狩り
最後の軍議を滞りなく終えたころには、
空は黄昏色に染まっていた。
そのまぶしい美しさに目を細めながらフレヤは立ち上がった。
もう開戦まで数刻となかった。
ルザに手を引かれて、女性用の胸当てを着せてもらう。
これはアルハフ族の戦士達が愛用している
皮をなめして作ったものだった。
軽くて丈夫なので、ひ弱なフレヤでも身に着けることができた。
つけてもらっている間、
ステファンたちが現れるであろう国境近くを黙って見つめる。
心は震えるほどに澄み切っていた。
やがてそこから視線を移し、
騎士たちとアルハフ族の戦士たちを見やった。
彼らは各々の鎧を身に着け、いつでも戦闘態勢に入れる状態だった。
同じくアルハフ族の胸当てを着込んだメノウが
フレヤの隣に並ぶ。
徐々に薄い藍色に染まって行く空の中、
満月がぽっかりと浮かんでいるのが見えた。
満月は異形の者のための夜。
どの異形の者たちも自身の力を最も強く発揮できる。
それはアルハフ族の戦士たちや、フレヤにとっては
絶好のタイミングではあるが、
それはダークエルフの血族であるステファンや
彼の配下であるダークエルフたちも同じことだ。
長期戦で圧倒的に不利なのはこちら。
短期戦で全戦力をぶつける。
もはやそれしか道はない。
フレヤは悲壮なまでに毅然として
騎士たちとアルハフ族の戦士たちを見つめた。
女王の凛とした姿に、騎士たちは思わず居住まいを正した。
「今宵の戦いは苛烈になるわ。
深く傷つく者も出るはず。
それでも私は命じる。
私のために血を流せ、と」
決して大きな声ではない。
だというのに、その凛とした声は
その場にいるすべての者の鼓膜を震わせた。
傲慢なまでの物言いだというのに、
その言葉は火酒のように甘く激しく騎士たちの
そしてアルハフ族の戦士たちの体を焼く。
女王たる娘の瞳が、夕日の光を受けて
炎の様に強く赤に輝いた。
風に舞う青い髪は大海原のようだった。
「私の剣。
その刃がこぼれようとも、
私はあなた達という剣を手放さない」
「我ら一同、この身、この魂、
持つもの全てを捧げます」
騎士団長のハイヴが深く頭を垂れた。
彼に倣って、騎士たちだけでなく、
アルハフ族の戦士たちも頭を垂れた。
彼らを睥睨した後、フレヤはすっと遠くを見つめた。
ぽつぽつと国境近くに黒い影が見える。
黒い影は徐々に大きくなり、
人の形をした何かがいくつも空を飛んでいるのが見えるようになった。
きゅっと手を握り締めた。
開戦だ。
おもむろに、護身用の短剣を取り出す。
銀に輝く刀身。
これは、王家に伝わる宝剣だ。
それを鞘から抜き放ち、掲げる。
銀の刀身が夕日を浴びて、赤い輝きを放った。
これは遠い昔、人魚姫が王子を殺すために
姉姫から授けられた短剣と言われている。
だけど、彼女は初めて恋した人を
自分の手で殺すことができなかった。
たとえ泡となって消えてしまうことになっても、
どうしても、殺せなかった。
海に落ちたその短剣を、人魚の魔女の孫娘が海の底で拾い、
人間の王子に恋をし、結婚しても、
大切にしていたと逸話として残っている。
(だけど、私は、違う……)
嘆き、悲しみ、奪われるだけだった人魚姫ではない。
人魚の魔女の末裔だ。
清廉潔白などではいられない、闇の眷属の者だ。
かつて人魚姫が使えなかったこのナイフを
恋したあの人の心の臓に深く突き立てよう。
たとえ、差し違えることとなってもだ。
フレヤは歌いだした。
炎のほとばしりそうな、吹雪のような戦いの歌だった。
叫びのような歌詞のない歌は、
騎士たちの体を業火でなぶるように熱くした。
かがり火の様に騎士たちの体が青い光で包まれる。
彼らを決して死なせない。
死なせてたまるものか。
悲鳴のような旋律は騎士たちの体に灯った
青い輝きをさらに強くした。
『私たちは死に行くのではない。
勝ちに行く。
この国の最後の砦となる』
緑の瞳を赤く輝かせたメノウが微笑みながら言った。
いつもの夢見るような微笑ではない。
牙をむき出しにした獣のような笑みだった。
びりびりと空気が震える。
風になびき広がる金髪はたてがみのようだった。
騎士たちの体は赤い靄にも包まれた。
赤と青が交じり合い、
紫の炎のようなものが彼らの体から立ち上っている。
フレヤは、ふと不穏な空気の鳴動を感じて、
空を見上げた。
漆黒の魔法陣のようなものがはるか上空に浮かんでいた。
「散れ!!」
ハイヴの怒号のような声が響いた瞬間、
ひときわ強く魔法陣が光った。
数泊後に轟音と共に目の前が土埃で見えなくなった。
魔法陣からの攻撃が、騎士たちとアルハフ族の戦士たちが
いた場所をえぐったのだと遅れて気づく。
初めて見る高度な魔法攻撃に思考が追い付かない。
あれが、ダークエルフたちによる攻撃だというのか。
腹に強い腕が回っていることに気付き、
その腕の主をはっとして見上げる。
ぞわりと肌が粟立つのが分かった。
昨夜ぶりに会うステファンが背後にいた。
藍に染まりつつある空に、金髪がよく映える。
宝石のようなアイスブルーの瞳は
燃えんばかりに輝いていた。
「っく!!」
手に持っていた短剣で切り付けようとしたら、
素早く手首をつかまれ動きを封じられた。
フレヤを抱えたまま、ステファンは
戦場から静かに離れていく。
「はな、して!!」
「どうかそう暴れずに。
遠くから観戦というのも悪くはないものだから」
騎士たちやアルハフ族は上空からの猛攻に
フレヤがその場からいなくなっていることに気付けていない。
ステファンを強く睨みつける。
ならば、女王として決着をつけるしかない。
しかし、ふと疑問に思った。
ダークエルフたちは、みんな上空にて魔法攻撃を行っている。
地上に降り立たない相手に、騎士もアルハフ族も
ひどく苦戦している。
だというのに、なぜステファンはフレヤを攫ったあと、
すぐに安全な上空へと移動しなかったのか。
いや、移動しなかったのではなく、
できなかったと考えたらどうだろう。
ステファンはダークエルフの末裔ではあるが、
人間の血が多く入り、ダークエルフとしての血は
薄くなっているらしい。
もし、フレヤやメノウの様に特殊な力を使えないとしたら。
「そう睨まずとも、別に貴女を害するわけではない」
春の陽だまりのような笑みの仮面をかぶっている
ステファンは、甘く残酷にささやいてくる。
この余裕だ。
仮に、特別な力を使えないとしても
フレヤごときではかなう相手ではない。
しかし、フレヤはその程度では諦めず
黙ってステファンの隙を伺っていた。
「どうだろうか?
少しは差というものを感じてくださっただろうか。
貴女の軍は、まるで追い詰められたウサギのようだ。
上空からの攻撃には逃げることしかできない」
彼らの視線の先には、いくつもの魔法陣から放たれる
魔法攻撃をすばやい動きで交わし続けている
騎士団とアルハフ族の戦士たちの姿があった。
もしフレヤの歌とメノウの声の力で
力を増していなかったら、壊滅状態になっていただろう。
土煙がもうもうと上がる中、黒い人影がいくつも舞っている。
「それが、なに」
かすれた声でフレヤは返答する。
かすれてはいるが、震えてはいない。
「私の剣は、曇り一つなく、折れもしない」
フレヤの言葉にステファンはすっと目をすがめた。
それをまっすぐに見つめ返す。
「少しは絶望してくださると思ったのだが」
「彼らという剣が折れぬ限り、私も絶望など、しない」
強く言い切ると、ステファンの顔から
ほほえみの仮面が剥がれ落ちた。
冷たく硬く鋭利な残忍さがアイスブルーの瞳をよぎる。
「とても残念だ。
やはり殺さねばならないか」
フレヤは顔色を変えないようにするので必死だった。
少しでも隙を見せたら頭から喰われてしまいそうだった。
気おされてはならない。
奥歯を噛みしめて恐怖に耐える。
「私は、貴女が絶望するのが見たいというのに
貴女は決して絶望しないという」
ステファンの白手袋に包まれた指がすっとフレヤの顎を取った。
力をこめられ、丁寧にだがしっかりと上を向かせられた。
皮肉なものだ。
婚約者であったころよりも、
はるかにステファンとの距離が近い。
口づけさえできそうなほどステファンは顔を近づけてくる。
その目には恋情とも憎悪とも呼べるような
強い感情が宿っていた。
「……どこまでも」
かすれた声には仄暗い熱情がこもっている。
「どこまでも思い通りにならないお人だ」
苛立ち、羨望、賞賛、執着、嫌悪、憎悪、恋情。
ありとあらゆる感情がまざったささやきが
直に耳に落とされる。
「貴女の妹君とわざと恋仲になったのは、
貴女が嫉妬に狂う姿が見たかったがためだった。
だというのに、貴女という人は、
己の感情を押し殺し、あまつさえ祝福すらしてみせた。
彼女と夫婦となってから、貴女に会いに行っても
貴女は私に欠片の執着も見せなかった」
そんなことはない。
心はずたずたに切り裂かれて、
血まみれになっていた。
これ以上ないほど悲しく惨めな思いをした。
何より恋しくて、仕方がなかった。
溺れるように恋をしていたからだ。
この手に触れたかった。
この指に触れてほしかった。
何度だって名前を呼んでほしかった。
抱きしめてほしかった。
泣いて、叫んで、みっともなく縋りつきたかった。
全ては悪い夢なのだと思いたかった。
またあの日々に戻れたら、と
何度あさましく願ったことか。
「……貴方は、私のことを何も知らない」
低く押し殺した声で答えると、そうかもしれない、と
平坦な返答が返ってきた。
「貴女を裏切った時も、貴女を追い詰めたときも、
どんな時だって、あなたは絶望しなかった。
闇に堕ちるどころか、燦然と輝いていく。
そこがひどく憎らしくて、愛おしい。
手を伸ばさずにはいられない。
貴女の高貴なる魂を闇に染めることを考えただけで
とろけてしまいそうになる。
我らは闇の眷属にまつわる者。
どれほど輝こうとも、我らの本性は闇とともにある。
われらこそ、つがいとなり、夫婦となり、
子を成していくべきだとは考えてはくださらないのか」
「そんなことするくらいなら、
最後まで抵抗してから、潔く自害するわ」
迷いのない言葉にステファンは笑った。
これはずいぶんと嫌われたものだ、と
ひとしきり笑った後、吐息を漏らした。
「……やはり、私は貴女が、欲しい」
噛みしめるような言葉と共に、
手首をつかむ手がわずかに緩んだ。
フレヤは、瞬間的に力をこめ、手首をひるがえらせて
ステファンに突き立てようとした。
しかし、ステファンは迫りくる刃に怯むどころか、
自ら刃を手で掴みにかかった。
「おとぎ話の人魚姫とはずいぶんと筋書きが違うようだ。
王子に恋した人魚姫は、王子を殺せず
自らの命を犠牲にしてまで愛を守ったはずなのだが」
「……私は人魚姫ではないわ」
平静を装っても内心は動揺していた。
ステファンの白手袋を鋭い刃はたやすく切り裂いた。
みるみるうちに白手袋が赤に染まっていく。
わずかに怯んだすきに、ステファンはフレヤから距離を取った。
はっとした時には、すでに追いすがるには
遠すぎる距離が開いていた。
「宣言させていただこう。
今夜はさすがに小回りが利いていて、
わが軍でもあなたの軍はつぶせない。
だが、明日は容赦しない。
貴女以外のすべて、皆殺しだ」
微笑みながら告げられた言葉に、
己ののどが小さく音を立てた。
見ないようにしていた事実。
全員を失うかもしれないという恐怖が
フレヤの足を動けなくした。
押し殺していた恐怖は爆発的に心を支配し、
判断力を奪っていく。
「今日は退いてさしあげよう、フレヤ様」
「ま、って……!!」
差し違えてでも、彼を止めなければならない。
頭ではそうわかっているのに、体が言うことを聞かなかった。
恐怖で足がすくんで動けないのだ。
その間に、ステファンの姿はあっという間に見えなくなった。
やがて、鳴り響く轟音が止まった。
あたりに静寂が満ちて、砂塵が舞う。
オスロ国ダークエルフ軍の唐突な撤退だった。




