思い出
昨夜、かわりにチノが要求したのは、フレヤの一日だった。
一日、チノの傍にいて彼のしたいようにさせるという内容だった。
混乱していたフレヤは、小さく頷くしかなかった。
昨夜の出来事を思い起こしながら
朝日の差し込む窓を薄目で見つめ、
フレヤはベッドに横たわっていた。
視線を動かすと、窓から少し離れた壁に背中を預けた状態で
目を閉じているチノの姿が見えた。
陽光にチノの髪の先が透けて白く見える。
フレヤは起き上がって、静かにチノに近づいた。
ふわりとしゃがみこんで、目を閉じる彼の顔をのぞき込む。
規則正しい呼吸音だけが聞こえる穏やかな空間。
昨日の夜が嘘みたいだった。
目が隠れるほど長い前髪。
すっきりとした鼻梁。
長いまつげ。
少し厚みのある唇。
なめらかな顎のライン。
どれも見慣れたもので、どれもが愛しい。
泣きたくなるほどに好きだ。
胸が引き絞られるように苦しくなる。
フレヤはそっと手を伸ばして、チノの頬に触れた。
紅茶色の肌は温かくて、なんだかわけもなく涙が出そうになった。
苦しいことも悲しいことも全部なくなってしまえばいいのに。
この穏やかな時間がずっと続けばいいのに。
ふわりと手を掴まれてはっと目を見開く。
緑の瞳がこちらをまっすぐに見ていた。
彼はふわりと笑った。
ひどく嬉しそうに。
それだけで心拍数が突然上がってしまう。
「おはよう」
つかまれた手がそのままチノの唇押し当てられた。
その柔らかい感触に頬に熱が集まる。
「おっ、おはよう」
急いで手を引き抜いたら
拍子抜けしてしまうほどあっさりと離された。
それを少しだけ寂しく思ってしまうだなんて
自分はどうかしているに違いない。
チノは小さく笑いながら、かわいい、とつぶやいた。
かと思うと、ぽすんとチノの頭が肩にぶつかり
体をこわばらせてしまう。
そのままチノはぐりぐりと頭を肩に押し付けてきた。
その獣っぽい甘えるような仕草に
不覚にもきゅんとしてしまった自分は、重症だ。
やがてチノが顔を上げた。
「今日のおまえは、おれだけのものだから、
こんなに可愛く見えるのか?」
至近距離で緑の目を細めながら言われ
失神しそうになったのは間違いなくチノのせいだ。
その日は本当に朝から晩まで二人きりで過ごした。
もともと、シウと相談して
今日を休息日として定めていたため、予定に問題はない。
今頃、違う宿でシウたちも羽を伸ばしているはずだ。
本当は、ヘレナに今の状況を詳しく説明する日にしたかったのだが
チノの迫力に負けてしまった。
チノはほとんどフレヤから離れなかった。
部屋を初めて出たのは、食事を宿の下の階に取りに行くときだった。
二人きりで食事をして、おいしい、と静かに微笑みあう。
そのあとは、とくに出かけることもなく
部屋の中で外の景色を眺めながら他愛もない話をした。
幼いころの思い出や家族のことなどだ。
チノは、アルハフ族に伝わるおとぎ話や
伝統的な歌を教えてくれた。
渡り鳥のような生活をするアルハフ族らしく、
チノは遠い異国のことをたくさん知っていた。
チノが語ってくれる、鼻の長い灰色の生き物の話や
水がほとんどない砂漠を移動した話、
氷河を眺めながら焚火をした話などはどれも新鮮で
きいていて飽きなかった。
ゆっくりと日が傾き始めたとき、チノはフレヤを抱えて
宿の屋根に上った。
美しく色を変える空はやがて宵闇色になり、
星が美しく輝くようになった。
小さくくしゃみをすると、気づかずにすまなかったと
チノは彼の上着を肩にかけてくれた。
その温もりは体だけでなく心までもふわりと温かくした。
二人で満天の星空を見上げる。
フレヤは一つ一つの星を指さし、なぞっていった。
天文学で学んだことをぽつぽつとチノに教える。
それぞれの星座にまつわるおとぎ話に
チノは静かに耳を傾けていた。
その間、冷えるといけないからと、
チノは背後からフレヤを抱きしめるようにして話を聞いていた。
背中は心地よい温かさに包まれている。
チノの吐息が耳をくすぐり、フレヤは小さく笑う。
泣きたくなるほどに穏やかな時間だった。
一瞬ではあるもののルザの存在や己の立場など、
全て忘れてしまうほどに、幸せなひと時だった。
こんな日々が続けばどんなにいいだろう。
チノの隣で、穏やかに暮らす。
大きな幸せは望まない。
ただ隣にぬくもりがあり、ともに笑いともに泣く。
喜びも悲しみも分け合って、静かに暮らせたら。
ひそやかに吐息を漏らす。
幸せだ。
己には十分すぎるほどの幸せだ。
だから、忘れない。
フレヤは今日のこの日を瞳を伏せて心に刻み込んだ。
この思い出を胸に、これからは生きていく。
もう振り返らない。
振り返ってはならない。
振り返ることなど許されていない。
ただ、進み続けることしか許されていないのだ。
透明な雫が、柔らかな曲線を描く頬を伝って、
静かに零れ落ちた。




