バルコニー
しかし、バルコニーには先客がいた。
背格好から男性のようだ。
月を背にして立っているため、その姿はよく見えない。
長い黒髪のせいで一瞬女性かと思ったが、
体格やその背の高さから男性だとわかった。
ふと気づいた。
その男性が身に付けているのは、この国のタキシードなどのような服ではない。
異国の民族衣装だということに気付く。
ドレスのように裾が長く、袖も長い。
男性がこちらの気配に気づいてゆったりと振り返った。
フレヤは男性の目を見て息をのんだ。
「ほう、やっといらしたのか」
闇の中で真っ赤に光る目だった。
フレヤと同じ赤い目。
フレヤは混乱して、口を意味もなく開閉したが声は出なかった。
異民族の衣を着ているのに、フレヤたちの言語を滑らかに話している。
「お初にお目にかかる。
我は、ミン国の皇子、シウだ」
聞き覚えのある名前だ。
たしか、遠い遠い東の異国の地にある巨大な国の名前。
その皇子がはるばる西の国まで来たというのか。
何かひっかるが、フレヤはあくまで表情を崩さないようにした。
静かに顔に上がっていた熱が引いていく。
「私は、コペンハヴン国の第一王女、フレヤにございます」
形式的にドレスの裾をつまんで軽いおじぎをする。
顔を上げると、シウと名乗る男性は、こちらを見つめていた。
フレヤと全く同じ色の瞳。
まさか。
いやそんなはずは。
そんな気持ちが入り乱れ、何も言えなくなる。
「お察しのとおり」
まるでフレヤの心を読んだかのようにシウが言葉を発した。
身体が一瞬固まる。
「我は、貴女と同じ異形の血を宿すものだ」
ああまさか。
心の中で懸念していたことが、実際に口に出されて確信する。
一目見た時からどこか目が離せないこの独特の魅力。
やはりそうなのだ。
「やはり……貴方も」
フレヤは少し顎をひくようにして、シウを見つめた。
真っ赤な瞳。
フレヤの紅い瞳は水の中で美しく輝くが、
彼の瞳は闇の中で妖しく輝いている。
ひどく美しくて見入ってしまう。
魔性、というものだろう。
「失礼ですが、貴方がどの一族の末裔かお聞きしても……?」
「人の生き血をすすって生きる闇の一族の血を引いている」
聞いたことがある。
闇の一族、ヴァンピールだったか。
闇に溶けるような気品のある姿も、夜に映えるその血のような赤い瞳も納得がいく。
遠い東の地にはまだその血を引くものがいたのかと少し驚きを覚える。
西には人魚と交わった一族は、フレヤたちしかいないので、
こうして異形の血を引くものと会うのは家族以外では初めてとなる。
不思議な心地でフレヤはシウを見つめた。
最初に抱いていた強い警戒心は徐々に薄れていく。
悪い人間ではないのかもしれない。
「妹の結婚式に遠き東の大国からいらしてくださって
光栄の極みでございます」
「いや、貴女の心の痛みに比べたら我の苦労など、とるに足らないものだ」
フレヤの顔が一瞬で凍った。
前言撤回だ。
この男、最悪だ。
フレヤの元婚約者と妹の結婚式であるとわかっていて
わざとこのような物言いをしているのだ。
薄れかけていた警戒心が一瞬で元に戻った。
一方のシウは愉快そうにフレヤを眺めている。
自分の言葉の一つ一つにフレヤが翻弄されているのを見るのが
とても楽しいようだ。
ふと気づいた。
シウほど遠国からきている客はいない。
なぜ彼は、遠い西の国までただの結婚式に参列しに来たのだろうか。
「しかしながら、これほどまでに遠くまでいらしてくださるなんて
……何が目的ですか」
フレヤはそれまでの丁寧さを捨てた。
この食えない男から情報を引き出すには、
なりふりかまってなどいられない。
「目的、とは」
「結婚式に招いたとはいえ、あれは形式上のもの。
ただの社交辞令だと貴方もお分りでしょう。
ただの結婚式に参列するには、この国はあなたの国から遠すぎる」
「――――――聡い女は嫌いではない」
がらりと音を立ててシウの仮面が取れた気がした。
冴え冴えとした光を放つその瞳に射すくめられる。
「目的なら我の目の前に」
シウがこちらに一歩近づいてきた。
気おされぬように、フレヤは足に力を入れた。
気おされたら負けだと必死に自分に言い聞かせて、
フレヤはぐっと睨むようにして正面からシウを見つめた。
もし、悪意を持ってこの国に来たのなら
ただではおかないつもりだ。
「我は汝を一目見に来たのだ、人魚の末裔、フレヤ王女」
「……!?」
驚きが表情に現れないようにして、フレヤは必死に平静を取り繕った。
どういうことだろう。
会いに来た?
何がどういうことなのだろうか。
「私に会ってどうなさるおつもりで」
「確認をしに来たまでだ。
どのような者なのかを」
シウがまた一歩近づいてきた。
次の瞬間、腰に手が回ってぐいっとシウに引き寄せられた。
彼の思いもよらぬ行動に、フレヤはよろけて、
自ら彼の腕の中に飛び込む形となった。
炊きしめた香が鼻をかすめる。
背後で高らかにワルツが奏でられているのが遠くで聞こえた。
「離して」
平静をよそって距離をとろうとするが、
シウの腕はびくともしなかった。
自分のものではない体温に体がこわばる。
さらりと彼の長い黒髪が、露わになっている首筋をかすめた。
耳がかっと熱くなる。
自分が自分でなくなるような感覚。
「我は、汝に興味があってここまで来た」
なるべく表情を変えないようにして、
至近距離からシウの目を見る。
宝石のような瞳は、ぞっとするほど美しかった。
「我は、異形の血を持つ者を探し求めている。
ゆえに汝がどのような者であるか、興味があったのだ」
シウの指が、すっとこちらに伸びてくる。
その指が頬に触れそうになった時、
腹部に力強い腕が回って、景色が流れた。
髪がなびいて、ふわりと宙を舞う。
癖のある濃い青の髪。
視界の端に黒衣が見えた。
「逢瀬の邪魔をするとはずいぶんと無粋な輩だな」
「主によからぬことをしようとする者から遠ざけただけだ」
チノだ。
さきほどまで彼の存在に心乱されていたはずなのに
今は驚くほど安堵していた。
「なるほど。
人魚の姫には番犬がついているということか」
シウがこちらに向かって歩いてくる。
チノが全身に緊張を走らせているのが密着した身体から伝わってくる。
しかし予想とは裏腹に、シウは、横を通り過ぎていく。
「また会おうぞ、人魚の姫よ。
我はますます汝に興味がわいてきた」
ふわりとその場に残り香が漂う。
シウは、華やかな広間に紛れていってしまった。
黒髪が完全に見えなくなってしまってから、
ようやくチノが緊張を解いた。
「あの男」
「なに?」
「知り合いなのか」
振り返るようにしてチノの顔を見ようとすると、
驚くほど近くに緑の瞳があってわずかに動揺する。
その緑の瞳には一瞬驚きの色がにじんだが、
瞬きの間に消えてしまった。
「遠き東の大国、ミン国の皇子らしいわ。
お目にかかったのは初めて」
あれほど腹の立つ、食えない男性は初めてだ。
するりと腰に回った腕が解ける。
残ったぬくもりが妙に寂しさを感じさせた。
「戻りましょう、中に」