開戦直前
その夜、フレヤは目がさえわたりすぎて、全く眠れなかった。
ステファンの言葉が何度も頭の中を反芻している。
テントの天井を見つめ続ける。
遠くから火の粉の爆ぜる乾いた音が小さく聞こえた。
静かだった。
だからこそ、頭の中のステファンの言葉が
より大きく聞こえてしまう。
『貴女の騎士団ごときでは
敗北することは貴女もよくご存じかと思っていたのだが』
あの時、反論の言葉が咄嗟に出なかった。
そのことを、誰よりも理解しているのはフレヤだからだ。
フレヤの歌とメノウの声は万能ではない。
その効能は、魔法というよりも洗脳という言葉が近い。
二人の力は、騎士たちの身体能力を飛躍的に上げたのではない。
騎士たちに、思っているよりも自分の身体能力は高い、と
思い込ませた暗示のようなものだ。
騎士たちは一時的にアルハフ族と同じだけの身体能力を得られるが
それはあくまで一時的なものだ。
通常よりも体に負荷をかける運動を無理に行うので、
騎士たちには通常の倍近くの疲労が体にたまる。
最初の一日はステファンの軍をしのげるかもしれないが、
次の日、騎士団は動けないほどの疲労に襲われるだろう。
そうなったら、この国は終わりだ。
騎士とアルハフ族は皆殺しになるだろう。
かろうじて国民を北に避難させているのがせめてもの救いだ。
フレヤは、罪の重さに震えが止まらなかった。
騎士たちは、ダークエルフを実際に目にしていないから
その実力をよくわかっていない。
アルハフ族もそうだ。
そこでフレヤははっとした。
違う。
メノウ、チノ、カルト。
この三人はダークエルフたちを実際に見た。
かなわないとわかっているはずだ。
騎士たちが戦力としては不十分なのは
特に武人であるチノとカルトは気づいたはずだ。
それでも、フレヤに何も言わないということは、
勝てるという自信があるというのか。
フレヤは唇を強くかみしめた。
いや、違う。
恩人であるフレヤに義理を通すつもりなのだ。
文字通り、命をかけて。
(……いやだ)
誰も死なせたくない。
誰も奴隷にさせないたくない。
どちらもかなえるには、自分の力はあまりに足りなさ過ぎた。
悔しかった。
情けなかった。
もっと、もっと強い力があったら、
全てを守りきれたかもしれない。
目じりからスッと熱い雫が零れ落ちた。
こらえきれず、嗚咽が噛みしめた唇の隙間から洩れた。
また、悔しさに泣くことしかできないのか。
惨めさに嗚咽を漏らすしかないのか。
「フレヤ、入るぞ」
唐突にテントの外から声をかけられて、
フレヤは目を見開いた。
声を上げるよりも早く
チノがしなやかな動きですばやくテントの中に入ってきた。
夜遅くに女王のテントに勝手に入ったとなれば、
他の騎士たちにお咎めを受けるから、ひそかに入ってきたのだろう。
フレヤは泣き顔を見られないように
あわてて毛布を頭までかぶった。
チノがこちらに近づいてくる気配がする。
「フレヤ」
溶ける前の雪のような柔らかい声だった。
目頭がまたじわりと熱くなる。
フレヤはきつく毛布を握り締めた。
こんな顔を見せたはいけない。
女王は毅然としているべきだ。
いつでも凛としていて、前を向いて、進み続ける、
民の道しるべとなる者だ。
それが涙していれば、みんなが不安になる。
不安にさせたくない。
未来は明るく照らしていてあげたい。
「おまえ、馬鹿だろう」
笑われながら言われフレヤは目が点になった。
徐々に心を満たす感情。
唇が震える。
これは、これは怒りだった。
これだけ自分が悶々と考えているところを
突然現れて馬鹿とはどういうことなのか。
怒りで涙も引っ込んでしまった。
勢いよく毛布から顔を出すと
ふわりと抱き寄せられた。
「やはり馬鹿だ。
あれだけ言ったのに、また一人ですべてを背負い込み
涙をこぼしている」
まばたきをした拍子に、目の端に残った涙が零れ落ちた。
「おれの前では気を張らなくていいと言ったのを
綺麗に忘れてくれたらしいな」
わずかに声音にいらだちを混ぜながらも
彼は荒っぽくフレヤをかき抱いた。
人を抱き寄せるのに慣れていない手つきだった。
戸惑うような気配と一緒に、こちらを気遣う心を感じた。
オーブンから取り出したケーキの様に
突発的な怒りがしぼんでいくのを感じた。
フレヤが思い詰めているのを感じて
何かうまく声をかけたいのに何も言えない不器用さに
優しさがにじみ出ていた。
「私は……あなたたちの忠義心を利用して
あなたたちを死に追いやるような真似をする」
気づけば、震える声が唇から漏れ出ていた。
こんなことチノには言いたくないのに、
言ってはいけないのに、ぽろぽろと言葉が零れ落ちていく。
「私は、誰も死なせたくない。
でも、そうしないと、誰も守れない」
「落ち着け。
落ち着いて、ゆっくり話してくれ」
震えの止まらぬフレヤに、
チノがなだめるようにその小さな背中を何度もさする。
大きな手だった。
この手をもうすぐ失ってしまうのかと思うと
目の前が真っ暗になるような心地だった。
指の関節が白くなるほど、チノの袖を強く握り締める。
「……私たちの戦力では、負けてしまう」
喉の奥から絞り出すようにして言葉を紡いだ。
チノは何も言わない。
フレヤは、たどたどしく言葉を紡いだ。
「みんな、殺されてしまう。
負けると分かっている戦いに兵を送るのは
死に追いやるのと何も変わらない」
「それは違う」
温かい指が髪をすく。
その少しくすぐったいような感触が
切なくなるほど愛おしくて止まったはずの涙が
じわりと目の端に滲んだ。
「おまえが不安に思うのもわかる。
心配するなと言うほうが無理だろう。
失う痛みを知る者ならば、
誰も失いたくないと思うのは当然のことだ。
だが、その前に、おまえは一つ、忘れている」
大切なこと?
そんなことはない。
騎士たちの、アルハフ族の命を失ってしまうことよりも
重大な事実はない。
そう言おうとするよりも早くチノが言葉をつづけた。
「おれたちを、信じてほしい」
低い声は弦楽器の様に耳に豊かに響いた。
胸を突かれる思いだった。
彼らを失うことばかり考えて、
自分の心が傷つくことばかり考えていて
彼ら自身のことを信じようとしなかった。
命を懸けて国を、大切なものを守ろうとする彼らを
女王が信じなくて誰が信じるというのか。
ステファンは間違っている。
全然、女王になどなれていない。
その存在に近づけすらしていない。
「戦いはおそらく夜となる。
おれたちのような異形の者たちが
最も力を強くする時間帯だ。
お前も早く寝ろ」
こめかみに素早く口づけをおとすと、
チノは足早にテントを出ていこうとする。
おそらく他のものに不審に思われないようにするためだろうが
フレヤは思わず彼の服の袖をつかんでしまった。
驚いたようにチノが振り返る。
掴まれている袖を見た後、緑の瞳がフレヤの顔を見つめる。
「い、いかないで」
消え入るような声でそう言うと、
緑の目は真ん丸に見開かれた。
フレヤはめったに人の前で弱い姿をさらさない。
そうすることが苦手なのだ。
だから、チノも驚いているのだろう。
袖をつかむ手に、大きくて熱い手が触れた。
触れられているところから溶けてしまいそうだ。
フレヤはチノの顔を見上げた。
その目の奥に、とろりとした鋭い獣の色を見て
びくりと体が震える。
それを見て、チノははっとしたように、フレヤの手を離した。
その仕草がひどく寂しくて、フレヤは行き場のない手を
そっと握りしめた。
「フレヤ、その」
チノは珍しく歯切れの悪い言い方で、言葉を紡いでいる。
口元のあたりを手で覆って、フレヤを視界に入れないように
そっぽを向いている。
その仕草に胸が鈍く痛んだ。
「その、だな。
明日は満月だから、今は、あまり触れ」
「私は、チノと一緒にいたい。
離れたくないの」
ゴンッ
チノがテントの支柱に頭をぶつける音が響いた。
わずかにテントが揺れたが崩れるようなことはなかった。
「チノ?」
呼びかけるとチノがゆらりとこちらを見た。
その目に見たことのない光を見たと思った瞬間、
彼は一瞬でフレヤの前にいた。
肩を押され、突然のことに抵抗もできずに
とさっと自分の体が軽い音を立てて寝具に倒れた。
視界いっぱいにチノの顔が映る。
彼は怖いくらいに無表情なのに
目だけは宝石のようなキラキラした金色に輝いていた。
綺麗な獣の瞳だった。
ゆっくりとチノの顔が近づいてくる。
フレヤはゆっくりと瞬きをして彼を見つめ続けた。
突如、チノがうめき声をあげて
フレヤの首元に顔をうずめた。
口づけをされるのかと思ってどきどきしてしまったが
これはこれでどきどきしてしまう。
首筋にチノの熱い吐息がかかって、
ひどく落ち着かない。
「ち、チノ?
大丈夫?」
チノは聞いたことのない言語を
猛烈な勢いでぶつぶつと呟き続けている。
おそらくアルハフ族の言葉なのだろう。
時折、どうしてこういう時に限って死ぬほど可愛いことを、
などとフレヤを恨むような言葉もちらほらと聞こえた。
かと思ったら、首をがぶりと噛まれた。
いつものようなはむような噛み方ではなくて
犬歯が肌に食い込むような、苛立ちまぎれの
何かをこらえるような噛み方だった。
小さく悲鳴を上げると、半眼になったチノが顔を上げた。
何やら恨みのこもった湿度の高いまなざしを向けられる。
「な、なに?」
「…………なんでもない」
チノは素早く状態を起こすと、すぐさま足早に
テントを出て行ってしまった。
こちらを振り返るようなことは一切なかった。
結局傍にはいてくれなかったが、
触れられた部分が熱を帯びているようだった。
「……なにかを我慢していたのかしら?」
静かなテントの中で、フレヤの問いに答える者はいなかった。
「フレヤ様、朝にございます」
控えめなカインの声ではっと飛び起きた。
気づいたら寝入ってしまったのだ。
ここにはメイドは連れていないので、
カインがおこしに来てくれたのだ。
かといって、寝起きの主を異性のカインが目にしようと
するはずもなく、こうしてテントの外から声をかけてくれたのだ。
「おはよう、カイン」
目覚めたことを伝えるために、
少し大きな声で言うと、一瞬の沈黙の後、
おはようございます、と慇懃な挨拶が返ってきた。
フレヤを起こす、という任務を完了したら
カインは去ってしまうのかと思ったが、
テントの前の気配は動かなかった。
「恐れながら、陛下。
昨夜、ここに誰か訪れたりなどいたしましたか?」
瞬時にチノの顔が脳裏をよぎった。
ここでチノの名前を出したら、
彼の立場が悪くなってしまうだろう。
「誰も来ていないわ。
どうして?」
カインに嘘をつくのは心苦しかった。
声が震えないように、つとめて平坦な調子になるようにした。
「……いえ、少し気になったもので」
同じく平坦な調子のカインの声にほっとした。
疑われてはいないようだ。
「では、では軍備の調整にいってまいります。
失礼いたします」
きびきびとした口調でそう言うと、
カインがその場を去っていく音が小さく聞こえた。
ほう、と小さく息を吐く。
今夜、開戦となる。
第一部隊隊長のカインには、余計な心労をかけさせたくない。
既に、アルハフ族のことであれだけピリピリしていたのだ。
彼は今、これ以上ないほどの重圧にさらされているだろう。
なにかカインを励ます言葉をかけてやればよかったと
後悔がじわりと胸に広がる。
フレヤは、重い手つきで着替えを済ませると、
テントから足を踏み出した。
するとちょうどこちらに来ようとしたらしい
カルトと鉢合わせをする格好になった。
相変わらず色鮮やかなアクセサリーをじゃらじゃらとつけていて
戦争の前でも彼は変わらない。
「おはようカルト」
「おはよ。
朝飯できたから呼びに行こうと思って」
「そう。
ありがとう」
そっけないともとれるフレヤの態度にも慣れたようで
カルトは特に何も言わなかった。
その長い毛先をいじっている横顔を見ていると、
ふと聞きたいことが浮かんできた。
「ヘレナを連れてこなかったこと、怒ってる?」
カルトは驚いたように少し緑の目を見開いた。
ヘレナは、避難民たちと一緒に北の領地にいる。
彼女には、民のまとめ役として表向きは役職を与えているが
戦争の最前線から逃したことは誰から見ても明白だった。
ヘレナの意思を尊重しなかった。
自分自身の願いを優先した。
ヘレナには、もし自分に万が一のことがあっても
生きていてほしいと。
「別に?」
カルトはいつものような軽い笑みを浮かべた。
強がっているのかと彼の顔を注意深く観察したが
心の底から言っているようだった。
「ヘレナはその程度でへこたれる女じゃないし?
仮にも、あんたの妹だしね」
カルトの言い方は、ヘレナはおれのものだと
言わんばかりのものだった。
あれだけ何事にも執着しなさそうな飄々とした男が
こうも変わってしまうのかと思うと不思議な心地になる。
「あんた、妹のこと、もうちょっと信じてみたら?」
人を食ったような笑みとともにひらりと手を振ると
カルトは元来た道を歩き去ってしまった。
フレヤもあわててカルトの背を追って、
朝食を食べるために歩き出した。




