民意を上げる特質で平民なのに国王になった件 〜ゴミスキルと追放された『民意掌握』、実は国の命運そのものでした〜
民意を上げる特質で平民なのに国王になった件
〜ゴミスキルと追放された『民意掌握』、実は国の命運そのものでした〜
「――よって、宮廷書記官カインを罷免し、国外追放に処する!」
内務卿バルガス侯爵の甲高い声が、王宮前広場に響き渡った。
秋の乾いた風が石畳を吹き抜け、枯れ葉を巻き上げる。
広場には数千人もの民衆が集められていた。その周囲を武装した衛兵が取り囲み、壇上には金糸の外套をまとった若き国王エドワードが、退屈そうに腰掛けている。
私はその壇上の前で、片膝をつかされていた。
「カイン。余は貴様に期待しておったのだぞ」
エドワード王が鼻を鳴らす。
「平民でありながら読み書きに優れ、計算にも明るい。ゆえに宮廷書記官として取り立ててやった。ところが貴様はどうだ。税を下げろ、備蓄を増やせ、農民の訴えを聞けと、毎日のように余の政策に口を挟みおって」
「陛下。北部では今年、深刻な凶作が発生しています。徴税を例年どおり続ければ、冬を越せない村が出ます」
「またそれか!」
王が椅子の肘掛けを叩いた。
「国を治めるには金が要る! 軍の維持にも、城壁の修繕にも、王家の威光を示すにもな!」
「それは承知しております。ですが、納税する民そのものがいなくなってしまえば、来年以降の税収は――」
「黙れ!」
隣に立つバルガス侯爵が、待っていましたとばかりに口を開いた。
「陛下。この男は所詮、平民でございます。国家の威信というものを理解できぬのでしょう」
侯爵は私を見下ろし、薄く笑った。
「そもそも、この男の特質は『民意掌握』。剣も振れず、魔法も使えず、ただ民の顔色をうかがうだけの役立たずですからな」
周囲の貴族たちから失笑が漏れる。
この世界では、十五歳になると神殿で『特質』を授かる。
『剣聖』『大魔導』『神聖治癒』。
強力な特質を持つ者は、たとえ平民であっても貴族に取り立てられることがある。
一方、私が授かったのは『民意掌握』。
人々が統治者をどれほど信頼しているかを、数値として見ることができる能力だった。
少なくとも、これまではそう思っていた。
「陛下。最後に一つだけ申し上げてもよろしいでしょうか」
「命乞いなら聞かぬぞ」
「現在、王国全土の支持率は四十二パーセントです」
私の視界には、他の誰にも見えない金色の文字が浮かんでいた。
【アルディア王国・王権支持率:42%】
【警告:統治への信頼が低下しています】
「はっ! またその数字か!」
エドワード王が声を上げて笑った。
「四十二だろうが百だろうが、何だというのだ。王の権威は神と血統によって与えられるもの。民の気分など関係ないわ!」
「ですが、陛下。支持率が下がっている地域では、実際に納税の遅延や商人の流出が起きています」
「偶然であろう!」
「偶然ではありません。北部の三つの村では、すでに耕作を放棄する農民が――」
「くどい!」
王は立ち上がり、広場を見渡した。
「ちょうどよい。ここで余の新たな事業を発表しよう!」
嫌な予感がした。
「来月より、王都に黄金の凱旋門を建設する! 建国以来、最も偉大な王として、余の名を後世に残すのだ!」
貴族たちが拍手する。
しかし、民衆は静まり返っていた。
「建設費用は全国民への臨時課税で賄う。一世帯につき銀貨十枚だ!」
広場のあちこちから悲鳴が上がった。
銀貨十枚。
それは農民一家が数か月かけて稼ぐ金額だった。
「陛下! それでは冬を越せない家が出ます!」
私は思わず声を上げた。
「払えぬ者は建設工事で働かせればよい。王家の事業に貢献できるのだ。名誉なことではないか」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が冷たくなった。
私の視界で、数字が変化する。
【王権支持率:42% → 31%】
【王権支持率:31% → 24%】
【王権支持率:24% → 18%】
【警告:大規模な社会不安を検知】
【警告:王権維持条件の喪失が進行中】
私は静かに目を閉じた。
これ以上、何を言っても届かないのだろう。
「カイン。貴様は国外追放だ。二度と余の前に姿を見せるな!」
「……承知いたしました」
私は立ち上がり、胸につけていた宮廷書記官の徽章を外した。
それを壇上に置く。
「陛下。どうか、民の声をお忘れなきよう」
「最後まで説教か。さっさと失せろ!」
衛兵に背を押され、私は広場を後にした。
そのときだった。
「カイン様……!」
人垣の向こうから、幼い声が聞こえた。
振り返ると、小さな女の子が母親の手を握って立っていた。
見覚えがある。
三年前、王都の貧民街で出会った少女だった。
あの年、王都では食糧価格が暴騰した。
私は商人たちを説得し、教会と協力して、余剰穀物を安価なパンとして配る仕組みを作った。
その少女も、制度によって飢えを免れた一人だった。
「カイン様のおかげで、お母さんと冬を越せたのに……」
少女の瞳から涙がこぼれる。
「どうして、悪い人みたいにされちゃうの……?」
私は少女の前にしゃがみ、そっと頭を撫でた。
「大丈夫。君たちが元気でいてくれれば、それでいいんだ」
「でも……カイン様がいなくなったら、誰が助けてくれるの?」
私は答えに詰まった。
本当なら、国が助けなければならない。
国王も、貴族も、役人も、そのために存在しているはずなのだから。
けれど今、その言葉を口にすることはできなかった。
「お母さんを大切にするんだよ」
顔を上げると、周囲の民衆が私を見つめていた。
パン屋の老人。
井戸の修繕を手伝った職人。
不当な徴税から救った農夫。
孤児院の修繕費を工面した修道女。
一人、また一人と、静かに頭を下げる。
「ありがとうございました、カイン様」
「俺たちは忘れません」
「どうか、お元気で……」
私は何も言えなかった。
ただ深く頭を下げ、王都を去った。
城門を抜けたところで、不意に視界の端が金色に輝いた。
【個人支持率:87%】
【固有特質『民意掌握』の第二段階解放条件を確認】
【条件未達成:民意による正式な信託】
「……何だ、これは」
私は足を止めた。
個人支持率など、これまで一度も表示されたことがない。
ましてや、第二段階とは。
しかし、文字はすぐに消えてしまった。
私はしばらく城門を振り返っていたが、やがて歩き始めた。
その意味を知るのは、もう少し先のことだった。
◇ ◇ ◇
半年後。
私は王国西端の自由都市リーベルで暮らしていた。
「カインさん! 今日もパンを持っていってください!」
市場を歩いていると、パン屋の女将が大きな袋を差し出してきた。
「いや、昨日もいただきましたよ」
「何言ってるんです! あんたのおかげで、うちの店は潰れずに済んだんですから!」
私は苦笑した。
この街に来た当初、リーベルは決して豊かではなかった。
商人には重い通行税が課され、農民には収穫量に関係なく一定の税が徴収されていた。
その結果、商人は別の街へ流れ、農民は新しい畑を開く意欲を失っていた。
私は領主のローレンス伯爵に進言した。
通行税を引き下げ、商人を呼び戻すこと。
凶作の年には税を減免すること。
市場の取引を透明化し、不当な徴収を取り締まること。
最初、伯爵は半信半疑だった。
「税を下げて、本当に領地が豊かになるのかね?」
「必ずとは申し上げられません。ですが、今の税制では商人がこの街を通る理由がありません。税率が高くても、取引がなければ税収は増えません」
「なるほど。では、試してみよう」
伯爵は慎重な人物だったが、他人の意見を頭ごなしに否定する人ではなかった。
最初は三か月間の試験運用だった。
通行税を半分にし、市場で徴収する手数料を公開する。
その代わり、商人には取引量の記録を求めた。
結果は、予想以上だった。
商人の往来が増え、市場に商品が戻った。
農民は余剰作物を売れるようになり、職人たちにも注文が増えた。
半年後には、税率を下げたにもかかわらず、領主の税収は以前より増えていた。
もちろん、すべてが順調だったわけではない。
街道の修繕費が足りず、伯爵は私財を投じることになった。
商人の流入によって地元の古い商家が反発したこともある。
私は何度も話し合いの場を設け、双方の不満を聞いた。
そうして少しずつ、街は変わっていった。
【自由都市リーベル・領政支持率:93%】
私はその数字を見るたびに、少しだけ嬉しくなる。
私の特質は、人の心を操るものではない。
支持率が高いからといって、飢えた人間の腹が満たされるわけでもない。
数字はあくまで結果だ。
人々が何に困り、統治者をどれほど信頼しているのか。
それを知るための、一つの手掛かりにすぎない。
「カイン殿!」
背後から声がした。
振り返ると、ローレンス伯爵が駆け寄ってきた。
普段は温厚な彼が、珍しく青ざめている。
「大変なことになった。王都から使者が来ている」
「王都から?」
「……君を連れ戻したいそうだ」
その直後、甲冑をまとった男が市場に飛び込んできた。
見覚えのある顔だった。
かつて王宮で何度も顔を合わせた近衛騎士、グランだ。
「カイン殿!」
グランは私を見るなり、その場に膝をついた。
「どうか……どうか王国をお救いください!」
市場が静まり返る。
「何があったのですか」
「王都が……崩壊寸前なのです!」
グランの声は震えていた。
エドワード王は、あれから三度も臨時増税を行ったという。
黄金の凱旋門は建設途中で資金が尽きた。
抗議した市民を次々に投獄したことで、商人たちは王都から逃げ出した。
農民は耕作を放棄し、地方領主の中には納税を拒否する者まで現れた。
そして、冬。
食糧不足が王国全土を襲った。
「王都では、パン一つが銀貨一枚になっています。兵士への給金も三か月滞り、近衛隊の半数が職務を放棄しました」
「……陛下は?」
「なおも増税を命じておられます」
私は思わず額を押さえた。
「民が払えないのに、ですか」
「はい……」
その瞬間、私の視界に赤い文字が浮かんだ。
【アルディア王国・王権支持率:0%】
【国家機能:深刻な停止状態】
【王権維持条件:完全喪失】
【現王エドワードに対する民の信託:消滅】
そして、その下に新しい表示が現れる。
【王位継承候補者の探索を開始】
【候補者:カイン】
【個人支持率:94%】
私は息を呑んだ。
「……なるほど」
ようやく、少しだけ分かった気がした。
この特質には、まだ私の知らない力がある。
だが、その力が何であれ、今すぐ王都の人々を救ってくれるわけではない。
「グラン殿。一つ確認させてください」
「何でしょう」
「王都の民は、私に何を望んでいるのですか」
グランは深く頭を下げた。
「民衆は王宮を包囲しております。ですが、まだ総攻撃には至っておりません」
「なぜです?」
「皆、あなたを待っているのです」
グランの声が震えた。
「カイン様なら、きっと民を見捨てない。あの方に国を治めていただきたいと……」
私はしばらく黙っていた。
国王を救う義理などない。
私を無能と罵り、国外へ追放した男だ。
自業自得と言ってしまえば、それまでだろう。
だが。
あの少女は、今どうしているだろう。
パン屋の老人は、冬を越せただろうか。
貧民街の子供たちは、今日も食事を取れているだろうか。
私は目を閉じた。
「……ローレンス伯爵」
「何だね」
「リーベルの商人たちに協力をお願いできますか。穀物と乾物、それに薬を、可能な限り王都へ運びたいのです」
伯爵は一瞬驚き、それから大きく頷いた。
「もちろんだ。だが、代金はどうする?」
「王都に残された国庫を調べます。それでも足りなければ、私が責任を負います」
「君一人で背負える額ではないぞ」
「分かっています」
私は伯爵を見つめた。
「だからこそ、お願いしているのです」
伯爵はしばらく私を見ていたが、やがて笑った。
「まったく。君はいつもそうだな」
そして、私の肩を叩いた。
「商人たちへの説得は任せたまえ。私もできる限りの資金を出そう」
「ありがとうございます」
私はグランに向き直った。
「王都へ戻りましょう」
「カイン殿!」
「ただし、条件があります」
私は彼をまっすぐに見据えた。
「私は、エドワード王の臣下として戻るつもりはありません」
◇ ◇ ◇
王都に到着したのは、それから五日後のことだった。
城門をくぐった瞬間、私は言葉を失った。
かつて活気に満ちていた大通りには、閉ざされた商店が並んでいる。
石畳にはゴミが散乱し、痩せた子供たちが壁にもたれていた。
道端には、薪の代わりに壊れた家具を燃やす人々の姿もある。
そして王宮前広場には、数万人もの民衆が集まっていた。
「税を返せ!」
「食糧を寄こせ!」
「エドワードを退位させろ!」
怒号が飛び交う。
兵士たちは王宮の門を守っていたが、その顔には疲労と迷いが浮かんでいた。
そのとき、一人の男が私に気づいた。
「……カイン様?」
声が広がる。
「カイン様だ!」
「カイン様が帰ってきたぞ!」
怒号が止んだ。
人々が次々と振り返る。
やがて、群衆の中から一人の少女が飛び出してきた。
「カイン様!」
あのときの少女だった。
半年ぶりに見る顔は、少し痩せていた。
それでも、私を見る瞳は輝いていた。
「帰ってきてくれたんだね……!」
「ああ。遅くなってすまない」
私は少女の頭を撫でた。
その手に触れた髪は、以前よりも細くなっているように感じられた。
胸が痛んだ。
周囲から声が上がる。
「カイン様! どうか、俺たちを助けてください!」
「もうあんな王様は嫌です!」
「あなたに、この国を治めてほしい!」
次々に膝をつく人々。
しかし私は、手を上げてそれを制した。
「皆さん。どうか立ってください」
広場が静まる。
「私は、皆さんを操ることはできません。私の特質は、人の心を自由に変える力ではないのです」
人々が顔を見合わせる。
「皆さんが何を望み、誰を信じているのか。それを知ることしかできません」
私は広場を見渡した。
「ですが、それだけでは足りません。私には皆さんの暮らしのすべてが見えているわけではない。苦しみの理由も、一人一人違うはずです」
誰も口を挟まなかった。
「だから、皆さん自身の意思を聞かせてください」
胸の奥で鼓動が大きく響く。
「皆さんは、本当に私に国を任せたいのですか?」
一瞬の沈黙。
そして。
「当たり前だ!」
一人の老人が叫んだ。
かつてのパン屋の主人だった。
「俺たちが飢えたとき、助けてくれたのは王様じゃない! あんただ!」
「そうだ!」
「うちの村の税を減らしてくれた!」
「病気の子供のために薬を届けてくれた!」
「俺たちは、あんたを信じてる!」
声が重なっていく。
やがて、それは一つの大きなうねりとなった。
「カイン様を国王に!」
「カイン様を!」
「カイン様を!」
私の視界が、眩い金色に染まった。
【個人支持率:94% → 97%】
【個人支持率:97% → 99%】
【民意による正式な信託を確認】
【固有特質『民意掌握』・最終段階解放】
【真名:民意王権】
【王権継承条件を満たしました】
その瞬間、王宮の奥から鐘の音が響いた。
誰も鳴らしていないはずの、建国の鐘だった。
◇ ◇ ◇
「何事だ!」
玉座の間で、エドワード王が怒鳴っていた。
豪奢だった王宮は荒れ果て、床には割れた酒瓶が転がっている。
王の頬はこけ、隣に立つバルガス侯爵も青白い顔をしていた。
そこへ、私は近衛騎士グランと共に入室した。
「お久しぶりです、陛下」
「……カイン?」
王が目を見開く。
次の瞬間、その顔が喜色に変わった。
「おお! カインではないか! よく戻った!」
王は玉座から立ち上がった。
「聞いておるぞ! 貴様は民衆を丸め込むのが得意だったな! 今すぐ外の愚民どもを鎮めろ!」
私は黙っていた。
「そうすれば、追放を取り消してやる! いや、伯爵にしてやってもよいぞ!」
「……陛下」
「何だ?」
「民衆がなぜ怒っているのか、ご存じですか」
王の顔が歪んだ。
「税を払いたくないからであろう! まったく、国に尽くすという考えがない連中だ!」
「違います」
「何?」
「彼らは、生きるための食糧さえ奪われたのです」
私は一歩、前へ進んだ。
「子供が飢えています。老人が倒れています。商人は街を去り、農民は畑を捨てました」
「それがどうした!」
王が叫ぶ。
「余は国王だ! この国のすべては余のものだ!」
その言葉を聞いた瞬間、私は確信した。
この男には、もう何を言っても届かない。
「……残念です」
「何がだ!」
「最後まで、民の声を聞いていただけなかったことが」
私は静かに告げた。
「エドワード陛下。あなたは、もう国王ではありません」
一瞬の沈黙。
そして王が、腹を抱えて笑い始めた。
「ははははっ! 何を言い出すかと思えば! 余が国王でないだと?」
バルガスも嘲笑する。
「平民風情が、ついに頭までおかしくなったか!」
私は答えなかった。
ただ、右手を胸に当てた。
「固有特質『民意掌握』――最終権能、発動」
その瞬間。
王宮全体が、金色の光に包まれた。
「な、何だ!?」
エドワード王が悲鳴を上げる。
天井のステンドグラスが震え、床に刻まれた王家の紋章が輝き始めた。
私の目の前に、巨大な文字が浮かぶ。
【現王エドワード】
【王権支持率:0%】
【民の信託:消滅】
【王権維持条件:不成立】
【王権の失効を執行します】
「ぐああああっ!」
王が胸を押さえて崩れ落ちた。
彼の身体を包んでいた神聖魔術の光が、音を立てて砕け散っていく。
王家の指輪に刻まれた紋章が消え、黄金の王冠が頭から転がり落ちた。
「な……なぜだ……!?」
王が震える手を伸ばす。
「余は……王家の血を引いているのだぞ……!」
「ええ。あなたには王家の血が流れています」
私は答えた。
「ですが、血筋だけで国を治めることはできません」
「馬鹿な……!」
「王権とは、民を守るために託された力です。民を踏みにじるためのものではありません」
私は足元に転がった王冠を見つめた。
不思議なことに、初代国王の記憶のようなものが頭の中に流れ込んでくる。
戦乱の時代。
荒れ果てた大地。
そして、人々の前で膝をつき、国を守ると誓った一人の男。
「この国を建てた初代国王は、民の信託を受けて王となりました。その盟約は、今も王家の加護の根底に残っています」
王が息を呑む。
「そして私の特質は、その盟約を読み取り、民の総意に従って王権を継承させる力だったのです」
「そんな……そんなことが……!」
バルガスが後ずさる。
「平民が王になるなど、許されるはずがない!」
「許すかどうかを決めるのは、あなたではありません」
そのとき、玉座の間の扉が開いた。
グランを先頭に、近衛兵たちが整列する。
その後ろには、王都の商人代表、職人組合長、農民代表、そして教会の司祭たちが並んでいた。
彼らは静かに、私の前に膝をついた。
「カイン様」
グランが剣を抜き、その切っ先を床に向けた。
「我ら近衛隊は、民を守るという本来の誓いに立ち返ります」
商人代表が続く。
「王都商人組合は、カイン様を新たな国王として支持いたします」
「職人組合も同じく!」
「農民たちも、あなたを支持します!」
司祭が一歩進み出た。
「建国の盟約に従い、神殿は民の信託を認めます」
その瞬間、視界に最後の文字が浮かんだ。
【新王候補:カイン】
【民意による王権継承:承認】
【新たな国王の誕生を確認しました】
眩い光が、私の身体を包み込む。
だが、不思議と力が湧き上がる感覚はなかった。
代わりに感じたのは、途方もない重圧だった。
何十万もの人々の生活。
その一つ一つが、私の肩に乗せられたようだった。
「……余は、どうなるのだ」
床にへたり込んだエドワードが、震える声で尋ねた。
私は彼を見下ろした。
「あなたには、民から奪ったものを返していただきます」
「か、金なら返す! だから命だけは――!」
「命を奪うつもりはありません」
王が顔を上げた。
「ただし、あなたが行ったことについて、正式な裁きを受けていただきます」
私は近衛兵に命じた。
「前国王エドワード、元内務卿バルガスを拘束してください。不正蓄財の調査を行い、法に従って財産を保全します」
「そ、そんな! 余は王族だぞ!」
「今は、法の下に裁かれる一人の人間です」
兵士たちが二人を連行していく。
「カイン! 貴様、覚えておれ! 余は王だ! 王なのだぞ!」
エドワードの叫びが、廊下の向こうへ消えていった。
私は深く息を吐いた。
ようやく、終わった。
いや。
本当に大変なのは、これからだ。
◇ ◇ ◇
玉座の前に、黄金の王冠が落ちていた。
私はそれを拾い上げた。
想像していたより、ずっと重かった。
「陛下」
グランが静かに声をかける。
「どうか、戴冠を」
私は首を横に振った。
「その前に、やるべきことがあります」
「何でしょうか」
「王都の備蓄倉庫を確認してください。足りない食糧は、リーベルの商人たちに協力を求めて買い付けます」
「はっ!」
「臨時増税はすべて停止。違法に投獄された市民については、個別に審査して解放してください」
「承知しました!」
「それから、各地の代表者を王都に招いてください。今後の税制と復興計画を話し合います」
グランは驚いたように私を見た。
「陛下……戴冠式より先に、政務をなさるのですか」
「当然でしょう」
私は苦笑した。
「王冠をかぶっても、民のお腹は膨れませんから」
グランは一瞬目を見開き、それから深く頭を下げた。
「……この国は、ようやく本当の王を得たのですね」
私は答えなかった。
そんな立派な人間ではない。
私はただ、目の前で困っている人を放っておけないだけだ。
それに――。
私の視界には、今も金色の数字が浮かんでいる。
【新王カイン・全土支持率:99%】
【王権安定度:最高】
だが、その下には、これまで見たことのない一文があった。
【警告:民の信託は永続するものではありません】
【民意が失われた場合、王権は再び失効します】
私は思わず笑ってしまった。
なるほど。
つまり、私も失政を重ねれば、あのエドワードと同じ末路をたどるというわけだ。
「……なかなか厳しい特質ですね」
だが、それでいい。
王とは、民の上に立つための存在ではない。
民の暮らしを守るために、責任を引き受ける者なのだから。
私は王冠を胸に抱え、バルコニーへと歩み出た。
眼下には、見渡す限りの民衆が広がっている。
私の姿を見つけると、大きな歓声が上がった。
「カイン陛下!」
「新しい国王陛下、万歳!」
「カイン様、万歳!」
私は片手を上げ、歓声が静まるのを待った。
そして、広場の隅々まで届くように声を張り上げた。
「皆さん。私は今日、この国の王となりました」
再び歓声が上がる。
「ですが、一つだけ約束させてください」
私は胸に抱いた王冠を見つめた。
「私は、皆さんの声を聞くことをやめません」
広場が静まり返った。
「王が間違えたときは、どうか間違っていると言ってください。困ったときは、助けを求めてください。私一人で、この国のすべてを知ることなどできないのですから」
最前列に、あの少女の姿が見えた。
母親と手をつなぎ、こちらを見上げている。
私は微笑んだ。
「まずは、誰もが安心してパンを食べられる国にしましょう」
少女が笑った。
「そして、子供たちが明日を怖がらずに眠れる国を、皆さんと一緒に作りたいのです」
広場に、温かな拍手が広がった。
私は王冠をゆっくりと頭上に掲げた。
「これより、この国の主権は民にある!」
その瞬間、王都の鐘が一斉に鳴り響いた。
冬の冷たい風が広場を吹き抜け、何万もの歓声が青空へと舞い上がる。
私はようやく、王冠を頭に載せた。
かつて、ゴミスキルと笑われた『民意掌握』。
その力で、私は平民から国王になった。
だが、これだけは忘れないでおこう。
私を王にしたのは、特質の力だけではない。
私を信じてくれた、一人一人の民の心なのだ。
そして今日から、私の仕事は宮廷書記官時代よりも、ずっと忙しくなる。
なにしろ――。
「陛下! 早速ですが、食糧輸送の件でご相談が!」
「陛下! 各地の領主から使者が!」
「陛下! 復興予算の確認をお願いいたします!」
……どうやら、戴冠式の余韻に浸っている暇もなさそうだ。
私は小さく笑い、袖をまくった。
「分かりました。順番に聞きましょう」
民意を上げる方法は、昔から何も変わらない。
人々の声を聞き、困りごとを一つずつ解決していく。
ただ、それだけだ。
――こうして、平民出身の新国王カインによる、世界で最も忙しい治世が幕を開けた。
◇ ◇ ◇
「――国王陛下、これ以上の減税には断固として反対いたします!」
謁見の間に、怒気を含んだ声が響いた。
戴冠から十日。
寒波が居座る王都では、朝になっても石畳の霜が溶けず、王宮の高窓には薄い氷が張っていた。
広い謁見の間では暖炉が燃えているものの、冷え切った大理石の床からは容赦なく寒気が這い上がってくる。
玉座に座る私の前に立ちはだかっていたのは、財務卿クローヴェル伯爵だった。
年齢は六十を過ぎているだろう。
銀灰色の髪をきっちりと撫でつけ、上質な毛皮の外套をまとっている。
その手には、分厚い羊皮紙の束が握られていた。
「エドワード前王の浪費によって、国庫は底をついております! それにもかかわらず、臨時増税を撤廃し、本税の減免まで検討するとは!」
伯爵は羊皮紙を掲げた。
「官吏への給金、近衛兵の装備、城壁の修繕、街道の維持。これらはすべて税によって賄われております。陛下は、それらをどうするおつもりですか!」
「伯爵の仰るとおりです!」
居並ぶ貴族たちから同調の声が上がる。
彼らの視線は冷ややかだった。
平民から突然国王となった私を、いまだに「成り上がりの書記官」と見ている者は少なくない。
だが、今回ばかりは彼らの主張にも一理あった。
私は机の上に置かれた財政報告書に目を落とした。
国庫残高は、想像以上に少ない。
前王の不正蓄財を没収したところで、すぐに使える現金は限られていた。
さらに、王都の復興には莫大な資金が必要となる。
食糧を買う金も、街道を直す金も、兵士に給金を支払う金も、同じ国庫から出さなければならない。
「クローヴェル卿」
「何でございましょう」
「卿の懸念は理解しています」
伯爵は意外そうに眉を上げた。
「では、減税を撤回していただけますな」
「いいえ」
「……何ですと?」
私はゆっくりと立ち上がった。
「今の税率を維持すれば、国庫は一時的に潤うかもしれません。しかし、その間に農民が畑を捨て、商人が街を去れば、来年の税収はさらに減るでしょう」
「それは理想論です!」
伯爵が声を荒らげた。
「民を救うことに異論はありません。ですが、国家そのものが破綻すれば、救済どころではなくなるのです!」
「おっしゃるとおりです」
私は頷いた。
「だからこそ、無計画な減税はしません」
伯爵が口を閉じた。
私は机の上に広げた地図を指差した。
「まず、北部の凶作地域については、今年度の徴税を大幅に減免します。王都の臨時課税は撤廃しますが、通常の商業税は維持します。ただし、取引を再開する商人には期限付きの優遇措置を設けます」
「……ほう」
「そして、王宮の維持費を削減します」
私は別の羊皮紙を取り上げた。
「宮廷の宴会費、装飾品の購入費、不要な儀礼の費用。これらを合わせれば、かなりの額になります」
貴族たちがざわめいた。
「陛下! 王家の威信を損なうおつもりですか!」
「王家の威信は、宴会の回数で決まるものではありません」
私は静かに答えた。
「民が飢えているときに豪華な宴を開く王と、民とともに苦難を乗り越える王。どちらが信頼されるでしょうか」
反論する声はなかった。
しかし、クローヴェル伯爵だけは険しい表情を崩さなかった。
「陛下。それでも足りませぬ」
「分かっています」
「本当に、お分かりなのですか」
伯爵は一歩前に出た。
「私は三十年、財務を預かってまいりました。飢饉も戦争も経験しております。税を下げれば民は喜ぶでしょう。ですが、喜びだけで兵士に給金は払えません」
その言葉には、先ほどまでとは違う重みがあった。
私は伯爵の顔を見つめた。
この男は、ただ私を困らせたいわけではない。
少なくとも、国家財政の破綻を本気で恐れている。
私の視界に、金色の数字が浮かぶ。
【財務卿クローヴェル伯爵・領民支持率:38%】
【官吏層支持率:46%】
【王都一般市民支持率:91%】
そして、別の警告が現れた。
【警告:食糧不足および寒波による生命危機】
【警告:統治への信頼が急速に変動する可能性】
数字は、問題があることを教えてくれる。
だが、どの政策が正しいかまでは教えてくれない。
その答えを出すのは、私自身なのだ。
「クローヴェル卿。では、一つお聞きします」
「何でしょう」
「王都の食糧備蓄は、現在どれほど残っていますか」
「王室倉庫には、およそ二千俵でございます」
「それだけですか?」
「……記録上は」
私はその言葉を聞き逃さなかった。
「記録上、ということは、記録にない備蓄が存在する可能性もあるのですね」
伯爵の表情がわずかに強張った。
「前王の時代には、各貴族が独自に備蓄を管理しておりました。すべてを財務省が把握していたわけではありません」
「なるほど」
私はグランに目配せした。
グランが扉を開き、数人の役人を招き入れる。
彼らは大きな帳簿を抱えていた。
「こちらをご覧ください」
私は一冊の帳簿を開いた。
「王室御用達の商館三社が、昨年秋に王都へ運び込んだ穀物の記録です」
伯爵の目が細くなる。
「……それが何か」
「この帳簿によれば、合計八千俵の小麦が王都に運び込まれています。しかし、王室倉庫への納入記録は二千俵しかありません」
私は別の帳簿を重ねた。
「残り六千俵のうち、三千俵はバルガス元内務卿の命令によって押収されていました。現在、その一部が貴族街の倉庫に保管されていることを確認しています」
広間がざわめいた。
「な、何ですと……!」
クローヴェル伯爵が帳簿を覗き込む。
「残りの三千俵については、まだ調査中です」
私は続けた。
「ですが、少なくとも今、王都のどこかに、民を救える食糧が眠っている可能性があります」
伯爵はしばらく帳簿を見つめていた。
やがて、低い声で言った。
「……陛下。その帳簿を、どこで手に入れられたのですか」
「解放された商人たちからです」
「商人たちが?」
「はい。彼らは前王の命令で不当に投獄されていました。ですが、取引の記録だけは守っていたのです」
私は伯爵を見つめた。
「卿は、このことをご存じでしたか」
沈黙が落ちた。
やがて、伯爵は小さく息を吐いた。
「……一部は、承知しておりました」
貴族たちがざわめく。
「前王の命令で、備蓄の一部を王宮の管理から外すよう指示されておりました。私は反対しましたが、バルガス侯爵が強引に押し切ったのです」
「なぜ、報告しなかったのですか」
「報告すれば、私も罷免されていたでしょう」
伯爵の声がかすれた。
「財務省までバルガスの手に渡れば、国庫は完全に私物化される。私は、そう考えておりました」
私は黙っていた。
伯爵の言葉がすべて真実とは限らない。
だが、彼が長年にわたって財政を支えてきたことも事実だった。
「クローヴェル卿」
「……はい」
「卿の判断が正しかったかどうかは、今後の調査で明らかにします」
伯爵は深く頭を下げた。
「承知しております」
「ですが、今は責任を追及する前に、やるべきことがあります」
私はグランに向き直った。
「確認できた倉庫について、直ちに現物調査を行ってください。所有権と保管状況を確認し、不正に押収された食糧は法に従って回収します」
「はっ!」
「王都の各広場に炊き出し所を設置します。教会と職人組合にも協力を求めてください」
「承知しました!」
「そして、配給を受ける人々の名簿を作成してください。子供や高齢者、病人のいる家庭を優先します」
グランが力強く頷いた。
しかし、クローヴェル伯爵が再び口を開いた。
「陛下。お待ちください」
「何でしょう」
「備蓄を一度に放出すれば、市場価格が急落します。そうなれば、正規の商人たちが損失を被る恐れがあります」
「分かっています」
私は頷いた。
「ですから、無制限に配るつもりはありません。緊急配給と市場への供給を分けます」
伯爵が目を見開いた。
「……と、申されますと?」
「飢えている人々には、命をつなぐための最低限の食糧を無償で届けます。一方、市場には商人を通じて適正価格で販売してもらいます」
私は地図を広げた。
「リーベルの自由商人連合が、三日後に王都へ到着する予定です。南方から乾物と油を運んでくれています」
「自由都市の商人たちを……?」
「はい。彼らには期限付きの営業税減免を認めました。その代わり、販売価格と取引量を公開してもらいます」
「なるほど……」
伯爵は考え込んだ。
「しかし、それでも国庫の負担は大きいでしょう」
「ええ」
私は正直に答えた。
「だからこそ、卿の力が必要なのです」
「……私の?」
「財政再建の経験では、卿に勝る者はこの国にほとんどいません」
私は一歩、伯爵に近づいた。
「ですが、これからは帳簿の数字だけではなく、その数字の向こうにいる人々の暮らしも見ていただきたい」
伯爵は何も言わなかった。
「卿が昨夜、何を召し上がったかは知りません。ですが、東区の鍛冶職人の一家が、四人で一杯の雑穀粥を分け合っていたことは知っています」
私は静かに続けた。
「その一家の父親は、王宮の門を修理した職人です。彼が働けなくなれば、王宮の修繕もできなくなる」
伯爵の目が揺れた。
「国家を支えているのは、帳簿だけではありません。畑を耕す農民、鉄を打つ職人、荷を運ぶ商人、そして彼らを守る兵士です」
私は伯爵を見つめた。
「彼らが倒れれば、国家も倒れます」
長い沈黙が流れた。
やがて、クローヴェル伯爵は深々と頭を下げた。
「……陛下」
「はい」
「私は、少々、数字ばかりを見ていたのかもしれません」
その声には、先ほどまでの険しさがなかった。
「ですが、陛下にも一つ、お約束いただきたい」
「何でしょう」
「民を救うためとはいえ、国庫を無制限に使うことだけは、お控えください。財政が破綻すれば、最も苦しむのは結局、民でございます」
私は微笑んだ。
「もちろんです」
そして、右手を差し出した。
「卿には、引き続き財務を預かっていただきたい。ただし、前王時代の不正については、独立した調査を受けていただきます」
伯爵は驚いたように私を見た。
「……それでも、私をお使いになるのですか」
「経験のある人材を、感情だけで切り捨てるつもりはありません」
私は答えた。
「ですが、責任を曖昧にするつもりもありません」
伯爵はしばらく私を見つめていた。
やがて、ゆっくりと私の手を取った。
「……承知いたしました、陛下」
その瞬間、視界に金色の文字が浮かんだ。
【官吏層支持率:46% → 58%】
【財政改革に対する信頼:上昇】
【警告:財政再建には継続的な対応が必要です】
私は小さく息を吐いた。
一つの問題が解決したわけではない。
むしろ、ようやく話し合いが始まったところなのだ。
だが、それでいい。
国を治めるというのは、きっとそういうことなのだろう。
◇ ◇ ◇
それから三日後。
王都の南門に、長い馬車の列が現れた。
リーベルの商人たちが、約束どおり食糧を運んできてくれたのだ。
乾物、油、豆、小麦粉。
荷馬車には、王都では久しく見られなかった品々が積まれていた。
「カインさん!」
先頭の馬車から、一人の商人が手を振った。
リーベルで何度も顔を合わせた商人組合長だった。
「約束の品を持ってきましたよ!」
「ありがとうございます。本当に助かりました」
「何をおっしゃいます。あんたのおかげで、俺たちは商売を続けられたんです」
商人は豪快に笑った。
「今度は俺たちが恩返しする番ですよ」
私は深く頭を下げた。
その日の午後から、王都の各広場で炊き出しが始まった。
大きな鉄鍋に火が入り、野菜と麦の香りが冷たい空気に広がっていく。
教会の修道女たちが食事を配り、職人組合の男たちが薪を運んだ。
兵士たちも、武器を置いて手伝っていた。
しかし、すべてが順調だったわけではない。
配給所には長い列ができ、食糧を受け取れない人々から不満の声が上がった。
一部では、配給を横取りしようとする者も現れた。
私は報告を受けるたびに、担当者たちと話し合った。
配給所を増やすこと。
病人や高齢者には、直接食糧を届けること。
不正を防ぐため、配給量と在庫を毎日公開すること。
どれも地味で、手間のかかる仕事だった。
だが、少しずつ成果は現れ始めた。
閉ざされていた店が、一軒、また一軒と開き始める。
市場に人が戻り、職人たちの槌の音が響くようになった。
そしてある夕暮れ。
私はグランだけを連れ、外套のフードを深くかぶって王都の広場へ向かった。
街には、まだ冷たい木枯らしが吹いていた。
それでも、数日前までの死んだような静けさは消えつつあった。
「さあさあ、押さないで! 温かいスープだよ! 子供のいる家には薪も配るからね!」
広場の中央には、湯気を上げる巨大な鉄鍋が据えられていた。
薪が爆ぜる音。
煮込まれた野菜と麦の香り。
人々の話し声。
そのすべてが、ひどく懐かしく感じられた。
「あ、カイン……!」
列に並んでいた小さな影が、私に気づいて駆け寄ってきた。
あの少女だった。
以前は薄汚れた上着を着ていたが、今日は新しいウールの肩掛けを羽織っている。
「しっ。今はただの旅の者だよ」
私が屈み込んで人差し指を唇に当てると、少女は悪戯っぽく笑った。
そして、小さな両手で私の手を包み込んだ。
その手はまだ冷たかったが、以前より少しだけ温かかった。
「あのね、カイン様」
「何だい?」
「今日ね、お母さんと温かいパンを食べたの」
私は微笑んだ。
「そうか。美味しかったかい?」
「うん! すっごく美味しかった!」
少女は嬉しそうに頷いた。
「お母さん、泣きながら笑ってたよ。『もう大丈夫だね』って」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
王宮では、毎日のように難しい書類と向き合っている。
財政のこと。
食糧のこと。
貴族たちの反発。
地方領主との交渉。
考えなければならないことは山ほどあった。
けれど。
この少女が、母親と温かいパンを食べられた。
その事実だけで、今日一日の疲れが少し軽くなった気がした。
「……よかった」
私は少女の頭を撫でた。
「本当によかった」
少女はにっこり笑った。
「カイン様も、ちゃんとご飯食べてる?」
思わず言葉に詰まった。
「……もちろんだよ」
「本当?」
「本当だとも」
「じゃあ、これあげる!」
少女は小さな布包みを差し出した。
中には、半分に割ったパンが入っていた。
「お母さんと分けたの。でも、カイン様にも食べてほしくて」
私はしばらく、そのパンを見つめていた。
決して豊かな家庭ではない。
ようやく温かい食事を取れるようになったばかりなのだ。
それなのに、この子は私に分けようとしてくれている。
「……ありがとう」
私はパンを受け取った。
そして、小さく一口かじった。
少し硬く、素朴な味だった。
けれど、これまで食べたどんな豪華な料理よりも、美味しく感じられた。
「美味しいよ」
少女は満面の笑みを浮かべた。
その瞬間、視界に金色の文字が浮かんだ。
【王都一般市民支持率:91% → 96%】
【民生改善の兆候を確認】
【警告:地方部の食糧不足は継続中】
私はその表示を見つめた。
王都では、少しずつ暮らしが戻り始めている。
だが、地方ではまだ飢えている人々がいる。
この少女の笑顔を、王国中の子供たちに届けなければならない。
「陛下」
背後に立つグランが、小声で呼びかけた。
「財務卿から報告が届いております。北部への食糧輸送について、予算の再調整が必要とのことです」
「分かりました」
私は立ち上がった。
「王宮へ戻りましょう」
「……お休みにならなくてよろしいのですか」
「休みたいのは山々ですが」
私は苦笑した。
「まだ、お腹を空かせている人たちがいますから」
グランは小さく笑った。
「陛下らしいお言葉です」
私は少女に手を振った。
「また会おう」
「うん! カイン様も、ちゃんとご飯食べてね!」
「ああ。約束するよ」
少女は母親の元へ駆け戻っていった。
私はその背中を見送りながら、静かに決意を新たにした。
冬を越えれば、春が来る。
だが、春はただ待っているだけでは訪れない。
畑を耕す人がいて、種をまく人がいて、それを支える人がいる。
国も同じだ。
誰か一人の力で豊かになるわけではない。
人々が安心して働き、暮らし、明日を信じられるようにする。
それが、私の仕事なのだ。
◇ ◇ ◇
王宮に戻ると、クローヴェル伯爵が書類の山を前に待っていた。
「陛下。お戻りになりましたか」
「遅くなりました」
「まったく。国王自ら街を歩き回るなど、護衛の身にもなっていただきたいものです」
伯爵は呆れたようにため息をついた。
だが、その表情は以前より柔らかくなっていた。
「それで、北部への輸送の件ですが」
「はい」
私は机の前に座った。
伯爵が地図を広げる。
「現在、北部の街道は積雪によって通行が困難になっております。通常の馬車では、予定した量の食糧を運べません」
「では、川を使うのはどうでしょう」
「河川も一部が凍結しております」
「なるほど……」
私は考え込んだ。
すると、グランが口を開いた。
「陛下。北部には、旧軍の補給路が残っております」
「補給路?」
「はい。山間を抜ける道で、冬でも比較的雪が少ないと聞いております」
伯爵が眉をひそめた。
「しかし、あの道は長年使われておりません。橋が崩れている可能性もありますぞ」
「では、まず調査隊を派遣しましょう」
私は頷いた。
「通行可能であれば、修繕して輸送路として使います」
「費用はどうなさいますか」
伯爵がすかさず尋ねた。
私は思わず笑った。
「そこは財務卿に相談したいところですね」
「……陛下」
伯爵は深いため息をついた。
「まったく、困った国王でございますな」
「そうでしょうか」
「ええ。民を救うためなら、いくらでも仕事を増やしてくださる」
「申し訳ありません」
「謝罪は結構です」
伯爵は羊皮紙を広げた。
「代わりに、こちらの予算案をご確認ください。王宮の装飾費を削減すれば、橋の修繕費の一部は捻出できます」
私は驚いて伯爵を見た。
「……卿が、その案を?」
「何か問題でも?」
「いいえ」
私は微笑んだ。
「ありがとうございます」
伯爵は少し照れくさそうに咳払いした。
「勘違いなさらぬよう。私は財務卿として、国家の財政を守っているだけでございます」
「ええ。分かっています」
私は頷いた。
「それでこそ、頼りになる財務卿です」
伯爵は何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ口元が緩んでいた。
そのとき、私の視界に金色の文字が浮かんだ。
【財務卿クローヴェル伯爵・新王への信頼:上昇】
【官吏層支持率:58% → 67%】
【国家復興計画:進行中】
私はその数字を見つめ、静かに微笑んだ。
民意掌握。
かつて、ゴミスキルと笑われた能力。
だが、この力が教えてくれたことは、たった一つだった。
人々の信頼は、命令して得られるものではない。
積み重ねた行動によって、少しずつ育まれるものなのだ。
そして、それは民衆だけではない。
貴族も、役人も、兵士も、商人も。
立場が違えば、考え方も違う。
時には意見が対立することもあるだろう。
だが、だからこそ話し合わなければならない。
相手の声を聞き、互いに歩み寄る道を探さなければならない。
私は机の上に積まれた書類を見渡した。
まだまだ、やるべきことは山ほどある。
財政再建。
食糧輸送。
街道整備。
農地の復旧。
地方領主との交渉。
そして、これから必ず起きるであろう、新たな問題の数々。
思わず苦笑が漏れた。
「……本当に、忙しい仕事ですね」
「今さら何をおっしゃいますか、陛下」
クローヴェル伯爵が呆れたように言った。
「国王とは、そういうものでございましょう」
「そうですね」
私は頷いた。
そして、最初の書類を手に取った。
窓の外では、冷たい冬の風が吹いている。
だが、遠くの街並みには、少しずつ明かりが戻り始めていた。
その光を、決して消してはならない。
私は心の中で、静かに誓った。
いつか、この国の誰もが、明日を恐れずに眠れるように。
子供たちが、お腹いっぱい食べて笑えるように。
そして、人々が自分たちの未来を、自分たちの意思で選べるように。
私は、何度でも耳を傾けよう。
何度でも考えよう。
間違えたなら、認めて改めよう。
なぜなら、王冠をかぶっているからといって、私が誰よりも正しいわけではないのだから。
そのとき、視界の隅に小さな金色の文字が浮かんだ。
【民意王権・継続条件】
【民の信託を守り続けること】
私はその言葉を見て、小さく笑った。
「……分かっていますよ」
そして、袖をまくった。
「さて、次の案件に取りかかりましょうか」
「陛下! こちらの予算案もご確認を!」
「陛下! 北部から急使が到着しました!」
「陛下! 商人組合から新たな提案が!」
次々と声が飛んでくる。
私は思わず天井を仰いだ。
……どうやら、今日も夜遅くまで眠れそうにない。
それでも、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
なにしろ、これは私が自分の意思で引き受けた仕事なのだから。
かつて、ゴミスキルと笑われた『民意掌握』。
その力によって、私は平民から国王になった。
だが、本当に大切なのは、王になったことではない。
王になってから、何をするかだ。
そして私の答えは、これからも変わらないだろう。
人々の声を聞き、困りごとを一つずつ解決していく。
ただ、それだけだ。
――こうして、新米国王カインの、世界で最も忙しく、そして最も温かな治世は、今日も続いていくのだった。




