第二首 バレンタインチョコ
少し時期外れですが、どうぞお召し上がりくださいなー。
まだかのう、まだかのう。
未だ口にせぬ……、いや、みさとに「手をつけるな。」と言われたわちしは、口にしたくともできずにいる甘味が熟すそのときを、ただひたすらに待ち望んでいた。
────あれはちょうど、二晩ほど前のことであったか……──。
"ちょこれいと"なる土塊のごとき色をした、溶ける板をみさとが大量に持ち帰り、かと思えば、そそくさと調理場に立つなり、いつにもまして更に分量に気を配り丹精を込め、わちしがいましがた待つ、甘美なる甘味を作り給ふたは────。
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「────若紫はさ、甘いものって食べるのか?」
そろそろ、世にいうバレンタインデーだ。
本来おれはチョコを貰う側なのだが生憎学校でおれが所属しているコミュニティに、そんな粋なことをしてくれる女子なんて一人もいない。
──いや、昔は確かにいた。けれど、どいつもこいつもひと月後に渡されるおれからのお返し手作りクッキーを食べたいがために、既製品のチョコを寄越すだけだった。
こんなことが昨年まで、毎年通算六年も連続で起きたいまとなっては、『見返りを求めない本命チョコなんてのは架空のものでしかない』と思い至ってしまっている。
ちなみに、おれは見返りとして料理を振る舞うような性分は持ち合わせていない。そこまで自分の料理の腕を過信してもいないし、なにより、どうしても料理に対して失礼と思えてしまうのだ。
おかげで、おれはこうして、目の前で雅やかに茶を啜る、ついこの前おれと出逢ったばかりの、座敷わらし改め若紫に、こんな質問を投げつけることになっているわけで……。
「問われれば、答えぬわけにはいかぬまい。わちしの食ぶりし、甘味とは、椿餅なる、菓子なりけり。」
「あぁ、そういえば源氏物語にも出てたな。その、椿餅。けど現代じゃ食えるところもほとんどないし、味が全く分からんのだが、それ、美味いのか?」
若紫と会話をする上で言葉の壁が邪魔に入ることを避けるため、おれは学校の図書室でそれなりに古語の勉強もしている。
さて、とはいえ実際、椿餅なんて、どこで買えばいいのかすら不明だし、作り方はなおさら分からない。
唐揚げを美味そうにたいらげたり、じいさんが生きていた頃におれの料理を好んで食べてたりしていたわけだから、味覚や美味い不味いの基準に、露骨な差があるとは思えないけれど。
「椿餅、菓子とはいえど甘味は薄い。餅の名残が拭われぬ仄かに甘いだけのもの。」
「あぁ、若紫の時代にはまだ砂糖はないんだったか」
おれの言葉を受け、若紫は少しばかり頬を膨らませる。
「……みさといま、わちしをばかに、せなんだか?」
「まさか、してねぇよ。けど、砂糖がないんじゃ、現代を生きてる人たちが食べてるような甘いものは、口にするどころか、作れもしなかっただろうな……」
やや機嫌を悪くしている若紫に向け、おれは小さく咳払いを挟み、言葉を重ねる。
「料理の師匠として一ついいことを教えといてやる。若紫、源氏に美味いものを食わせてやりたいなら、若紫はあらゆる"美味"を知っておいた方がいい。飯を作る側が味に不安を持ってちゃ、自信をもって振る舞うこともできないだろ?」
納得するように、「……一理ある。」と溢しながら、小さく頷く若紫。
「しかしまた、不意に甘味の話を繰り出すは、何故か?」
「……お前こそ、急にいつもと違うテンポで核心を突くこと口にするなよ」
落ち着いて返しているつもりだが、内心ではかなり驚いてしまっている。
「わちしにも、この時代に蔓延る話し口調、覚える学は、持ち合わす。さてみさと、弟子のわちしから師への問い、未だ流れはしておらぬ。」
「あぁ、甘いものの話題を出した理由だったか。あのな、そろそろ"バレンタインデー"、っていう、年に一回の甘いものが出回りまくる、特別な日が来るんだよ」
「にわかには信じ難し……。」と言葉を溢しつつ、羨望の眼差しを向ける若紫だったが、それにおれは一つ嘆息を漏らし、続きを語り聴かせる。
「普通なら、女の子が"好きな男の子"にそいつを渡すんだが、おれの場合ちょっと、"特殊"でな……」
諦めを孕んだ上での"特殊"という言葉が入ったフレーズに、若紫の表情は先ほどの無邪気なものではなく、訝しげなものへと変わっていく。
……こいつになら、話してもいいか──。
そう思ったおれは、いつの間にかここ六年のバレンタインデーにおけるおれ自身の経験のありのままを伝え尽くしてしまっていた。
「────わちしには、その六年は、そのままみさとの腕の証と映りける。女子から、貰いしそれは、お前の料理の対価と同義。」
こっちが恥ずかしくなることを、こいつは一首詠むようにさらりと、されどまた、ズバリと的を捉え射る言葉を口にしやがる。
「わちしの師、既にそこまで認められ、弟子のわちしも鼻が高きし。」
若紫の高くなっている鼻を、ピノキオ……いや若紫は日本出身だからここは"天狗"というべきか、なんにせよ、嘘の象徴にするわけにもいかないな。
「ありがとう、若紫。よしっ、感謝の気持ちも込めて、今年は特別に、お前だけの、手作りチョコレートを振る舞ってやるよ」
「……先ほどは、女子がすると、聴こえたが、みさとが作るも、良き日なるや?」
「逆チョコって文化も現代じゃ浸透してるんだよ、心配すんな」
この柔軟さも、時代錯誤によるものなのだろうか。
やはり平安時代ともなれば、風習や慣習が決まっていれば、そこにイレギュラーの入る余地などなかったのかもしれない────。
「ところでだ、"ちょこれいと"とは、なんじゃるろ?」
────……うん、やっぱりその疑問は無視できないですよね、若紫さん。
おれはこのあと、一からチョコレートについて説明するはめになった。とはいえ、原材料が国内で容易に確保できる代物ではなく、それが平安時代にあったかも定かでないことが功を奏し、若紫への説明をそこそこ簡略化できた。
若紫とのやりとりを簡略化したい気持ちは、二日後に差し迫ったバレンタインデー当日に最も美味しくなる"あのチョコレート"を作りたいと思ったからだ。
早速おれは、いつものように巾着袋を手に、近所のスーパーまで自転車を走らせ、必要なものの買い出しを済ませ、帰路につく。
さてと、少し買いすぎたかもしれないが、材料は揃った。
さぁ、調理開始だ────。
手作りチョコを作るにあたって、板チョコを覆っているアルミホイル製のカバーをひたすら外すという行程は、どうあっても避けられない。
当然のごとく、指先が徐々にベトベトになっていくわけだが、それに気をとられて逐一手を洗っていては、更に手際が悪くなる。
全て剥き終わったら、包丁で粗く刻む。どうせこれから湯煎して蕩けさせ尽くしてしまうんだ、細かくする必要性は今回はないだろう。
ボウルに移したときに思い知ったが、一人のために板チョコ八枚は買いすぎだった。
「おれもお裾分けしてもらえばいいか」
調理場で独り言を呟くおれに、若紫は、まだ実態の見えない料理に興味をそそられ、目を耀かせてこちらの様子を窺っている。
「若紫、お前も食うか?」
分量を合わせるにあたって、どうしても、省かなければならないチョコの切れ端も出てくる。
──手渡しだと、若紫のことだし、手の中で溶かしてしまいそうだな……。
「ほれ、口開けて上向いとけよー」
「こうか?」
天井を仰ぎ見るその姿は、最早ただのうがい中の小学生のそれでしかなかった。
若紫の口に板チョコの欠片を放り込む。
「ぬぁっ、あんまい……っ!こ、これ以上……、美味なるものを、みさとはついぞ、作る気か……?!」
「お前の師匠だからな、美味くなるようがんばるよ」
たったひと欠片の"板チョコの端くれ"がこんなにもハードルを上げるものだったなんて……。普段の料理より手間をかける代物とはいえ、若紫の期待の眼差しが痛い。
沸騰直前の熱湯を別のボウルに入れ、それよりひと回りほど小さいボウルに入ったチョコを、湯煎にて溶かしていく。
溶けきったら無塩バターを加えて、更に混ぜて溶かし込む。
バターも溶けてしまったら艶が出てくる。そこにグラニュー糖も加え、また混ぜる。
溶いた卵を三回から四回に分けてそれに加え、その都度混ぜてよく馴染ませる。
艶も出て少しばかりヘラに抵抗を感じるようになってきたら、クッキングシートを敷いた型に生地を流し入れる。
若紫の口にチョコの欠片を放り投げたとき、もう片方の手でオーブンのスイッチを押しておいた。
百八十度に予熱したそこに、型ごと入れて、そのまま二十分焼く。
二十分近くなると、オーブンから甘い匂いが漂ってくる。それにつられて、若紫も調理場に顔を出してはオーブンの中で膨らむそれを眺めていた。
……気合い入れて板チョコ買いすぎたせいで、この行程をあと四、五回は繰り返さないといけないのか。自業自得とはいえ一種の苦行だな。
焼き上がったものを型から取り出し、適当に形を整える。
さて……、多分ここからが大変だ。
おれが全て焼き終えるまで、若紫のつまみ食いを阻止しなければならない。
────思ったそばから……、ほら、早速手を伸ばす若紫……。
「……────本当に美味くなるのは明後日だ。本当に美味しいものを食べたいなら、いまはなるべく手をつけず、ひたすら耐えろ」
「そんなこと……、わちしは聴いておらぬ故、てっきり本日口にできると……っ。」
ほんの少し瞳を潤ませる彼女を見て、重要なことを伝え忘れていたことに気付く。
若紫に、いま作ってるものを教えていなかった。
いや、教えたところで納得するとは皆目思っていないが。
「あぁ、今日作ったこれは"ガトーショコラ"っていって、作ってから三日目が一番美味くなるんだと。だから、他の料理みたいに、焼きたてが一番美味い、って常識は通じないんだよ。そういや言ってなかったな、悪い。……けど確かにもどかしいよなぁ」
おれもこのもどかしさには覚えがある。だが、三日目が美味いのは間違いないから、結局は三日目に悔いるのだ。一日目に食べ過ぎたことを……。
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三日目の今日、みさとは帰ってくるやいなや、保存していた"がとぉ・しよこら"なる、焼きたての時点で甘美な香りを漂わせていた甘味を切り分け、食卓に並べた。
「待たせたな、若紫。ハッピーバレンタ────……、おい」
「いただきます!」
みさとには悪いが、わちしはもう限界だったのだ。
食べたくて食べたくて、このときを待ち焦がれていたのだ。言葉の途中とはいえ、「いただきます。」と手を合わせたのだから、そのまま素手で手に取り口に含めたことくらい、この際勘弁してもらいたい。
「び、美味なりぃ……!!」
卒倒するかと思った。
外側のざらつきとは裏腹に、しっとりとした食感の内面。柔らかいのに、しっかり口の中を独特の甘味が覆っていく。
こんなもの……、ひと口たりとも、他の女子には渡せない……っ。
わちしに甘味の耐性がないと、みさとはしかと弁えていたのだろうか。
これを食ろうてしまえば、源氏様に渡せるどんな甘味も劣ってしまうと、ちゃんと認識していたのだろうか。
そんな些末な疑問を抱えつつ、しかし、それでもやはり、この甘味の海にわちしは浸り続けるのだった────。
みさとの料理の腕は、若紫をどんどん虜にしていってますね。
さて、若紫は、次はなにを食べてみたいのかな?