂は戸惑う。
「わっ!」
また足を引かれ、腕は逆に抜けたが胸まで沈んでしまった。全部持っていかれるのは時間の問題だ。
「嫌だって言ってるのに!」
体をよじるが意味をなさない。仕方なく手をあげてえいえいと振り回す。それも体を浮上させることはできなかった。
―ほ
「今度は何!」
―ちほ
「誰?」
―千穂!
「武尊?」
―千穂!
千穂はその声に笑んだ。手を目いっぱい上に伸ばす。
「武尊!」
暗闇から手が伸びてくる。それは人間の手だった。それを掴む。大きくて力強い手だった。その手が千穂を引きずり出す。その瞬間千穂は目を覚ました。
「ん?」
―ラン
―シャラン
―シャラン
「何?」
武尊は身を起こした。こすこすと目をこする。一度起こした体を寝かせて枕元にある携帯に手を伸ばす。時間を見れば三時だった。
「武尊?」
武尊が起きたことに碧が気付いた。ひょこひょこと近づいてくる。その光景はなかなかホラーだった。
「剣が―」
―シャン
―シャン、シャン
―シャンシャンシャンシャンシャン
その音はけたたましく武尊の頭に響いた。頭痛がして頭を押さえる。
「何ごと?」
「剣がどうしたの?」
頭痛で碧にまともな返事を返せない。頭を押さえる武尊を碧が心配そうに見上げた。大丈夫だと頭に手を置く。部屋を見渡せば、啓太と樹は規則正しく寝息を立てている。異変を感じ取っているのは自分だけのようだった。
「・・・まあ、剣があるから当然か。・・・・碧、剣が鳴ってるから千穂を見てくる」
「俺も行く」
武尊は立ち上がるとそっと部屋を出た。碧はぴょんと武尊の肩に飛び乗る。二階の和室が武尊に貸し与えられた部屋だった。そこを出ると、隣が千穂の部屋だ。コンコンと扉をノックする。返事はない。もう一度ノックする。反応はない。その間も、剣はシャンシャンと鳴り続けていた。
「おじゃましまーす」
かちゃりと扉を開ける。千穂の部屋は洋室だった。奥のベッドに眠っているのが千穂のようだ。床に敷かれた布団には壱華が横になっている。見たところ異変はない。しかし、あるのだと剣が告げる。武尊は目を細める。
「千穂?」
返事はない。
「千穂?」
寝返りも打たない。武尊はそっと千穂に近寄った。心の中で謝りながら壱華の体をまたぐ。
「千穂?」
そっと触れてみた顔は、汗でぬれていた。見れば呼吸も浅く速い。何かあるのは簡単に知れた。しかし、どうすればいいか分からない。
「夢にとらわれてる!」
「とらわれてる?起こさないと!」
とりあえず、起こそうと試みる。
「千穂!」
揺らしてみる。反応はない。
「千穂!」
もっと強く揺らしてみる。起きない。
「千穂!!」
もっと大きな声で千穂を呼ぶ。壱華が跳び起きた。
「どうしたの?」
「千穂が、夢にとらわれてるって―起きて!千穂!」
一層強く揺さぶったとき、千穂の目がパチッと開いた。
「武尊!」
千穂ががばっと身を起こす。そこからは武尊の反射神経の賜物で、見事に千穂の頭を避けて頭と頭の衝突を避ける。
「大丈夫だった?」
とりあえず起こしたという対処があっていたのか確認を取る。千穂は息を乱していた。
「怖かったよ~」
ベッドに片足をついている武尊の上半身にがばっと抱き着く。武尊はそれに驚いたが、小さく笑うと千穂の頭を撫でた。
「怖い夢見たの?」
「うん。悪い夢だった」
「そう」
「初めて妖に死ねって言われた~」
「そうなの?」
「うん」
「起こしてよかった?」
「もうちょっとで危ないところだった~」
どうやら起こしてよかったらしいと武尊は判断する。しかし、夢の中でも危ない目に合うとは難儀な体質だと武尊は思った。
「ああ、いけない」
そう男は呟いた。
「勝手に抜け出していってしまった」
そう言うと、地面に手を付け何やら念じる。すると、ぎゅるぎゅると黒い何かが吸い寄せられ、男の体に吸い込まれていった。
「これで全部かな?」
ぱんぱんと手を払う。男は笑った。
「金色の使い手に邪魔されたみたいだね」
それでいいと、男は笑んだ。空を見上げる。まだ月が仄かに夜を照らしていた。
「無事でよかった、千穂―」
男は優しく目を細めたのだった。




