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イルの秘密の資料集  作者: イナンナ
番外編 幕間劇場
43/46

書籍化記念SS 幕間 始まる前も世界は続く

書籍化記念SS第3弾。

記念と言いつつ番外編で、ちっとも主役たちが活躍しません。

今回は、精霊さんとグレッグ先生のお話。

 晴れ渡る空の下、ノース山の中腹に少しひらけた場所がある。日当たりが良く、地元民が山に登る際の休憩場所として使われるそこには小さな泉が存在している。岸壁から湧き出した水は美味しく、また質が良いので地元の薬師や狩人、主婦などが時々汲んで行く。それらを見守るのが泉の中央に設えられた小さな祠――の主であった。


「精霊様、精霊様、おはようございます。今日も薬草をいただきに参りました。これから季節風邪の薬草を重点的に集めます。何事もなく帰れますように、どうかお見守りください」


 泉のほとりで片膝をつき、熱心にお祈りしているのは大変大柄な熊獣人である。祠の主、精霊さんは、祠の上に腰掛けてうんうんと頷いていた。


「勿論よグレッグ。いつも来てくれておばあちゃん嬉しいわあ。気をつけて採集してね! 見守ってるけど、助けてあげられないからね」


 祈り終わったグレッグが立ち上がるのに合わせて、精霊さんもよっこらしょと祠から降りた。地元の薬師グレッグが熟練の手つきで薬草類を採集するのを、文字通り見守るのが精霊さんの長きにわたるマイブームであった。


「ええと、グレッグで何代目だったかしら?いやねえ、歳取ると忘れっぽくなっちゃって。ええっとヘンリー、エイブラム、グレッグだから……三代目だわ。グレッグはヘンリーによく似てるのよねえ。懐かしいわあ」


 精霊さんは泉に祠を作ってくれた初代地元の薬師、ヘンリーを思い浮かべてにっこりした。ヘンリーは熊獣人にしては珍しく、精霊さんのことを認識できた。だから精霊さんとヘンリーは寿命は違えど大層仲良しだった。残念ながらヘンリー以降の子孫が精霊さんを視認できたことはないのだが、ヘンリーが精霊さんの存在と祠に挨拶することを言い残してくれたので、精霊さんはヘンリーの孫を今も見守ることができている。


 懐かしい思い出に目を細めた精霊さんの前で、グレッグが採集を終えて立ち上がり、腰を伸ばした。今日の採集は終わったらしい。ノース山の中くらいなら精霊さんは好きなところに行ける。街へ帰るグレッグをふもと辺りまで見送るのが習慣だった。


「ねえグレッグ、近頃なんだか胸騒ぎがするのよ。よくないことが起きるのかしら? グレッグ、あなた、しばらくここには来ない方がいいかも知れないわ……ああ、声が聞こえてくれればねえ。思い過ごしならいいけれど」


 精霊さんは、岩をつたい降りるグレッグの横顔を見つめた。随分長い間この場所に住んでいるけれど、こんな風にざわざわする心地になったことは一度もなかった。湧き上がる不安を首を振って振り払った瞬間のことだった。グレッグが足を滑らせたのだ。


「あっ」


「グレッグ!」


 下位精霊にしか過ぎない精霊さんは、水魔力を持たないものには触れられない。グレッグはあいにく魔力に恵まれていなかった。精霊さんが伸ばした手をあっけなくすり抜けて、グレッグは体二つ分ほどの高さを滑り落ちた。


「グレッグ! グレッグ! なんてこと!」


 精霊さんは痛みにうずくまるグレッグの側まで飛んだ。苦悶に歪んだ表情のグレッグが、痛みを堪えながら背負子の薬草でどうにか薬草湿布を作って患部に貼り、夜遅くなってようやく帰っていくまでずっと側にいた。その間精霊さんはずっとぼろぼろ泣いていたので、随分魔力が抜けてシワシワになってしまった。


「見守ってるだなんて、なんて役立たずなのかしら! いざってときに何にもしてやれないなんて。ああヘンリー、あなたの孫の事、守ってるつもりだったのに!」


 あまりの無力感に精霊さんは泣いて泣いて、シワッシワになってそれでも泣いて、とうとう背中が丸まるほど泣いた。夜が明けて、日差しが精霊さんを照らし出してやっと精霊さんは泣き止んだ。良き精霊にとって、日光は浄化作用をもたらすのだ。だからほんの少しだけ、日差しが精霊さんの悲しみを減らしてくれた。

 精霊という存在にとって、あまりに強い感情は毒になる。長い間生きている精霊さんはそれを知っていて、おかしな存在に成り果てないために無力感と絶望と悲しみを心の底に沈めることにした。また天気のいい日に取り出して天日干ししよう。何十年か干していれば、きっとそのうち無くなるはずだ。そう決めて、精霊さんはゆっくりと瞑想を始めた。


 まさかその数日後に、来訪者だという銀髪の下級女神がグレッグの安否を教えてくれて、絶望やら何やら浄化してくれて、おまけにハンカチまで貸してくれることになるとは精霊さんはつゆほども思わなかったのである。どうも本人には全く自覚がないようだが、精霊さんは感謝の気持ちでいっぱいになった。何かお礼がしたいと思ったその次の日に水龍の仔を捕まえたのは全くの偶然だったけれども、精霊さんはピンときた。――運命の出会いってやつだわ! ヘンリーも言ってたもの、初対面は衝撃的だったって!


 衝撃的の意味が違うのではないかというツッコミは、とうとう誰からも入らずじまいだった。なので強引に水龍を連れて行かせたのは正解だったと、精霊さんは今日も思っている。


「ねえばあちゃん、昨日はねえ辰砂ったら――」


「ちょっとそれは話さなくていいから!」


 だって、こんなに楽しそうじゃない?

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