第一節 第三楽章 バックグラウンド譜 業より功へと向けられたゆさの視点 -道-
突然の悲鳴に、あたしは驚きのあまり目を覚ました。
悲鳴の主は、ミキだった。
おとーさんもおかーさんも、廊下の方から駆けつけてきた。
「どうした!?ミキ……ッ!!」
すぐさまこの部屋の電気をリモコンで点けながら、おとーさんはミキに声をかけている。
危機迫るそのおとーさんの声音で、あたしはとんでもない事態が起きていることを瞬時に察した。
「私って……、なんなの??……こんなの、夢見るだけで十分なことだったのに」
ただでさえ強くはなかったミキの声も、ベッドからではかすかに聴こえる程度のものになっている。
「ミキ……?!一体なにが────っ」
おかーさんの言葉が途中で止まった。
なにかに気付いたらしい。
「……お父さん、ごめんなさい。この部屋のものは全部わたしが把握していました。──けど、この時計だけは、わたしの実家で代々受け継いできたもので、この部屋に、置いてあげたかったんです」
おかーさんははっきりとおとーさんにそう伝えた。
「いいよ、これはお母さん一人の失敗じゃない。一人で抱えこまなくていいんだ。もう僕らは、この前までのような研究員の同期じゃなくて、家族なんだから」
おとーさんはおかーさんの肩に手を置きそっと呟く。
「そんなことより……。」と言葉を連ね、おとーさんはおかーさんの話から、目の前のミキのことに話題を移す。
あたしももうこのときには、ベッドから足を降ろし、夕方気絶したせいもあるのかやや足が覚束なかったが、ミキの隣を目指し、少しずつ歩み寄っていた。
「……なにかあったの?」
「あぁ……、ゆさ。もう起きても大丈夫になったか。……実はね────」
「私の身体がこの硝子には写らないの!!」
ミキの言葉がおとーさんの説明を無視して飛び込んできた。
────あたしはその言葉の意味をすぐに理解することはできなかったけど、時計の下の振り子の前にある硝子板には、確かにミキの身体だけが写っていなかった。
「……えっと、それにしても部屋の明かりも点いてないのに、よくそれがわかったね」
当時のあたしが紡ぐことのできる言葉は、情けないことにこれしかなかった。
「眼だけは……写ってた。それで気付いたの、さっき、初めて……っ!私のこの眼は、霞んでいたんじゃなくて朱く光ってたんだ……って」
「おとうさん、どうして……?」と続けざまに問いを口から漏らすミキ。
「……お父さん。わたしが言える立場じゃないことは分かっています。──でも、いま伝えてあげないと、ミキが苦しむだけですよ」
おかーさんはおとーさんの目をじっと見つめて説得する。
「────分かった。ありがとうお母さん。……ゆさ、今日なったばかりとはいえ、君も家族の一員だ。僕とお母さんが知っているミキの本当のこと、聴いてくれるかい?」
「当たり前だよ」
あたしの即答に、おとーさんは安心したように小さく息をこぼす。
そして少し張りつめた声で、ミキの真実を語り始めた。
「ミキの、神之輝ミキの本当の両親は、吸血鬼とサキュバスだ。────けど純粋な吸血鬼やサキュバスではない。──そう呼ばれていた一族の最後の末裔だったのさ。だから、ミキにも常識では考えられない体質が宿っている。今日みたいに、硝子に身体が写らないということや、眼が朱く光るということは、全てその体質によるものだ。他にも心当たりはあるかもしれないけれど、どれも微弱なものなんだ。ミキは硝子に写らないというだけで、写真や鏡にはしっかり写るし、眼が朱くなることも、人前でそれが現れても昼間なら違和感はほとんどないし、集中しないと光ることもないはずだよ」
あたしは本棚からドラキュラのイラストが表紙になっている絵本を取り出し、「これ?」と二人に問うと、おかーさんが「そうよ。」と優しく返してくれた。
そんなあたしとおかーさんの一連のやりとりを聴き終えると、おとーさんは話を再開した。
「ミキのお父様が"吸血鬼"の末裔。お母様が"サキュバス"の末裔。そしてお二人とも、僕たちがそう呼べる、最後の一人だった」
「……おとうさん、一つ訊いてもいい?」
「あぁ、もちろん。」
「おとうさんは、”僕たちがそう呼べる”って言ってるよね。それに、"お父様"とか"お母様"とか。──まるで知り合いのような呼び方をしてる。じゃあやっぱり、おとうさんとおかあさんが研究してたことって……、吸血鬼やサキュバスに関係したことなの?」
おとーさんは明らかに驚いていた。意表を突かれたような表情を隠す間もなく、そのまま浮かべてしまっている。
「本当にミキには驚かされるな。もしかしてお母さんが『研究員』って言葉を出したところから推理したのかな?」
「……うん。こんなに、孤児院で読んでた本が可愛く思えるほど、私に全然読めない本が、本棚にぎっしり詰まってて、おかあさんはおとうさんの研究員時代を知ってるような言葉を出してたから」
ミキの声は徐々に、パニックを起こしているわけでも、怯えて弱くなっているわけでもない、落ち着いたものへ変化していっている。
「参ったな……。」と言葉を漏らすおとーさんは、ミキに隠し事ができないと悟ったのか、全てを語った。
「────ほとんど、ミキの推理通りだよ。僕たちは、人間を"不老不死の存在"にできないかっていう研究をしていた。元々おとうさんは人の老化が引き起こす"認知症"……────分かりやすくいうならお年寄りの"物忘れ"を改善する方法を研究していた。────それで思ったんだ。寿命が人間より長く、また人間以上の記憶ができるものがいるのなら、それを応用すれば、ずっと昔の記憶を、正気を保ったまま、いまの人間より更に長い間記憶しておくことが可能になるんじゃないかってね。そして僕のその論文を読んだお母さんが、僕を自分の研究室に呼んで一緒に研究をできるようにしてくれた」
「────じゃあおとーさんは、元々はお年寄りの物忘れをどうにかしたいって思ってたんだよね?……──それなら、どうしてそこから不老不死の研究に繋がったの?」
疑問に思ったあたしがおとーさんに問うと、それにはおかーさんが応えた。
「わたしは、この星で増えすぎた"ヒト"という種族が、これ以上地球に害を与えないように、|そもそもヒトがこれ以上増えないため《・・・・・・・・・・・・・・・・・》の研究をしていたの」
おとーさんの研究にも驚きがあったが、おかーさんのそれは、あたしの予想を優に上回った飛び抜けた研究課題だった。
「わたしは次第に、ヒトの"性"についての研究を進めるようになった。”性”がなければヒトが増えることはないんじゃないかと思ってね。そして、性をコントロールできるとされる伝説上の生き物、"サキュバス"という答えに到達したの」
「そして僕も、人間の記憶を超えることができる生物、"吸血鬼"を使えば、元々の研究、老化による記憶力の低下を防ぐ研究を大きく進歩させることができるんじゃないかって結論に至ったんだ」
……この二人はあたしたちが来月から小学生になる子どもだということをわかっているのだろうかなどと思いながら、隣に座るミキにあたしの気持ちをアイコンタクトで伝えると、ミキもあたしを見つめながら「さぁ?」といわんばかりに肩をすくめ、小首を傾げてきた。
あたしたちがおとーさんたちの弁舌を理解できるほどの知性を元から備えていて幸いだったと熟思う。
弁に火のついたおとーさんは、自分の過去の話を続ける。
「ともあれ、お母さんの研究室に行ったときには、もうその手の伝説や架空の生物についての研究書から、子ども向けの絵本まであって、僕とお母さんはすぐに意気投合した。そして、僕たちが協力して新たに生まれた研究テーマが”人間の不老不死化”だった。毎日研究や調査に明け暮れて、それを続けるなかで……」
「────私の、本当のお父さんとお母さんに行き着いた」
おとーさんが最後まで言い切る前に、ミキがそれを導き出した。
「…………そういうことだ」
おとーさんは気まずそうに小さく頷いた。
「それで……、ミキの本当の両親は、どうなったの?」
あたしは「本当の両親」という言葉に、少なからず反射的に忌避感を覚えつつ、それでもおとーさんに問うた。
「────実際に手を下したのは僕らじゃなくて、僕らの研究テーマを引き継いだ研究チーム{佐乃守}だったから、詳しいことは人伝で聴いたことなんだけれど……────」
もう、おとーさんの息も声も手も震えていた。おとーさんの隣にいたおかーさんは、おとーさんの手をぎゅっと握りしめた。
ほんの少し息を整え、おとーさんは告げる。
「簡単に言うなら、二人を無理矢理拘束して、強力な麻酔で眠らせて、全身を解剖したそうだ……ッ」
………………は?
疑問と軽蔑があたしの脳を侵していく。
ミキの瞳からは光が失われていた。瞬きすらしていない。完全に放心状態に陥ってしまっているみたいだ。
「僕らは手を下していないけど、研究テーマと研究資料、そして、吸血鬼とサキュバスに該当するであろう人物リストの情報を{佐乃守}に提供してしまったのは、まぎれもなく、僕たちだ。ヒトならざるものの肉体の研究を行っていながら、自分たち自身が人として外れた道を歩んでいたことを痛感した直後は、僕とお母さんは毎晩泣いていたよ」
「……それっていつの話?」
「────三年前のことよ」
ミキの質問に答えたのはおかーさんだった。
おとーさんは当時を思い返しているのか、「ごめんよミキ……ごめんよ……。」と言葉を溢しながら、額をカーペットに押しつけ、咽び泣いてしまっていて、まともに会話できる状態にはない。
おかーさんがおとーさんの代わりに、三年前から現在までの二人のことを話す。
「……────でもね、三年前、泣きじゃくっていたわたしたちは、小さなことかもしれないけれど、たった一つの贖罪の可能性を見つけたの」
「……それはもしかして、神之輝夫婦には子どもがいて、その子は孤児になって、孤児院で里親を待ってる状況かもしれないっていう可能性……?」
あたしがおかーさんに尋ねると、少しだけ力の抜けた微笑みを浮かべた。
「────えぇ、そうよ。あれは本当に閃きだったけれど、暗闇のなかを歩いていたわたしたちには十分な輝きだったわ」
「けど、それを確認することも、子どもを探すことも、すごく大変だったんじゃない?」
────このなかで唯一、気持ちに圧し潰されず、客観的にこの家庭とミキを見ることができるのはあたしだけ。──なら、あたしが訊いていくしかない。
そんな責任感のようなものが、このときのあたしには芽生えていた。
「そうね、ゆさの言うとおり、とっても大変だった。二人の子どもがいることを調べるために、わたしたちが一覧にしていた『該当するであろう人たち』の家を全て調べてあらゆる場所に足を運んでは手がかりを探していた。──だって、『該当するであろう人たち』の情報を渡していたとはいえ、実際にそれを使って、その一覧から特定して、挙げ句強制解剖までした人たちなんて、当てにしたくはなかったもの。────エゴ、かもしれないけれどね。それで、わたしたちは手元にある一覧を頼りにあちこちを探しては、その人たちが住む近所の方々にも『なにか近くで変わった子を見かけたことはないか?』なんて、藪から棒なことも訊いて回ってもいた」
────この人たちは、他人の子のためにそんなことまでしていたのか。血も繋がっていない子どもにも関わらず……っ。
あたしの実の両親は、あたしが産まれてすぐにあたしのことも人生も、諦めてしまったというのに……。本当にすごい精神力だ。
────少しだけ、そんな二人に恵まれたミキを、羨んでしまっている自分がいることが些か気持ち悪くて、あたしはあえてなにも言わずにおかーさんの話を聴いた。
「そうして二年が経った頃、わたしたちはようやく神之輝家の一人娘────神之輝ミキ。あなたがいることを証明できた」
おかーさんがミキに視線を送るその表情は、紛れもなく”母親”のそれそのもの。
「だけど……。」と言いながら、おかーさんは少しだけ目線を泳がせた。
「あなたが入っている孤児院をなかなか見つけられなかった。役場としては当然あなたのことは教えられないから、日本中の孤児院に片っ端から電話をかけた。そして先週末、ようやく神之輝ミキを預かっているというあの孤児院に連絡がついて、ミキを探し出せたの」
……ということはつまり、一年間もの間、電話連絡をベースに、二人だけでミキの捜索をしていたわけか。
あえてその期間を口にしないのは、”探してあげていた”という上から目線の意味で伝わるかもしれないという恐れと、他には、そもそも"探してあげていた"なんて意味ではなく、ミキの両親に対して、"出来得る限りの贖罪をしたい”という気持ちで動いていたのだと、強調したいからだろう。
────動機はなんであれ、本当に『いい両親』みたいだ。
「ミキを探し出せたら養子に迎え入れようってお父さんと決めていたから、そのための資金集め……、といえば聴こえはいいけど、要するに就職活動もしながらのミキ探しだったから時間もかかっちゃったんだけどね。それに、研究員の頃に手にしたお金や財産は全部、この家を建てるために使い果たしていたからね。けど、本当によかったわ。ミキを見つけられて────」
「そ・れ・にっ。」とおかーさんは微笑みながら言葉を付け足す。
「ミキだけじゃなくて、偶然だけれど、ゆさまで、うちに来てくれた。いまのわたしは、まるで双子を授かったような気持ちなのよ?幸福感でお腹いっぱいなんだからっ」
あたしとミキの髪をくしゃくしゃにしながら撫でてくれるおかーさんの手は、おとーさんのそれとは一味違った。これがいわゆる『母性』というものなのだろうか。ミキもあたしもつい笑顔を浮かべてしまっている。
おかーさんは微笑んだまま、けれどその表情にほんの僅かの陰りを含ませ言葉を紡ぐ。
「────……ただね、いまのわたしたちじゃ、あなたたち二人に接してあげられる時間が少なくなってしまうの。さっきも言ったけど、研究で手に入れたお金はないし、あっても使いたいものじゃない。だからわたしたちは仕事を探したわ。そしてわたしたちが決めた仕事は同じ、学校の先生だった。わたしたちみたいに研究室に籠っていたような人間が持ってる、実生活にも使える免許なんて、教員免許と車の運転免許くらいだったのよ」
苦笑いを浮かべるおかーさんは、あたしの目には少し寂しそうに写った。
「けど、あなたたちのことはずっと愛してるって誓える。────お父さんも、そう思うでしょ?」
涙も枯れてしまったのか、目元を赤くしたお父さんは土下座体勢から頭を上げ、
「あぁ……っ、もちろんだ……!!」
と力強く応えた。
おとーさんが泣いていたところだけ濡れてしまっている……。あとでそこの掃除はしてもらわないといけないな。
────あ、そういえば……。
「ミキの分しか、部屋はないの?」
「そうね……、ゆさにはわたしの部屋をあげるわ。少し片付けるのに時間がかかると思うから、その間、この部屋にお布団を敷いて寝てもらうことになるけど、いい?」
おかーさんの即答にはおとーさんも入り込む余地がなかったらしい。
「うん、いいよ、わかった」
「お父さんとはいえ、おじさんの臭いがする部屋はイヤだものね」
「そうだねぇー」
あたしたちの言葉のキャッチボールの前には、おとーさんも言葉を挟み込むことすら敵わず、口を半開きにしたまま、ただただ黙って聴いていた。
────大丈夫、感謝はしてるよ、おとーさんっ。
「私は、いやだ」
こののほほんとした空気を切り裂く言葉を放ったのは、ミキだった。
「え、なんでさ?」
顔をわずかに紅潮させるミキ。
「……こ、この部屋でゆさがベッドで寝ないなら、私も、カーペットにお布団敷いて寝たい……っ」
ミキの言葉にくすっと笑ってしまったのはおかーさん。
「わかったわ、今晩中にそうする。ミキは本当にゆさのことが気に入ったみたいね。──ゆさは、それでもいい?」
あたしはそれに、ただこくりと頷くことしかできなかった。まさかミキの口から、こんなにもダイレクトに言葉が飛び出すとは思っていなくて、あたしとしてもちょっぴり恥ずかしかった。
「それじゃあその前に、少し遅れちゃったけど夕ご飯にしましょ。二人とも、わたしについてきてーっ?今日はお母さん特製オムハヤシよー♪」
あたしたち家族の前に佇む古時計の針は、いつの間にか二十時を指していた。
────(ゴーン)(ゴーン)(ゴーン)────。
と鳴り続ける時計。
あたしたちの歓喜の声も、見事にこれに打ち消された。
時計の向かい壁にまで音が響くように設定してあるのか、至近距離で聴くと耳がおかしくなるんじゃないかと思えるほど、その時計の音は轟いている。
────十九時には、鳴っていることに気付かなかっただけかわからないが、もしかして、これが一時間おきに針が指してる時間の回数分鳴るのか……?
な、なるべくベッド近くに布団は敷こう……。
心のなかでそう決意するあたしだった。
***
「あのとき、おとうさんもおかあさんもゆさも、私を化け物呼ばわりしないでいてくれてよかったって、現在でも思うよ。」
目の前のゆさに私の本心を伝える。
「当たり前でしょうよ。だってミキも家族なんだから、さっ。」
包み隠さず不敵な笑みを浮かべる卑怯者め。おかげで思い出し泣きをしそうになってるじゃないか。仕返しにこっちもゆさには直球を投げてやる。
「あのときは、ありがと。」
「どういたしましてーっ。ま、あたしもあのあと色々あったし、言ってしまえばこれからもあるわけだし、ミキと”ありがとう”って言い合ってたら、きっと一生分の時間じゃ全然足りなくなっちゃうよ。」
うぅ、またゆさにしてやられた……。
悔しい、けど嬉しい。
この感情の名前は、なんというんだろう。
***