最後のお願い
チノは指一本しか触れていない。
だというのにフレヤはそこから動けなくなってしまった。
チノの体がフレヤの華奢な体に覆いかぶさって動けないのだ。
「どいて」
「どかねぇよ。
おまえがどこに行くのか言うまではな」
にべもなくそう言われてもフレヤは唇をかんだ。
チノの隠されている、獣の荒々しい部分が満月の力であらわになっている。
見下ろす瞳には冷たささえ宿っているように見える。
冷酷なケモノの瞳。
いっそのこと歌ってしまおうかと思った時、
ふっとシウの言葉が脳裏をよぎった。
”異形に異形の力は通じない。”
つまりフレヤの歌の力も彼に通用しないということだ。
その言葉が、事実が身に染みわたると同時に、体中から力が抜けた。
まずは小さな恐怖。
チノは自分が支配することのできない数少ない人間の一人だということ。
そして、次に来たのは大きな安堵感だった。
チノは、フレヤの歌なんかに支配されていなかったのだ。
最後の確認としてフレヤは小さく歌いだした。
子守歌。
聴いた人間は、すぐに立っていられなく程の
強烈な眠気に襲われるはずだがチノは怪訝そうな表情を浮かべているだけだった。
(本当に、効いていない)
すると何を思ったのか、チノが親指でやや強めにフレヤの唇をおさえた。
驚いてフレヤは歌うのをやめた。
あたりに落ちる静寂。
虫の声しか聞こえない。
愛馬のシルバノがぶるると首を振る。
全身の感覚が嫌でも唇に集中してしまう。
「変な歌でも歌って、おれをどうこうしてしまおうと思ってんじゃねぇだろうな」
あらっぽい口調とは裏腹に指は驚くほどやさしかった。
あたたかくて、かさついた感触が唇をわずかに撫でて、かっと首筋が熱くなった。
何だろう。
むずむずする。
この場から逃げ出してしまいそうなのに、ずっとこうしていたい気もする。
さら、とチノの長い前髪が額に触れた。
「で、どこに行く」
チノはしつこかった。
チノの顔を睨もうとしたら、驚くほど近くに緑の瞳があって
あわてて視線をチノのブーツの先に戻した。
そろりと手を伸ばしてシルビノの手綱を握ろうとしたら、
めざとく見つけられて、がっと手をつかまれた。
強く手を引かれて、つんのめりそうになると、
チノの固いからだが受け止めてくれた。
したたかに額をチノの胸に打ち付け、わずかに顔をしかめながらも顔を上げる。
握られたままの手は、なぜかチノの顔の近くに引き寄せられた。
「まだ、言わねぇのかよ」
かぷっと。
ひとさしゆびを甘噛みされた。
「……っ!?」
全身の毛が逆立った気がした。
あわてて指を引き抜こうとしたが、強い力で握られてびくともしない。
やわらかくて湿ったものが指先に触れた。
人差し指の先を、チノの桃色の舌が優しくなめたところだった。
「っち……!?」
「さっさと言えよ。
それなら、これくらいで勘弁してやる」
この腰を打ち抜くような色気の声はなんなのだ。
聴いたことがない。
やたらと色気をたっぷり含んだ流し目をよこされ
フレヤはぽたぽたぽたぽたぽたぽたと背中から汗が流れ落ちていくのを感じた。
フレヤが動揺しているのを見て、チノはかすかに笑った。
「ち、チノには関係ない……!!」
チノが歌に支配されていないのだとしたら、
余計今からどこに行くのか伝えるわけにはいかなかった。
優しい彼はきっとついてきてしまうだろうから。
「……強情な奴だな」
一気に温度をなくした声に、フレヤは体を震わせた。
それでも言うわけにはいかなかった。
手首にやわくチノの唇と吐息が触れる。
ふっとあたりが暗くなった。
チノの表情が見えなくなる。
空を見上げると、月が陰ったところだった。
ぱっと手首をつかんでいた手が離れてフレヤはその場にへたり込んだ。
助かった。
チノを見ると愕然とした表情で自分の掌を見つめているところだった。
「……チノ」
チノは声もなくこちらを見つめた。
すっと彼の手が下ろされた。
「……行くのだろう、ステファン王のもとへ」
力ない声だったが、フレヤを打ち抜くには十分だった。
なぜそれを、彼は知っているのだろう。
「少し考えたらわかる。
……おまえが考えなしに父王を殺し、
メノウに王座を渡すはずがない。
ステファン王に助けを求めるのだろう」
チノの言っていることはおおかた合っていた。
なんて鋭い人だろう。
ここまでばれてしまっているのでは、いまここで突き放しても
きっと馬で追ってくるのだろう。
長い沈黙が落ちた。
「……ついてきてくれるの……?」
かすかなつぶやきが漏れた。
風に掻き消えてしまいそうな小さな声だった。
「今までも、これからも」
夜風が髪を揺らす。
迷いのない返事に、フレヤは目を閉じて、すぐに開いた。
「行きましょう」
「ああ」
雨が降っていた。
灰色に塗りつぶされたような夜空から、しとしとと
空の涙が降り注ぐ。
柔らかくけぶるような水煙が土のにおいをより濃くしている。
フレヤはフードの下から赤い瞳で空を見上げた。
どんよりとした空の下には、ステファンの城が見える。
馬を急いで走らせれば数刻で着く近さにあるステファンの国。
ちらりと空に視線をやると、わずかに白んできたところだった。
もう朝が近づいてきている。
空が暁色に染まる前に、フレヤはさっと馬から降りた。
続けてチノも馬から降りる。
「この時間なら、ステファン様は、朝の湯あみをされるはず」
フレヤは雨に濡れた額を手の甲でぬぐった。
愛馬のシルビノがぶるると首を振って水滴をとばしたからだ。
「まさか、浴場に行くつもりか」
「……ことを穏便に済ませたいの。
兵に見つからないようにするには、もうこうするしかない」
フレヤたちが向かっていたのは、ステファンの国だった。
ステファンに「お願い」をしに行くためだ。
フレヤは強い決意のこもった瞳で城の城壁を見上げた。
この城には何度か訪れた。
浴場の位置も大体は把握している。
あとは、行動を起こすだけだった。
フレヤはぎゅっとフードをかぶりなおすと、
シルビノの手綱を木につないでおいでから、さっと鼻の頭を撫でた。
次の瞬間には、彼女は大きく一歩前に踏み出していた。
ステファンは上り始めた朝日に目を細めながら浴場の中へと入っていった。
ここの浴場は内風呂と露天風呂式の外風呂になっている。
まずは朝日を浴びながら露天風呂につかるのがステファンの日課の一つとなっていた。
露天風呂のほうに出ると、水面にキラキラと朝日が反射し、
見上げれば雄大な山々が目に入った。
いつみてもここの景色は美しい。
すがすがしい気持ちで湯につかろうと視線を下に向けたとき、
水面に見慣れぬ黒い影があることに気付いた。
はっとして前を見ると、フードをかぶった小さな人影がひっそりとたたずんでいた。
大きな声を上げて兵を呼ぼうとしたとき、さっとフードの人物が人差し指を唇に当てた。
「私です、ステファン様」
ステファンは口を閉じた。
女性にしてはやや低い声。
ステファンは聞き覚えのあるその声に目を細めた。
「フレヤ……様?」
ばさりとフードをとったその人は紅い目をしていた。
ゆたかな波打つ青い髪がふわりと広がる。
朝日を背景に立つのは、隣国の第一王女、フレヤだった。
長旅のせいか、かなりやつれて見えた。
ステファンは混乱した。
混乱しながらも冷静に状況を読み取った。
正式に謁見をしないということは、なにか秘密裏に行わなければならない用事で
彼女は今ここにいるということだ。
「……あなたの国に勝手に立ち入り、こうしてここにいることをお許しください」
フレヤは瞳を伏せながらそう言った。
人形のような美しさは変わらない。
だが、昔と比べて、人形のような無機質さは減ったように思える。
「あなたに、どうしてもしたい、お願いがあってここに参りました」
フレヤの紅い目は痛々しいまでの切実さをたたえていた。
一歩、二歩とわずかに距離を詰めてくる娘は、
もはや王女などではない。
どれほどやつれていても、その目に宿る痛烈な輝きは
女王のそれだった。
一方のフレヤはなつかしさに胸が張り裂けそうだった。
いつもの豪奢な服をまとっていないステファンは、
ひどく若く見えた。
舞踏会のあの夜、出会った時のようなその姿に心が揺れるのが分かった。
あの時恋に落ちた。
どうしようもないほどにこの人に恋い焦がれた。
恋に恋をするようなありさまだったけど、溺れるように恋をした。
毎日思いは降り積もって、少しずつ息ができなくなるような心地がした。
目が合うだけで微笑んでくれるだけで、体がしびれたように動かなくなった。
あんな甘美な感情をフレヤはほかに知らない。
アイスブルーの瞳を見つめた。
この瞳に私が、私だけが映っているのを見るのが好きだった。
微笑んだ時に、柔らかく細められるのを見るのが好きだった。
ちゃんとした恋ではなかったのはわかっている。
ひな鳥が親鳥を慕うかのような情であったことにもどこかで気づいていた。
でも、恋していた。
今ならわかる。
ちゃんと、彼のことが好きだった。
「お願い、とは……?
貴女が私になにかをこいねがうなど珍しい」
そうだった。
ステファンといたときは、いつもいつも、そばにいるだけで精一杯で
それ以上のことはなにもできなかったのだ。
息が詰まるような空間だった。
話すだけで空気が薄くなっていくような心地がするほど
ステファンの傍にいることは緊張を伴った。
「単刀直入に言います。
我が国をあなたに明け渡したい」
「なっ……!!」
ステファンが大きく目を見開いた。
その瞳には驚きが色濃く表れている。
フレヤは目をそらさなかった。
「あなたが何度か示唆してくださったように、我が国には革命軍がいます。
父上の統治を快く思わぬ民がたくさんいるのです。
彼らは、父上を退位させねば国を襲うと言いました」
脅されて、父王を殺せ、と言われたことは伏せておく。
ステファンが余計なことを知る必要はない。
「私は、すべての民を守るために、父王を退位させます。
ですが、革命軍はもとは普通の民です。
まつりごとなどには向いていない。
また統治者がなにか道を誤れば、再び戦争が起こる。
ですから、統治者として有能なあなたに、我が国を託したい」
これがフレヤが考えに考え抜いた答えだった。
メノウに脅されているとはいえ、すべてに従うつもりはない。
彼女の手に落ちるくらいならば、国と民はステファンの国の属国となった
ほうが幸せになるはずだ。
この方法しか、誰もが幸せにならなかった。
「ですが」
まだ動揺が色濃く残るステファンが言った。
フレヤはフードを強く握りしめて彼の言葉を待つ。
「貴女と貴女の父上はどうなるのですか?
貴女の父上を退位させるとしても、貴女が女王として国に残ればいいのでは?」
「それはできません。
私は第一王女であるにもかかわらず、この国のためにほとんど何もできなかった。
民の苦しみを取り除いてはやれなかった。
私はお父様とともに、表舞台からは姿を消すつもりです」
それは死を意味していた。
それを悟って、ステファンは顔色を変えた。
「フレヤ様!!」
「もう、これ以外、方法はないのです」
フレヤの瞳にわずかに激情がにじんだが、
すっととけるようにして消えた。
「最後に、私を抱きしめてはくれませんか……?」
フレヤは微笑んだ。
顔を青ざめさせている妹の夫に。
「あなたに捨てられた哀れな女を、最後に一度だけ」
こういえば優しいステファンは断らない。
ステファンの腕がふわりと体に回り軽く抱き寄せられた。
フレヤは目を閉じた。
なんて残酷なかた。
最後の最後まで友と同じような抱き方を。
「フレヤ様、あなたはばかだ」
フレヤは目が潤むのを感じた。
彼女は見なかった。
ステファンが微笑んでいることに。
「あなたは、本当に馬鹿だ、フレヤ様」
ステファンの唇が三日月の形に、にぃっとゆがんだ。
雨の中、フレヤは泣きながらチノのもとへと帰った。
頬を伝うのが雨なのか涙なのかがわからなくなるほどの雨だった。
たたきつけてくる上に、体のぬくもりを根こそぎなくしていく
すべてを奪っていくような雨だった。
チノが木の陰に見えた。
暁の中、くっきりと鮮烈に目に焼き付く黒衣の姿。
フレヤの気配をとらえて、彼が振り返る。
フレヤの表情を見て、チノは唇を引き結んだ。
その表情に険しいものが宿るのを見て、フレヤは足を止めた。
交渉は、うまくいったわ、と何もなかったかのように
言うつもりだったのに、言葉がのどに引っかかって何も言えない。
そのわずかな間にチノが距離を詰めて、目の前に立っていた。
驚いてチノの顔を見上げようとしたが、その前に、たくましい腕が
背を回り強い力で抱き寄せられた。
骨がきしむほどの強い力だった。
さっきのステファンからの抱擁とはまるで違う荒々しいものだった。
荒々しいのに、胸が苦しくなるような抱きしめ方だった。
「……待っていてくれて、ありがとう」
ステファンに会いに行く前、チノはおれもついていくと言ってきかなかった。
何度も何度も頼み込んで、ようやく折れてくれたのだ。
「……気が気でなかった」
「……心配かけてごめんなさい」
「おまえが、泣いているのではないかと思ったが、やはりそうだったな」
まばたきをすれば、またぽたりとしずくが落ちた。
ささやくような穏やかな声に涙が止まらなかった。
この冷たい世界でチノだけが温かかった。
きちんと失恋できた。
このくすぶり続ける想いにけじめをつけることができた。
もう、思い残すことは何もない。
「交渉は、うまくいったわ」
やっと予定通りの言葉を伝えられた。
みっともないほどい震えていたが。
チノが抱きしめる力を弱めた。
「……おまえが、なにを話していたのかきいてもいいのか」
「……私の最後のお願いを聞いていてもらったのよ」
フレヤはするりとチノの腕から抜けると、
ふらふらと愛馬のほうへと歩き出した。
まだ、終わっていない。
王女としてのつとめは、これからだった。




