白日
フレヤは声もなくカルトを見た後、さっとチノに視線を向けた。
彼の目は閉ざされていた。
低くうめいていて顔をゆがめている。
カルトはチノに一歩近づきしゃがむと、
そのみぞおちに強くこぶしを叩き込んだ。
完全にチノの体から力が抜けている。
「カルト!!」
やりすぎだった。
非難の声を上げるが、カルトは肩眉を上げただけだった。
「こうでもしないとチョルノはすぐ起きるけど?」
フレヤは言葉を失った。
カルトの顔は冷酷なほど落ち着いていた。
その手には革袋が握られていた。
彼の身の回りの物をまとめた荷物なのだろう。
「チョルノは俺らの一族に必要な存在なんだ。
とらないでよ。
かわりにおれがついていってやるから」
「ええ。
ありがとう」
フレヤは目を伏せて頷いた。
チノを連れて行く気は毛頭なかった。
むしろカルトが着いてきてくれることで、
この先とても助かるだろう。
「もう行ける?」
「ええ。
行きましょう」
フレヤは立ち上がると同じく革袋を手に取った。
テントを出る前に、一度だけチノのほうを振り返る。
フレヤは一瞬目元をゆがめた後、視線を前に戻した。
振り返ってなどいられない。
マシューとエリッシュは、約束の時間に他の兵と合流した。
何事もなかったかのようにふるまうので必死だった。
しかし、そんな二人を怪しむ者はおらず、
無事、上官に不審な人物などは見なかったという
嘘の報告を済ませたときだった。
「メノウ様!!」
さっと人垣が二つに分かれる。
馬に乗った美しい娘が遠くから来るのが見えた。
なぜ彼女がここに。
王宮にいるはずではないのか。
思考が入り乱れる。
しかし、ヘレナ第二王女、いやヘレナ王妃殿下そっくりの
かんばせをちらりと見た後、二人はあわてて
他の兵に倣って敬礼をした。
「何か変わったことはありましたか?」
柔らかな声。
ずっと聞き入っていたくなるような響きだった。
緑色の瞳がマシューととエリッシュの上官に向けられる。
彼は、とくに成果がなかったことと
これからも捜査に尽力する旨を伝えた。
メノウはわずかに首を傾げた。
さらさらした金髪が華奢な肩からこぼれおちる。
「この香りは……」
緑の瞳は、何故かマシューとエリッシュに
ゆっくりと向けられた。
彼女をのせた馬が近づいてきた。
二人はただ凍り付いていた。
ヘレナ妃殿下そっくりのかんばせが
複雑な色を載せた。
「懐かしい香り……」
二人の背には冷たい汗が流れていた。
懐かしい香りというのはどういうことだろうか。
アルハフ族の香りだとでもいうつもりだろうか。
まさか、気づかれているのだろうか。
嘘をついていると。
いや、そんなはずはない。
自分たちが見たものを黙ってさえいれば
絶対に誰にも気づかれるはずはないのだ。
「あと、私の大嫌いな海の匂いがするわ」
メノウはすん、と獣臭い仕草で鼻を鳴らした。
わずかに声に黒くてどろりとしたものが混じった。
馬鹿な。
ありえない。
匂いを判別することなどできないはずだ。
海の匂い。
この国で海と言えば、王族を意味する。
まさか。
まさかこの娘は。
第一王女に自分たちが会ったことに
気づいたとでもいうのだろうか。
緑の目が肉食獣のごとく細められる。
「そう、そういうことね」
二人はただつばを飲み込んで、
目の前の美しい娘を見つめているしかなかった。
なんて恐ろしい。
同じ人間とはとても思えない。
まるで、獰猛で美しい肉食獣を前にしているかのような心地だ。
「何があったのか、真実を話してもらえるかしら」
フレヤの息は早速あがっていた。
今は、川に沿って上流を目指し歩いている。
たくさんの岩の上を渡り歩いたことなどないフレヤには
苦行でしかなかった。
岩にはびっしりととげの生えた植物が生えており
それでなんども手を傷つけてしまった。
岩は川の水で濡れておりひどく滑りやすく
フレヤは何度も体のバランスを崩した。
カルトは、羽が生えているのかと思えるほど
軽やかに岩の上を駆けまわっていた。
自由自在に森の中を歩けるカルトがうらやましい。
動きの遅いフレヤではあったが、
徐々にコツをつかみつつあった。
「そろそろ休憩にするか」
どれほどその言葉を待ちわびたことか。
フレヤは示された浅瀬になんとかたどり着くと
くずれるようにその場に座り込んだ。
足がひどく痛み、力が入らない。
手をちらりと見る。
いくつもの擦り傷から血が滲みだしていた。
爪の間には土が入り込み、ところどころ黒ずんでいた。
「はい」
差し出された果物を見て、
やっと自分がひどい空腹に襲われていることに気付く。
礼を言って、果物を受け取りかじりつく。
口の中いっぱいに甘い果汁と酸味が広がり
フレヤは思わず顔を緩めた。
身体に染み渡るようだ。
「で、とりあえず隣国目指してるけど、いいの?」
「なにがかしら?」
「一応、元王女でしょ?
王宮に未練は?」
「ないわ」
ふうんと言うと、カルトも果実にかぶりついた。
唯一気がかりなことと言えば、ヘレナのことだった。
ひどく傷つけてしまった。
あの時以来会えていない。
彼女は無事だろうか。
「カルト、このまま上流に行ったら隣国の近くよね?」
「そうだけど?」
「近くに町があったわ」
記憶を探りながらつぶやく。
カルトが意外そうに眼を丸くした。
「まさか、町に降りる気?」
カルトの言わんとしていることはわかる。
今、この王国のあちこちに、
フレヤに対する追手がかかっている。
街に降りるというのは、それだけ追手に見つかる可能性が高まる。
「最後に、どうしても情報収集がしたくて」
「なんの?」
「……妹の」
考えてみれば馬鹿らしくなるような理由だった。
聞けるかもわからない妹の消息のためだけに
自分だけでなくカルトの命も危険にさらすのだ。
そもそも、カルトはアルハフ族だ。
王国の民はアルハフ族にいい印象は抱いていない。
街に行けば奇異の目で見られるだろう。
それはフレヤも同じことで、
自分の髪や瞳の色を見られたら、すべてが終わる。
フレヤにとってもカルトにとっても
決して良い選択ではなかった。
「ま、いいんじゃない?」
あんまりにもあっさりと返事をされたので
危うく聞き逃すところだった。
本当にいいのか。
「たぶん、チョルノのやつ追いかけてくるし」
その言葉にフレヤは固まった。
あれだけ徹底したのに、まだ彼は追ってくるというのか。
チノとともに育ったカルトの言葉だ。
間違いはないだろう。
「チョルノは動物の痕跡を見つけるのが上手い。
森の中を歩いていたほうがすぐにばれる」
じゃ、いこうか、とカルトが軽く首を振る。
フレヤは無言で立ち上がった。




