書籍化記念SS 幕間 イチの街のちょっとした闇と少女
せっかく書籍化いたしますので、記念に掲載しておきます。
とは言え完全に番外編。
時間軸としては、辰砂がイチの街で吸精しているあたりのお話です。
ニケは最近街の空気が変わったことを肌で感じていた。ニケは娼婦だから、ほとんど夜しか起きていないけれど、それでも何やら騒がしい。わからないことは聞くに限るので、ニケは一仕事終えた後にお客に聞いてみることにした。
「ねえ、……あれ、寝ちゃってる。もう時間来ちゃうよ、起きて」
ニケは疑問をぶつけようと隣を振り返り、寝入っている男を揺すり起こした。男の方も延長料金なんか払いたくないので素直に起きる。そうして改めて気になっていることを尋ねると、男は訳知り顔になった。
「そりゃ、来訪者がいっぺんに何千人だか来たからだろ。あっちもこっちも来訪者で溢れかえってらぁ」
「来訪者? って、なあに」
あぁ? と男は怪訝な顔をしたけれど、結構親切に教えてくれた。来訪者っていうのは主神様がどこか遠い場所から呼び込んで来た旅人たちなんだそうだ。でも、あんまりいっぺんに来すぎてみんな働いても働いても仕事が終わらないと男が愚痴ったので、ニケは不思議に思った。
「あたしたち、いつも通りだけど。全然忙しくないよ」
「そういや、そうだな。あいつら全然花街には出入りしねえな。男がいねえわけでもねえのに?」
男はひとしきり首をひねっていたけれど、時間がきたので慌てて服を着て帰っていった。少しでも遅れれば遅れた分のお金を取られてしまうからだ。ニケは窓から手を振ってゆっくり歩いていく男を見送った。それをちらりと振り返って、男は独り言ちた。
「従業員が神託さえ知らないとは。監禁も追加だな。そろそろ、イチの街からご退場頂けそうだ」
ニケの青白く艶のない肌、年齢を考えると貧弱にすぎる手足を思い出しつつ、男はボサボサの髪をかき上げて後ろに流した。そうして角を曲がり路地を抜ける頃には、粗野な雰囲気はどこかに消え失せ、早足で歩く神経質そうな男に変貌していた。男は細い三日月を見上げ、にいと笑った。
一方でニケは男の去った後の暗い路地を見つめていた。お店から出なくなってどれくらい経ったのか、ニケはもう数えてなかった。でも、まだ胸が膨らみきってない時分に店に連れてこられて、今は大人になっているのだから結構長い間だと思う。
こっそりお店から抜け出した他の子がこっぴどく仕置きされるのを見て以来、ニケは店の外に憧れるのをやめた。お日様にあたりながら散歩すると言う目標も捨てた。その代わり、店に来る客たちが漏らす愚痴の底にある日常や家族というものをどうしようもなく妬むことになった。それくらいしかできなくなったのだ。
「……でも、ほら、あたし最近『お当番』当たってないし」
悪いことばっかりじゃないとニケは自分に言い聞かせた。『お当番』になってしまったらお店のオーナーと一晩過ごさなければならなくて、何度も殴られるから凄く嫌だった。勿論ニケが当たらないってことは、別の誰かがお当番になっているってことなのだけど、ニケはそれには気づかないふりをしている。何もできないから。
いろんなことに目をつぶって、ニケは次のお客を待った。だけど結局この夜はこれで終わりだった。お客が少ない日は、ゆっくりできるからいらないことをいっぱい考えてしまう。ぐったりしながら、控え室で膝を抱えた。早く他の子が戻ってくればいいのに。おしゃべりしている間は何も考えなくていい。
ニケは何も知らない。お当番が当たらなくなったのはニケだけではなく等しく全員である事を。オーナーが来訪者に襲撃されて『元気』を失ってしまった事も、躍起になってその犯人――銀髪に菫の瞳の女を探させている事も、あんまり派手に人数を動かしたせいで検挙までの日数が縮まり数日後にはこの店が無くなる事も、オーナーがお縄になる事も。
先行きとか将来はともかく、久方ぶりにお日様の下に出られる事も、まだニケは知らない。




