決別の時
「ならぬ、と言ったのを忘れたのか」
シウの態度は次の日になってもかたくなだった。
フレヤは唇をかみしめて、
どういえば理解してくれるのかと考え込む。
「何を言おうと無駄だ。
ならぬものはならぬ」
シウの目はいつもよりも冷ややかで戸惑ってしまう。
いつもにもまして、イライラしているような
そんな印象を受けた。
その言葉の通り、何を言おうとも
フレヤがコペンハヴン国に戻るのを認める気はないようだった。
しかし、今までのシウは、条件をつけながらも
フレヤの願いをかなえてくれている。
冷たく見えるが、懐が深く、情も深い人なのだ。
そのシウがここまでかたくなにフレヤの意見を
かたくなに突っぱねるのはどこか不自然にすら思えた。
何か理由があるに違いないが、この調子では
おそらく説得は厳しいだろう。
「そう……」
「長居は無用。
明日にはここを発つ。
他の者にも伝えておけ」
さすがに一か所に長居しすぎだとシウも思ったようだった。
それに関しては同意見だが、その行先はシウの国だ。
まだ、そこに行くわけにはいかない。
「そう……」
だから、食い下がるのではなく、
あえて大人しくシウの意思に従うようなそぶりを見せる。
シウは、チノほど人の心の機微には聡くない。
まさかフレヤが既にコペンハヴンに向けての旅の準備を
終えているだなんて気づきもしないはずだ。
フレヤはしおらしく見えるように目を伏せたまま
シウの部屋から退出した。
しかし、宿の出入り口で意外な人物に出会ってしまう。
「よう、おひいさん」
龍族の長、ロンだった。
人ごみの中でもよく目立つ長躯にフレヤは目を細めた。
「おはよう。
私に何か用かしら?」
「あんたの時間が少しほしい」
「……かまわないわ」
ロンがこうして話しかけてくれるのは珍しい。
というか、初めてのことだ。
少し戸惑いながらも頷くと、ロンも軽く頷いて見せた。
「ここじゃまずいから、移動しようか」
濃い翡翠色の髪をなびかせて、ロンが先導する。
フレヤはその広い背中を小走りで追いかけた。
連れてこられたのは、見晴らしのいい港だった。
サファイアを溶かしたような美しい青い海が広がっている。
「……私に話があるのね?」
「ああ、シウのことだ」
言葉の端に少しだけ重みを感じて
これは大事な話なのだと背筋を正す。
ロンだけはシウに対して砕けた口調で話しているし、
シウ、と呼び捨てにしているのもロンだけだ。
よほど近しい仲なのだろう。
「なにかしら」
「おひいさんがあれだけ言ってもシウのやつが
コペンハヴンに戻らないのは、おひいさんのことを
昔の自分に重ねているからだと思う」
意外な言葉にフレヤは少し目を見開いた。
昔のシウ……?
過去に何かあったのだろうか。
「おれらの祖国、ミン国は、吸血鬼の一族が皇帝だ。
国民はほとんど人間で、吸血鬼以外の異形のやつらは
ずっと昔から差別され、虐げられてきた。
それは、吸血鬼とみたいな異形のやつらに
支配される恐怖と屈辱を他の異形のやつらに
ぶつけてきたからだと思う。
吸血鬼のやつらはその状況を何とかしようとしてきたが
結局何も変えられなかった。
皇帝として吸血鬼が君臨している限りは
人間たちはおれたち異形のやつらを受け入れない。
だから、あいつは、おれたちのために
第一皇子の身分を捨てて、新しい国を作ろうとしている。
異形のやつらしかいない国」
ロンは淡々と語っている。
ロンの口から話されているということは、
すべて事実なのだろう。
遠い東の国の異形の者たちの苦しみを思い、
フレヤは少しだけ顔をゆがめた。
「あいつは、陰謀、裏切り、嫉妬でどろろどろしている
王宮で生まれ育った。
だから、誰よりも人間に憎まれ、裏切られ、
命を狙われたやつだ。
人間をそれでも信じようとしたあいつは
さらに裏切られ陰謀に巻き込まれ続けた。
おひいさんには自分と同じような目に
遭ってほしくないんだろうな」
フレヤは何も言えなかった。
宿に帰ってからのフレヤの行動は、速いとは言えなかった。
ロンに言われたことが頭の中で反芻している。
しかし、その逡巡は、メノウの部屋から戻ってきた
チノの顔を見た途端霧散してしまった。
アルハフ族は、まだコペンハヴン国にいる。
それは、兵たちに無理やり王宮に連れ去られる際に
彼らが抵抗し、戦闘となり、負傷者が何人も出たからだ。
傷のせいで動けず、コペンハヴン国から出られない。
民だけではない。
命の恩人であるアルハフ族に報いたい。
唇をかんだ。
まだ民のためだけに、動けるほど心の傷はいえていない。
メノウに操られていたのだとはいえ、
民に矢を向けられた記憶は一生消えないだろう。
理不尽だと思った。
あれだけ民のために尽くしたのに
こんな仕打ちを受けるのかと恨みすらした。
だけど、民のために駆けずり回ったのは
ただの自己満足でしかなかったのだと、
心のどこかでは気づいていた。
自分の努力が、何も変えられなかったのだと
認めたくなかっただけなのだ。
今度こそ、間違いは犯したくない。
「チノ」
フレヤの部屋に入ってきたチノは、
返事をせずに、静かにフレヤを見つめている。
何か重要なことを話されるのだと、
本能的に肌で感じ取ったようだった。
「私は、今夜、コペンハヴンに戻るわ」
「許可が下りたのか」
「いいえ。
私の独断よ」
それを聞いて、チノはすっと瞳をすがめた。
彼がどう思っているのかは、
その乏しい表情のせいで読み取れない。
「止めても無駄よ」
「別に止めはしない」
その言葉を聞いて、ほっと息をついた。
チノだけは何故か説得しきれる自信がなかったのだ。
「ただ、おれもついていく。
それだけだ」
反射的に制止の言葉が喉元まで出かかったが、
すんでのところでそれを飲み込んだ。
チノは優しいから、危険な場所に自ら飛び込もうとする
フレヤを止めたいだろう。
それを押さえてフレヤの意思を尊重してくれているのだから
チノを止める権利をフレヤは持っていない。
「……わかったわ。
私のほかに、カインとメノウを連れていきたいの」
ぐっとチノの眉間にしわが寄った。
わずかにたじろいでしまったが、
それを表に出さないようにつとめる。
「……理由は?」
「カインはコペンハヴンの民よ。
あそこには彼の家族も友人も残されている。
……メノウを連れていくのは、
別に復讐とかが理由じゃないわ。
もう一度、アルハフ族の人たちと
彼女は会って話をする必要がある」
「それならば、カルトは連れて行かなくていいのか」
「カルトにはヘレナを守っていてもらいたい。
ステファン様が、ヘレナをまた人質として
利用する可能性がなくもないから。
ヘレナは連れて行かないし、カルトは残す」
半分自分に言い聞かせるようにしてフレヤはそういった。
ヘレナを危険なところに連れて行きたくないというのが本音だ。
しかし、それを言うつもりはなかった。
「シウが追ってこないか?」
「追いつかれる前に、コペンハヴン国に入国するわ。
そうすれば、あの人も諦めるでしょう。
リスクを冒してまで、私を欲しいとは思わないはず」
自分で言いながら少しだけ寂しくなる。
これだけ、フレヤを欲しいと言ってくれた人は
他にはいなかった。
この人魚の歌の力だけでなく、
フレヤ個人の能力を認め欲してくれた人はいなかったのだ。
それに揺れなかったと言えば嘘になる。
だけど、守りたいものができてしまったのだ。
「……シウに、私は昔の彼とは違うことを見せてあげましょう」
フレヤは、そうつぶやくと
珍しく不敵な笑みを浮かべた。
日はまだ高い。
シウたちに夜に宿を訪れられ、
中ががもぬけの殻だった場合、怪しまれてしまう。
行動を起こすには、今が絶好の機会だ。
「あの人魚の女……妹は残し、メノウと護衛の者数名を連れて
姿をくらましているようです。
おそらく、コペンハヴン国に向かったものかと」
苦々しげな顔で、鴉天狗一族のヤワラは
己の主であるシウに報告した。
しかし、シウは特に表情を変えなかった。
「そうか」
「追わねぇのか?」
ロンが腕を組んだ状態で、ちらりとシウの顔を見やる。
それに畳みかけるように、リンがグッと身を乗り出した。
「そうです!!
シウ様のご好意を蹴ったあげく、
あまつさえ約束を反故にするとか万死に値します!!」
語気荒く化け猫の娘、リンが言い募ったが、
シウは特に反応を示さなかった。
まるで最初からフレヤが逃亡することを
知っていたかのような反応だった。
「約束どうこうはともかく、
今コペンハヴン国に行っても、
あの人間どもが、おひいさんの言うことをきいて
仲良く団結するとは思えねぇ。
仮に団結できたとしても、敵は人間じゃねぇ。
あのダークエルフどもだ。
……おひいさん、今度こそ、死ぬぞ」
ロンが金色の目を細めて言ったが、
それでもシウは大した反応を見せなかった。
頬杖をついたままつまらなそうに虚空を見つめている。
どこか不自然なほどシウは落ち着いていた。
「我は追う気はない。
あれだけ行くなと言ったのに、行ったのだ。
死ぬ覚悟くらいはできているのであろうよ」
「あんな女野垂れ死んでしまえばいいんですよ!!」
ふんっ、とそっぽを向くリンとは対照的に、
ヤワラはまだ苦々しげな顔を崩さない。
「良いのですかシウ様。
あれだけお望みになった娘だというのに追わぬというのは」
「くどいぞ。
我は追わぬと言っている。
今日にでもここを発ち、国に戻るぞ」
「……かしこまりました」
ヤワラは、頷いてみせたものの、
怪訝そうな顔を崩さない。
面倒ごとは好まないシウが、わざわざ西の果ての国にまで来て
一月以上もかけ求めた娘をあっさりと諦めたのが
不思議でならないのだ。
ロンは黙って、表情を動かさないシウの横顔を
じっと眺めていた。




