家伝の秘譜を盗んで腹黒幼馴染に貢いだ7年目のクズ彼氏、数兆円規模の資産を持つ私の幼馴染にその場で現実を教え込まれる!
導入
東京国際女流名人杯の決勝前夜、彼氏の幼なじみである朝倉優奈は、私が手にしていた家伝の秘伝棋譜を指さし、笑いながら尋ねた。
「これ、佐倉家に伝わる秘伝の棋譜なんですよね。最後の一手は門外不出だって聞きました。少しだけ見てもいいですか?」
私が口を開くより早く、七年付き合ってきた彼氏、神谷周が私の手から棋譜を抜き取り、彼女の掌に置いた。
「いいよ。好きに見ればいい」
優奈は秘伝棋譜を抱え、耳障りなほど甘い声を出した。
「本当にいいの? 佐倉さん、怒らないかな? この大会のために三年も準備してきたのに、私がこの一手で逆転しちゃったらどうしよう」
周は淡く笑った。
「それなら、ちょうどいいじゃないか。明日は優奈の誕生日だ。彼女には、その優勝がプレゼントとして必要なんだよ。璃茉は誕生日じゃないし、どうしても欲しいなら、誕生日に安物のトロフィーでも作ってやる。それで十分だろう」
翌日、私は優奈に負けた。彼女が使ったのは、秘伝棋譜に記されていた、あの終盤の逆転手だった。
周は壇下に立ち、平然とした顔で私に言った。
「今日は優奈の誕生日だ。この優勝は、君から彼女へのプレゼントということにしよう」
だったら、彼氏ごと彼女にくれてやる。
1.盗まれた終局の一手
「朝倉優奈さん、本年度の東京国際女流名人杯、神の一手で優勝です!」
会場の拍手が、耳の奥で轟くように弾けた。私は対局室の中央に立ったまま、指先が冷たくなり、司会者がそのあと何を言っているのかほとんど聞こえなかった。ありえない。優奈が私に勝つことはあっても、この一手で勝つはずがない。
あれは、父が生涯をかけてまとめ上げた佐倉家の秘伝棋譜、その最後の型だった。門外不出の終盤逆転の一手。私以外で見たことがあるのは、神谷周だけだ。歓声の中、私はふと、昨夜、周が慌ただしく出ていった背中を思い出した。
「優奈の誕生日だから、少し顔を出してくる。璃茉は決勝の準備をしていて」
あのとき私は机に向かって秘伝棋譜を研究していて、適当に返事をしただけだった。今になって思い返すと、胸の奥を細い針で静かに刺されたような痛みが走った。
どうやって壇を降りたのか、自分でも覚えていない。気づいたときには、周が私の肩を抱き、いつもと変わらない優しい声で言っていた。
「璃茉もよくやったよ。準優勝だって簡単じゃない。今夜はちゃんと祝おう」
私は彼の陽だまりのような笑顔を見上げた。その瞬間、胸を覆っていた暗いものが少しだけ薄れた気がした。もしかしたら、私の考えすぎなのかもしれない。優奈が本当に天才で、自力であの一手を思いついたのかもしれない。
けれど、彼女はこの六年間、一度も私に勝ったことがなかった。
「神谷って、本当に優奈に甘いよな。今回は優奈が優勝者だぞ」
松永蓮が、高校時代の囲碁部の旧友たちを連れて近づいてきた。からかうような口調だった。優奈は彼らの中に立ち、頬を赤らめていたが、その視線は何度も周へ流れている。
「優勝って言っても、そんな大したことじゃないよ。佐倉さんだって準優勝なんだから、一緒にお祝いしたほうがいいよ」
そこまで言われて断れば、私が空気を読めない人間になる。私は小さく頷いた。
「じゃあ、一緒にお祝いしましょう」
周と友人たちは歓声を上げ、車を取りに行った。残されたのは、私と優奈だけだった。ほどなくして、メディアが私たちを取り囲んだ。
「朝倉さんは、これまで六年間、佐倉さんに勝てなかったと伺っています。今回、一気に優勝された勝因をお聞かせください」
こういう取材には慣れていた。私は優奈を助けようと一歩出かけたが、その前に彼女がカメラへ向かって口を開いた。
「勝つ者は力に頼らず、心を守り、誓いを知り、変化を読み、最後まで慎む」
その言葉を聞いた瞬間、私の顔から血の気が引いた。それは、父が佐倉家の秘伝棋譜の扉に書き残した最初の一文だった。私は幼いころから何度も読み、目を閉じていても暗唱できる。
打ち筋が似ることはある。けれど、勝負の心得まで一字一句同じなど、ありえない。優奈は間違いなく、秘伝棋譜を見ている。
2.彼の幼なじみ、彼の偏愛
祝勝会は、銀座の会員制カラオケラウンジで開かれた。個室の照明は暗く、シャンパンと笑い声が混ざり合い、まるで私とは何の関係もない宴のようだった。
優奈は一曲、また一曲と歌い続け、周は彼女の隣に座って、ずっと口元に笑みを浮かべていた。旧友たちは彼女を囲んで拍手し、はやし立てる。まるで、この小さな輪の中心にいるべきなのは、彼女だけだと言わんばかりだった。
こんな偏愛を、私はもっと早く見抜くべきだった。昔は、彼らは幼いころから一緒に育ったのだから、私が気にしすぎてはいけないと思っていた。
でも今日は、ひどく目に刺さった。
私はもう胸の奥の熱を抑えきれず、優奈の手首をつかんだ。
「優奈、聞きたいことがある」
彼女の歌声がぴたりと止まった。優奈は何も知らないような顔で私を見た。
「佐倉さん、どうしたんですか?」
周の友人たちが一斉にこちらを向いた。その目には、すでに不満が浮かんでいた。優奈がカラオケの音を止めると、個室の中は一瞬で静まり返った。私は深く息を吸い、声を低くした。
「今日の決勝で、私に勝ったあの一手。どうやって知ったの?」
周はすぐそばにいた。彼こそが秘伝棋譜を見た唯一の人間だとしても、私はあまりにも露骨な言い方をしたくなかった。何より、その恐ろしい可能性を信じたくなかった。
優奈は大きく目を見開いた。まるで私が、とんでもないことを言い出したかのように。
「佐倉さん、それはどういう意味ですか? 大会で不正なんて許されませんよ。私はもちろん、自分で考えたんです。まさか、あなた……」
彼女は慌てて口元を押さえた。まるで、うっかり言いすぎてしまったという演技だった。
「分かっているでしょう。さっきメディアに話したあの心得は、明らかに――」
「おい、佐倉」
松永蓮が苛立った声で私を遮った。
「自分が優奈に負けたからって、不正を疑うのは違うだろ」
「そうだよ。優奈は六年間ずっと負けてきたけど、お前に何か言ったことあったか?」
「優勝者はもう決まったんだ。いつまでも騒ぐのは見苦しい」
旧友たちが口々に同調した。
優奈は目を赤くし、小さな声で言った。
「みんな、佐倉さんをそんなふうに言わないで。今回は女流名人戦への挑戦権もかかっているんだから、慎重になるのは当然だよ」
彼女がそう言えば言うほど、周囲の視線は私に対して冷たくなる。私は部屋の隅にいる周を見た。彼は私に、なだめるような目を向けた。
その瞬間、私はなぜか安心してしまった。きっと、彼は私の側に立ってくれる。そう思った。けれど次の瞬間、周は皆の前に歩み出て、穏やかでよく通る声で言った。
「璃茉が悪かった。嫉妬で冷静さを失っているんだ」
「僕から謝る」
個室の空気が、一瞬止まった。
すぐに、蓮が眉をひそめる。
「それは違うだろ。本人がやったことを、なんで周が背負うんだよ」
「優奈に謝らせろ」
優奈の目に、ほんの一瞬だけ得意げな色が走った。けれどすぐに、彼女は思いやりのある笑みに変えた。
「もういいよ。周が佐倉さんの代わりに謝ってくれるなら。それじゃあ、罰として周に一曲付き合ってもらおうかな」
蓮が口笛を吹いた。
「それ、罰じゃなくてご褒美だろ」
優奈は高校時代に二人で歌ったという恋の歌を入れた。前奏が流れた瞬間、周の表情が明らかに柔らかくなる。
近くにいた誰かが、思わず口を滑らせかけた。
「これ、高校のとき周が優奈に歌った曲じゃん。あのころ二人、将来は結――」
言い終える前に、別の誰かがその腕を小突いた。個室は短い沈黙に沈む。やがて、優奈は周を見つめながら、静かに歌い出した。
私は二人を見て、ひどく滑稽な気持ちになった。周と私は七年も付き合っている。それなのに、この小さな輪の中では、私はいつまで経っても後から入り込んだ余所者だった。
サビに入ると、周は優奈の隣に座り、優奈は自然に彼の腕へ自分の腕を絡めた。周は避けなかった。
もう見ていられなかった。私は個室の隅へ移り、一人で黙って酒を飲んだ。どれだけ飲んだのか覚えていない。ただ、優奈と周があの恋の歌を何度も何度も歌っていたことだけは覚えている。
そして、周の声で目を覚ました。
「寝ちゃったのか。こんなところで」
その声は相変わらず優しかった。けれど次の一言が、わずかに残っていた酔いも意識も、全部叩き砕いた。
「優奈を一人で帰すのは危ないから、僕が送る。璃茉は蓮たちと帰って」
私が返事をする前に、彼は優奈を連れて出ていった。残された私は、酔って立つのもやっとだった。
3.あの救いを求める電話
私は松永蓮たちを振り返った。彼らは誰が私を送るか話し合っていた。話し合っているというより、互いに押しつけ合っているだけだった。
「周はお前に送れって言ってたぞ」
「冗談じゃない。俺の助手席はずっと優奈専用なんだよ。優奈に知られたら、絶対口を利いてくれなくなる」
苛立ちを隠そうともしない蓮を見て、私はスマホを上げた。
「いい。みんな帰って。タクシーを呼ぶから」
そう言った途端、彼らはそれぞれの車に乗り込んだ。私に絡まれるのを恐れているような速さだった。
そうだ。七年のあいだ、私がどれだけ彼らに気を遣っても、年末年始に挨拶を送り、試合のチケットを渡し、集まりの店を予約しても、彼らの中で私は優奈を追い出した女だった。この小さな仲間内で、私は永遠に歓迎されない外部の人間だった。
タクシーに乗ったときには、すでに酒が頭に回っていた。窓の外を夜景が流れ、東京のネオンは少しずつまばらになっていく。
無理やり目を開けた私は、ルートがおかしいことに気づいた。
「すみません、道、間違えていませんか?」
運転席の男は答えなかった。むしろ、さらにスピードを上げた。バックミラー越しに私を見る目が、ねっとりとしていて、胃の奥が冷たくなる。
窓の外の景色はどんどん見慣れないものに変わり、郊外へ向かっているのが分かった。私は歯を食いしばり、車速がわずかに落ちた瞬間、ドアを押し開けて転がり落ちた。
痛い。どこを怪我したのか分からなかった。全身が痛かった。路肩の冷たい風が服の中に入り込み、私は地面にうつ伏せになったまま、最後の力で緊急連絡先を押した。
それは周が自分で設定したものだった。彼は言っていた。危ないことがあれば、どこにいても必ず守りに行く、と。電話がつながった瞬間、私は泣きそうになった。
「周……助けて……」
電話の向こうから聞こえたのは、優奈の声だった。声は少しかすれていて、どこか艶を含んでいた。
「周、疲れて寝ちゃったよ」
「佐倉さん、私のまねをして可哀想なふり? うまくできないなら、今度教えてあげようか」
彼女は小さく笑った。
「そうだ。秘伝棋譜、ありがとう。あれがなかったら、私、本当にあなたに勝てなかった」
電話は切れた。
私は冷たい地面にうつ伏せたまま、体の痛みが少しずつ鈍くなっていくのを感じた。けれど心だけは、生きたまま裂かれていくようだった。
やっぱり、思い過ごしなんかじゃなかった。周だ。周が、私の家の秘伝棋譜を彼女に渡したのだ。
4.全員が私に罪をかぶせた
病院で目を覚ましたのは、怒鳴り声のせいだった。
「佐倉璃茉、出てこい! 後ろめたいことをしたからって、病院で死んだふりをして逃げられると思うなよ!」
松永蓮の声だった。七年のあいだ、私は彼に誕生日プレゼントを贈り、店を予約し、酔って失態をさらしたときの後始末までした。だから、その声は嫌でも覚えていた。
重い瞼を開けると、三人が病室へ入ってくるのが見えた。怒り狂った蓮。目を赤く腫らした優奈。そして、ひどく心配そうな顔をした周。
ただ、その心配そうな目は、全身傷だらけの私には一秒も向けられなかった。
「秘伝棋譜をXに流したら、優奈がどれだけ叩かれるか分かっていたはずだろ。どうしてそこまで悪質なことができるんだ?」
私は呆然とした。
「何の秘伝棋譜?」
スマホを手に取ると、Xのトレンドに一つの暴露投稿が上がっていた。
【東京国際女流名人杯・決勝局に別の内幕か】
投稿を開くと、写真には優奈が決勝で私を破った棋譜と、その破解方法が写っていた。そして扉に記された勝負の心得の横には、佐倉家の家紋がはっきりと映っている。
私が衝撃から抜け出すより早く、優奈が傷ついた声で言った。
「佐倉さん、私がみんなと仲がいいからって嫉妬するのは分かります。でも、だからって私を壊そうとするなんて」
私は二秒ほど彼女を見つめた。
「つまり、あなたは私の秘伝棋譜を見たと認めるのね?」
「この勝負、あなたに勝者を名乗る資格はない」
優奈の目に一瞬で涙が溜まり、彼女はすすり泣きながら周の胸に飛び込んだ。
「うう……やっぱり私、佐倉さんに勝つべきじゃなかったんだ。六年も譲ってきたのに……」
「もういい!」
蓮は彼女の前に立ちはだかり、被害者を守るように私を睨んだ。
「優勝を一つ奪われただけだろ。優奈はこんなに泣いている。彼女がお前に何か借りがあるわけじゃない!」
周も眉をひそめた。
「璃茉、今回はやりすぎだ」
その瞬間、私はようやく理解した。彼らは、優奈が私の秘伝棋譜を見たことを知っている。彼女が勝つべきではなかったことも知っている。それでも、彼女が泣いたというだけで、この件は私の過ちになったのだ。
私は周を見つめ、一語一語区切るように聞いた。
「つまり、あなたも知っていたの?」
「彼女が秘伝棋譜を見たことを、知っていたの?」
周はしばらく黙ってから、ようやく顔を上げた。
「秘伝棋譜は僕が優奈に渡した」
「彼女の誕生日だったんだ。この優勝は、君からのプレゼントということにすればいい」
私は思わず体を起こした。傷口が引きつれ、鋭い痛みが走る。それでも、胸を貫いた痛みに比べれば、何でもなかった。いろいろな可能性を考えた。秘伝棋譜がなくなったのか、盗まれたのか、コピーされたのか。
けれど、三年かけて準備した優勝も、父が残してくれた遺志も、私がいちばん信じていた恋人の手で、別の女に渡されたのだとは思わなかった。
「どうして……そんなことができるの?」
「璃茉」
周は私を遮り、呆れたような声で言った。
「優奈はもう優勝者だ。君はすぐネットで釈明して、自分が彼女への嫉妬からデマを流したと言えばいい」
私は口を開いたが、声が出なかった。どうして、そんな残酷な要求を、そんな軽い口調で言えるのだろう。
「そう言わなかったら、優奈はあのコメントをどう受け止めればいい? そもそも、自業自得だろう」
私は周を見た。初めて、その顔がひどく見知らぬものに見えた。優奈は誹謗中傷に耐えられない。では、私はどうなるのだろう。私は死んでもいいのだろうか。
周は優奈を連れて出ていった。病室の扉のところで、優奈はわざと扉を少しだけ閉め、私に意味深な笑みを見せた。
次の瞬間、彼女は扉の向こうで心配そうな声を作る。
「周、佐倉さん、あとであなたに怒らないかな?」
周は軽く笑った。
「璃茉? 君みたいに甘えたりしないよ。せいぜい家にこもるだけだ」
優奈は甘えるように言った。
「そのとき、周は慰めに行かないでね?」
「分かった。優奈への罰の代わりだ。しばらく放っておいて、少しは学ばせる」
足音が遠ざかる。体の鈍い痛みが少しずつ戻ってきた。けれど、それ以上に痛かったのは、血まみれになった心だった。
5.帰国した幼なじみ
私はあの匿名の暴露投稿を開いた。投稿元は東京の匿名アカウントだった。写真に映る佐倉家の家紋を見つめているうちに、ふと、別の人物を思い出した。
斉木蒼真。
長いあいだ連絡していなかったLINEのアイコンを開く。指をしばらく止めてから、私は一言だけ送った。
「帰国したの?」
ほとんど同時に、相手から返事が届いた。
「帰ってきた」
私はチャット画面を見つめたまま、しばらく待った。画面はまるで、この先もう何も起きないかのように静かだった。けれど、やがて新しいメッセージが表示された。「会おう」
指が止まった。彼とは、もう十年も会っていない。
佐倉家の秘伝棋譜には、私が持っている手稿のほかに、もう一冊、拓本がある。十年前、斉木家が経営していた棋具会社が破産し、蒼真は東京を離れざるを得なくなった。その後、彼はアメリカへ渡った。父は拓本を彼に渡すとき、扉に自ら佐倉家の家紋を押した。その家紋は、私が幼いころから触れて遊んでいた印章のものだった。
最初の数年、蒼真は近況を知らせてくれた。斉木家の借金を返し終えたこと。彼の会社が最初の投資を受けたこと。いつか帰るということ。
そのころの私は、はしゃいで返した。
「早く帰ってきてね。そうしたら私が結婚するとき、ご祝儀をもう一人分もらえるから」
蒼真は数日沈黙し、それから礼儀正しく、けれどよそよそしい返事をくれた。
「用事があって帰れない。ご祝儀は口座に振り込む」
それ以来、私たちの連絡はだんだん減っていった。けれど今、また新しいメッセージが表示された。
「俺が行く」
入院しているあいだ、珍しく松永蓮から何通もメッセージが届いた。どれも問い詰める内容だった。
最後の一文はこうだった。
「お前は周にふさわしくない」
私はチャット画面の中に残る、かつて年末年始に送った挨拶を見て、急にばかばかしくなった。七年続けた一人芝居。その結末が、「ふさわしくない」の一言だった。
私は彼を友だちリストから削除し、退院の手続きを済ませた。
病院のロビーへ出たところで、二人の看護師が小声で話しているのが聞こえた。
「聞いた? この前の女流名人杯の件、朝倉優奈さんが今日、棋院で記者説明会を開くんだって」
「知ってる。もう配信待機してる」
私はロビーの画面を見た。映像が切り替わる一瞬、そこに周の姿が映った。心臓を強くつかまれたような痛みが走る。釈明?
彼らに、何を釈明することがあるというのだろう。
私は配信の位置情報を見て、蒼真へメッセージを送った。
「今日は用事ができた。また今度会おう」
6.棋院の記者説明会
周は、私が来ることを予想していたのかもしれない。東京棋院の控室に着いた瞬間、彼に腕をつかまれて中へ引き込まれた。
「璃茉、原稿は書いておいた。これをそのまま読めばいい」
「心から反省すれば、僕たちは許してやる」
びっしり文字が詰まった紙を読む暇もなく、優奈が近づいてきて、私の腕を引いて壇上へ連れていった。彼女は耳元に顔を寄せ、私にしか聞こえない低い声で囁く。
「あなたが周の彼女だから、何だっていうの?」
「結局、私のために嘘をつくんでしょう?」
「優勝は私のもの。周だって、あなたが欲しがる資格なんてない」
そう言い終えると、彼女はマイクの前に立ち、今にも壊れそうなほど傷ついた表情へ切り替えた。
「最近、ネット上で私に関するいろいろな憶測が出ています。それは、悪意あるデマが原因です」
彼女はカメラの前で、涙をこぼしながら話した。すぐに記者が問いかける。
「そのデマを流した人物は誰ですか?」
優奈は待っていた質問を聞き、口元をわずかに持ち上げた。そして勢いよく私を壇上の前へ押し出す。
「東京国際女流名人杯の準優勝者、佐倉璃茉さんです」
「彼女は私への嫉妬から、ネットにデマを流しました」
フラッシュが一斉に私へ向けられた。私はまぶしさに耐えられず、手で目元を遮った。客席ではすぐにざわめきが広がった。
「彼女がデマを?」
「佐倉さんの味方をしていたのに、騙されたのか」
「ひどすぎるだろ」
優奈は私をさらに前へ押し出し、涙声で言った。
「皆さん、そんなふうに言わないでください。私に免じて、佐倉さんにやり直す機会をあげてください」
確かに、私にはそんな機会が必要だった。できることなら、この二人の人間とは二度と関わりたくない。
「朝倉さん、優しすぎる」
「デマを流されてもそこまで大人なんて、私なら絶対に許せない」
優奈は私の手にマイクを押しつけ、低い声で脅した。
「認めなかったら、周に別れさせるからね」
私は顔に近づきすぎたカメラを押しのけ、ゆっくり顔を上げた。
「デマの件について、ここで説明します」
会場が静かになった。私はカメラを見つめ、一語一語はっきりと言った。
「朝倉さんの言っていることは、全部嘘です」
会場が一瞬で爆発したように騒がしくなった。
「本当なのか?」
「証拠は?」
私は静かに笑った。
「皆さんは、Xに投稿された秘伝棋譜の写真をご覧になっているはずです」
「勝負の心得の横にある印は、佐倉家の家紋です」
「佐倉家は東京棋界の旧家です。家紋を調べれば、すぐに分かります」
あんな私的な心得の横に、他家の家紋が押されているはずがない。
その場にいた記者たちは、次々とスマホを取り出した。やがて、ひそひそ声ははっきりとしたざわめきに変わっていく。
「本当に佐倉家の家紋だ」
「予選のときから佐倉さんのほうが棋力は安定していた。決勝だけ急に負けたのは変だと思っていた」
「秘伝棋譜が本物なら、朝倉さんの優勝資格は再審査になるのでは」
優奈の顔が青ざめた。
「違う! あれは彼女が加工したの!」
「秘伝棋譜は私のものよ!」
その説明は、彼女の顔色と同じくらい頼りなかった。
「加工? そんな痕跡、まったく見えないぞ」
「私たちをばかにしているのか?」
風向きが変わると、人々は一斉に流れる。さっきまで私を責めていた人たちは、今度は私に同情し始めた。メディアは優奈を取り囲み、逃がそうとしない。
「朝倉さん、他人の家伝の棋譜を使って優勝したことを恥ずかしいとは思いませんか?」
「過去の対局にも問題があるのでしょうか?」
「日本棋院は調査を始めるのでしょうか?」
優奈は、私を恥辱の柱に縛りつけるはずだった人々が、突然自分へ矛先を向けるとは思っていなかったのだろう。狼狽して顔を覆った。
「違う! 違うんです!」
「撮らないで。もう撮らないでください!」
メディアがそんなことで引くはずもなかった。現場がますます混乱していく中、冷たい声が響いた。
「もう十分だ」
周が大股で壇上へ上がり、優奈を腕の中へかばった。
「僕は佐倉璃茉の彼氏です」
「優奈が潔白だと証明できます」
会場は二秒ほど静まり返った。すぐに、すべての視線が私へ向いた。
笑ってしまいそうだった。彼は私の彼氏だと言った。けれど、その腕の中で守っているのは、別の女だった。
私は彼を見た。声は、自分でも不思議なくらい静かだった。
「どうやって証明するの?」
彼に釈明を迫られたあの瞬間から、私の心はもう死んでいた。
「そうだ。何を根拠に証明するんだ?」
台下の記者の一人が我に返り、周に遮られたことで遠慮のない口調になった。
「早くどいてください。取材の邪魔です」
周は冷笑した。
「僕と璃茉は七年愛し合ってきました。それで十分でしょう?」
彼は、私たちの七年を、私を刺す刃に変えた。
「璃茉が有名になる前から、僕は彼女の恋人でした。断言できます。彼女はこの秘伝棋譜を持っていません」
記者は引き下がらなかった。
「それでは、秘伝棋譜が朝倉さんのものだという証明にもなりません」
周が微笑んだ。その自信に満ちた顔を見た瞬間、胸の奥に嫌な予感が芽生えた。
けれどすぐに、私はそれを否定した。そんなはずはない。たとえ周が優奈を好きでも、私たちは七年も一緒にいた。彼が私のいちばん大切なものを奪うはずがない。
次の瞬間、彼が取り出したものが、私にとどめを刺した。
「これが優奈の秘伝棋譜です。見てのとおり、あの写真にあった家紋なんてありません」
「あなた方が証拠だと言っているものは、すべて偽造です」
「佐倉璃茉、まだ何か言うことはある?」
優奈は急に力を取り戻したように、あの秘伝棋譜をつかみ、勝ち誇った顔で私を責め立てた。
「家紋はどこ?」
「やっぱりあなたが画像を加工して、みんなを騙したんじゃない!」
私は見覚えのあるその秘伝棋譜を見つめ、全身が氷水に沈んでいくような感覚に襲われた。それは、父が私に遺してくれた手稿だった。私のいちばん大切なものを、周が持ち出し、彼女に渡し、さらに皆の前で私を陥れるために使っている。
「ひどすぎる」
「彼女、私たちを利用したってこと?」
「試合に負けただけじゃなく、優勝者まで潰そうとしたのか」
記者だけでなく、周囲の人々もスマホを私へ向け始めた。すべての悪意が波のように押し寄せてくる。それでも、私の目にはあの秘伝棋譜しか映っていなかった。
「返して」
「秘伝棋譜を返して」
私は手を伸ばした。けれど優奈に強く突き飛ばされ、床へ倒れた。
「あなたのものじゃないでしょう?」
「近寄らないで」
周は秘伝棋譜に両手を置き、腕を広げた。
「そんなに欲しいの?」
「いいよ」
「優奈が言っていたよ。こんなもの、君みたいな人間に触られた時点で汚れているから、もういらないって」
「今、返してあげる」
秘伝棋譜が今にも引き裂かれそうになるのを見て、喉が締めつけられ、血の味がこみ上げた。私は目を閉じ、ほとんど屈服するように彼に膝をついて頼みかけた。
そのとき、入口から聞き慣れた、けれどどこか遠い声がした。
「やめろ」
「それはお前のものなのか。その言葉を、そのまま返してやる」
私は入口を見上げた。逆光の中、高い背の男が立っている。
十年ぶりに、斉木蒼真が帰ってきた。彼は一歩ずつ会場へ入り、喧騒を押しつぶすほど冷たい声で言った。
「佐倉家のものに、誰が手を出せると思っている」
7.帰ってきた斉木蒼真
蒼真は私のそばまで来ると、身をかがめて床から私を起こした。彼の手はひどく安定していた。けれど掌が、一瞬だけ強くこわばった。
それから、彼は私を胸の中へ引き寄せ、広い肩でカメラも視線もすべて遮った。
「来た」
「泣きたいなら泣け。あとは俺がやる」
その言葉は、かつて私が彼に言ったものだった。十年前、斉木家が破産し、彼が東京を離れなければならなかった日。私は、同じように彼を抱きしめた。
あのとき私は言った。
「あなたには私がいる。泣きたいなら泣いて。あとは、これから考えよう」
今、彼はその言葉を私に返してくれた。
優奈が飛び出してきて、甲高い声を上げた。
「周は私のものよ! 私を好きだっていいじゃない。真実の愛は悪くない!」
蒼真は彼女の手から秘伝棋譜を抜き取り、淡々と一瞥した。
「俺が言っているのは、これだ」
「それから、そいつについては」
蒼真は私を抱き寄せたまま、冷えた声で続けた。
「ただのゴミだ」
「俺が戻ってきた以上、もう必要ない。璃茉の代わりに、お前にくれてやる」
優奈は怒りで言葉を失った。周は顔を青くしながら、彼女の前に立った。
「お前は誰だ」
「何の権利があって、ここで勝手なことを言う」
蒼真は笑った。口元は上がっているのに、目には少しの笑みもなかった。
「聞かれなくても、こちらから探すつもりだった」
次の瞬間、秘伝棋譜を奪い返そうと伸ばされた周の手首をつかみ、蒼真は一気に逆方向へひねった。周は痛みによろめき、秘伝棋譜は蒼真の手に戻る。
会場に悲鳴とざわめきが広がった。優奈が台下に向かって叫ぶ。
「蓮! 早く来て! 周がひどいことをされているのが見えないの?」
松永蓮はすぐに手を振り、数人の警備員を前へ出した。
「その男を押さえろ!」
「怪我をさせても俺が責任を取る」
観客の中から、蓮に気づいた声が上がった。
「あれ、松永家の御曹司じゃないか?」
「松永家って、最近軽井沢キャピタルとの提携を取ったんだろ。今の東京の財界で、松永家に逆らえる人間なんているのか?」
優奈は一気に自信を取り戻し、顔を押さえながら蓮の後ろへ下がった。周も手首を押さえ、冷笑する。
「英雄気取りか。相手を選んだほうがいい」
「そうか」
蒼真は袖口を軽く直した。
「なら、見せてもらおう」
警備員たちが先に動いた。蒼真には無駄な動きがなかった。受け流し、返す。ただそれだけで、彼は次々と相手を床へ押さえつけていった。
わずかな時間で、壇上には苦しげなうめき声だけが残った。蒼真は少し乱れた前髪を整え、私のそばへ戻ってくる。
「見えたか?」
「それとも、自分で試してみるか?」
蓮の顔色は悪かったが、まだ虚勢を張っていた。
「少し腕が立つだけで、調子に乗るなよ」
彼は優奈の横へ立つ。
「優奈、怖がらなくていい。父さんがすぐ来る」
優奈は目を輝かせ、私を見た。
「佐倉璃茉、今ここで跪いて謝れば、松永伯父様の前で少しはかばってあげてもいいわ」
蓮も得意げに言った。
「優奈は優しすぎる。父さんが来たら、こいつらを東京棋界から追い出してやる」
周はため息をついた。ようやく決心したような口調だった。
「璃茉、ここまで来たら、僕は君と別れるしかない」
「君に巻き込まれたくないから」
そうこうするうちに、会場の入口がざわめいた。松永蓮の父、松永誠司が到着した。蓮はすぐに駆け寄った。
「父さん、この二人が僕を侮辱したんだ!」
松永誠司は不機嫌そうな顔をしていた。背後には数人の助手が控えている。
「私はこれから、ここで軽井沢キャピタルの大切なお客様を迎える予定なんだ。棋院の記者説明会で騒ぎを起こしたのは誰だ?」
優奈も近づき、弱々しい声を作った。
「松永伯父様、この二人です。どうか私たちのために、公平に裁いてください」
松永誠司の視線が会場を一周し、蒼真の顔に止まった。その瞬間、彼の体が固まる。次の瞬間、信じられないという顔でサングラスを外した。
「斉木先生?」
「どうして先にお着きに……」
蓮が固まった。
「父さん、何をしているんだよ。こいつだよ。身の程知らずに僕に逆らって、周まで傷つけた男は」
松永誠司の顔の肉が、激しく引きつった。
「この馬鹿者!」
怒鳴り声とともに振り下ろされた平手は、蓮の頬に落ちた。優奈が目を見開く。
「松永伯父様、叩く相手を間違えていませんか?」
松永誠司はそのまま、彼女にも平手を入れた。
「お前のような女がそそのかしたから、蓮がこんな愚かなことをしたんだろう!」
彼は周へ視線を向けた。周は状況を理解できず、目を揺らしている。
「斉木先生の敵は、松永家の敵だ」
「そいつを連れていけ!」
周が反応する前に、松永家の警備員が彼を押さえつけた。
「斉木先生、愚息が目も利かず、先生と佐倉さんにご無礼を働きました」
松永誠司は笑顔を作り、額には冷や汗を浮かべていた。だが蒼真は彼を見もしなかった。彼は私を見下ろし、声を急に柔らかくする。
「終わった。行くか?」
私は手に戻ってきた秘伝棋譜を見て、それをそっと胸に抱いた。
「うん」
蒼真の顔にも、私と同じ慎重さがあった。彼は身をかがめ、私を抱き上げる。
「分かった。行こう」
私たちが去っていくのを見て、優奈が悔しそうに甲高く叫んだ。
「ちょっと! この女、画像加工でデマを流したのよ。こんなに汚い女でも好きなの?」
私は思わず笑いそうになった。
蒼真は足を止め、懐からもう一冊の秘伝棋譜を取り出した。
「投稿したのは俺だ」
「それと、お前が加工だと言っているものは――」
彼が扉を開くと、そこには佐倉家の家紋がはっきりと押されていた。暴露写真のものとまったく同じだった。
優奈はようやく、自分が二度とひっくり返せないところまで追い詰められたのだと悟った。力が抜けたように、その場へ崩れ落ちる。
蒼真はただ、淡々と彼女を見下ろした。
「さっき彼女に言ったこと、覚えておく」
8.周はいらない
帰りの車内は、少し静かだった。私は秘伝棋譜を抱きしめたまま、小さく口を開いた。
「ありがとう」
蒼真の、ハンドルを握る手がわずかに強張った。
「佐倉璃茉が、俺に礼を言うのか?」
車が急に止まった。
彼が身を乗り出して私を見る。顔はすぐ近くにあった。十年前とは違い、少年の柔らかさは消え、成熟した男の輪郭がそこにあった。
私は急に落ち着かなくなり、言い訳のように言った。
「今日は助けてくれて、ありがとう」
蒼真の眉間に、さらに苛立ちが宿った。それでも彼は、私のシートベルトを外してくれた。
そこでようやく、車が私の家の前に止まっていることに気づいた。
「降りろ」
「今日のことは礼を言う必要はない」
私が彼を見ると、蒼真はもう一言付け加えた。
「松永誠司と仕事の話をするために来ただけだ」
私は頷き、喉元まで出かかっていた言葉を飲み込んだ。
何事にも、終わりは必要だ。私は家の扉を開け、周へ電話をかけようとした。だがその前に、彼は勢いよく飛び出してきた。
「璃茉、やっと帰ってきたのか! あの男は誰だ?」
私は一歩下がり、彼の手を避けた。
「誰であろうと、あなたに報告する必要はないでしょう」
「私たちはもう別れた」
記者会見で彼が一方的に別れを告げたからではない。彼が私の家の秘伝棋譜を盗んだあの瞬間から、私はもう彼を見ることすらできなくなっていた。
「ちょうどいいわ」
「あなたの荷物をまとめて。この部屋は売る」
周は信じられないという顔で私を見た。
「売る?」
「ここは、僕たちが七年暮らした家だぞ!」
「私の家よ」
私は冷たく笑った。
「七年も住んだからこそ、見るだけで気分が悪い」
周は目を見開いた。私がそんなことを言うとは思っていなかったのだろう。
「分かった。佐倉璃茉、お前がそう言うならいい。僕は優奈のところへ行く」
「あとで泣いて頼んでも、もう戻ってこないからな」
彼が電話をかけるより早く、優奈からの着信が入った。
「周、私の優勝資格が取り消されたの。スポンサー契約も切られた。どうしたらいいの?」
周は慰めようとしたが、スマホ画面を見た瞬間、顔色を変えた。
「君は何をした? 僕の大会運営の仕事まで取り消された」
私は腕を組んだ。あれだけ棋院の記者説明会で騒ぎを起こしておいて、誰が彼らを信用するというのだろう。
優奈はますます泣いた。
「周、蓮に頼んで。松永家に助けてもらって」
周はすぐに言った。
「優奈、心配しないで。今すぐ蓮に連絡して、責任を取らせる」
電話の向こうから、優奈のさらに崩れた声が聞こえた。
「蓮はもう、お父さんに家に閉じ込められているの!」
周が私を見る目が変わった。
「これも、あの男の仕業か?」
私はおかしくなった。ここまで来ても、彼は自分に非があるとは思っていない。
「あなたがあの男をけしかけたのか?」
「浮気したうえに、その相手を連れ戻して僕を陥れるなんて」
周は失望したような顔をした。
「璃茉、いつからそんな人間になったんだ」
もう彼を見ているのも面倒だった。私はスマホで部屋の写真を撮り、不動産会社へ送った。
「できるだけ早く出ていって。期限を過ぎたら、この地域の相場で使用料を請求する」
周は私を二秒ほど見つめると、突然駆け寄ってきて私を抱きしめた。
「何をするの。離して!」
「璃茉、こんなことをして、僕の気を引きたいだけだろ」
「成功したよ」
彼は私の抵抗を無視し、押さえつけてキスしようとしてきた。
「これから少し優しくしてやればいいんだろ?」
「ただし、優奈のほうまで騒ぎを持ち込むなよ。今の彼女は刺激に耐えられない」
こんな男に触れられることさえ嫌で、私は必死に彼を押し返した。けれど周は私をソファへ押し倒し、当然のような口調で囁く。
「今さら何を拒んでいるんだ」
「僕たちの間に、寝れば解決できない問題なんてないだろ」
私は屈辱で顔を背けた。
「神谷周。私に触れたら、絶対に許さない」
「いいよ」
彼は冷笑した。
「どう許さないのか、見せてもらおうか」
絶望して目を閉じた。次の瞬間、体の上の重みが消えた。
「なら、よく見ておけ」
蒼真の声が入口から響いた。彼は周を蹴り飛ばした。周が起き上がろうとすると、今度は床へ押さえつける。
「僕を殴ったな! 暴力は犯罪だぞ!」
蒼真は冷たく見下ろした。
「なら通報しろ」
私は呆然と彼を見た。
「どうして戻ってきたの?」
蒼真は目を伏せた。その瞳には、深い自責があった。
「一人で上がらせるべきじゃなかった」
彼の手はかすかに震えていた。さっき周を止めたときは、瞬き一つしなかったのに。胸の奥が揺れ、私は手を伸ばして彼の手を握った。
「蒼真、ありがとう」
彼の顔が険しくなる。
私は続けた。
「ありがとうって言ったのは、まだあなたがいてくれてよかったと思ったから」
蒼真は重なった私たちの手を見つめ、ひどく衝撃を受けたようだった。
「璃茉、俺は本当は……」
「この不倫女ども!」
部屋の隅で、周が突然起き上がった。鼻血を出し、顔を腫らしながら私たちを睨む。
そのとき、開け放たれた玄関から優奈が飛び込んできた。けれど彼女が向かったのは周ではなく、私だった。
「佐倉さん、私が悪かったんです」
「許してください!」
周の表情に一瞬喜びが浮かびかけ、すぐに凍りつく。
「優奈、やっと――」
優奈は私の前に跪き、彼には目もくれなかった。
「佐倉さん、今までの私は本当に子どもでした」
「棋院の調査委員会に話して、私の出場資格を戻してもらえませんか」
彼女の取り乱し方は、この七年とはまるで別人だった。けれど私はよく分かっている。彼女は反省したのではない。ただ、怖くなっただけだ。
「璃茉さん、私にできることなら何でもします」
「優勝も周も、全部返します」
周は、彼女がそんなことを言うとは信じられないようだった。けれど優奈は、彼を見もしない。
「優勝は、もともと私のものよ」
「周については――」
私は首を横に振った。
「いらない」
優奈は一瞬呆然とし、すぐに首を振った。
「遠慮しないでください」
「今回は本当に、周をあなたに返すって決めたんです」
優奈も、周も、私が本当に周をいらないと思っていることを信じるのが難しいらしい。
私と蒼真の手は、まだ離れていなかった。私はその手を少しだけ上げた。
「今の私が、まだ彼を欲しがると思う?」
優奈は全身から力が抜けたように、その場に崩れ落ちた。周はよろめきながら立ち上がる。
「佐倉璃茉、本当にここまで醜くするつもりか?」
「後悔するぞ」
私は蒼真の手を引いて外へ向かった。
「機会はあげたわ」
「荷物、忘れずにまとめてね」
背後から周の怒鳴り声と優奈の泣き声が聞こえた。けれど、私は振り返らなかった。
9.配信で自爆
蒼真が用意してくれた仮住まいに着くと、すぐに一つの配信通知が届いた。
タイトルは、こうだった。
【七年の純愛を裏切られた囲碁女神、第三者に陥れられる】
周はカメラの前に座っていた。顔の傷は、私たちが出ていったときよりもさらにひどく見える。彼はかすれた声で話し始めた。
「皆さん、こんにちは。神谷周です。佐倉璃茉の元恋人です」
「僕と璃茉は七年愛し合ってきました。ずっと、最後まで一緒にいると思っていました」
「でも彼女は、僕を裏切っただけでなく、優奈まで陥れたんです」
優奈は隣に座り、頼りなさそうに口を開いた。
「周の言うとおりです」
「私は周と幼いころから棋院の道場で一緒に育ちました。佐倉さんは、ずっと私に嫉妬していたんです」
周はスマホを取り出し、私との写真を画面に見せた。
「佐倉璃茉、本当に残酷だね」
「七年の想いが、君にとってはそんなに軽いものだったのか?」
悔しいけれど、二人の演技はそれなりに人を騙せるものだった。
コメント欄はすぐに荒れた。
【え、佐倉璃茉ってそんな人だったの?】
【斉木蒼真も怖すぎる。人を殴っていいわけないだろ】
【優奈ちゃんかわいそう。濡れ衣を着せられて、優勝まで失って】
優奈と周は顔を見合わせ、今度は子どものころの古い写真を出した。
「私たちは小さいころ、いつか一緒に棋界の頂点に立とうって約束していたんです」
「佐倉さんが私たちの間に入り込まなければ、私たちはとっくに一緒にいられたのに」
そのとき、配信画面に大量の反論コメントが流れ込んできた。決定的だったのは、周が秘伝棋譜を渡したと認める録音だった。同じタイミングで、蒼真からメッセージが届く。
「任せろ」
録音の中で、周の声ははっきり響いていた。
【秘伝棋譜は僕が優奈に渡した】
【彼女の誕生日だったんだ。この優勝は、君からのプレゼントということにすればいい】
コメント欄は一気に反転した。
【反転来た! 盗んだのは朝倉優奈のほうじゃん!】
【神谷周、気持ち悪すぎる。彼女の家の秘伝棋譜を他の女に渡して、逆に彼女を悪者扱い?】
【さっきまでかわいそうだと思ってたけど、完全に自業自得】
【佐倉璃茉と斉木蒼真を支持する。こういう最低な男女は晒されるべき】
ネットの空気は完全に変わった。
配信画面は、周と優奈への罵倒で埋め尽くされていく。
【泥棒!】
【他人の家の秘伝棋譜で優勝しておいて、被害者面?】
【早く棋界から消えてほしい。見ているだけで不快】
優奈は慌てて言い訳した。
「違うんです」
「これは全部、偽造です」
周はカメラへ向かって叫んだ。
「みんな斉木蒼真に騙されている!」
「あいつは詐欺師だ。佐倉璃茉だって――」
言い終える前に、配信はプラットフォーム側から強制的に切断された。
理由はこう表示された。
【誹謗中傷およびネット攻撃の扇動に該当するため、配信を停止しました】
私はつまらないものを見るようにスマホを置いた。
蒼真から、またメッセージが届いた。
「会えるか?」
同時に、不動産会社から内見予約の連絡も届いた。
私は少し考えてから返信した。
「内見が終わったら会う」
10.二人は私を焼き殺そうとした
私は扉を開け、見慣れた部屋の中を見て、ふと笑いたくなった。
七年。私は今日になってようやく、自分がいちばん信じていた恋人を、どれほど知らなかったのか思い知った。私は内見予約の相手へ電話をかけた。
「もしもし、もう到着されていますか?」
次の瞬間、玄関ドアの外側で何かが固定される音がした。工具かワイヤーで細工されたらしく、内側からノブを回しても開かない。周の声が扉の向こうから聞こえた。
「とっくに着いていたよ」
「ずっと待っていたんだ」
私は胸が冷たくなり、慌てて扉を叩いた。
「周! 正気なの?」
「もう正気じゃないよ」
優奈の声も外から聞こえてきた。歯を食いしばったような憎悪がこもっている。
「佐倉璃茉、全部あなたが悪いのよ」
周が冷たく笑った。
「僕と優奈は、今じゃ街中から嫌われ者だ」
「君だけ幸せになれると思うな」
扉越しでも、二人の狂気は伝わってきた。
私は力いっぱい扉を蹴った。
「何をするつもりなの?」
「蹴っても無駄だ」
周の声には、むき出しの悪意があった。
「今回は前みたいに甘くない。斉木蒼真が入れる隙なんて残していない」
「優奈、まけ」
「今日こそ、中で死んでもらう」
すぐに、鼻を刺すガソリンの臭いが扉の隙間から流れ込んできた。心臓が一瞬で底まで沈んだ。彼らは私をこの部屋に閉じ込め、焼き殺すつもりなのだ。
私はすぐに警察へ通報し、同時に蒼真へメッセージを送った。
「来ないで。警察を呼んで」
「周と優奈が火をつけようとしている」
こんな狂人たちは、法律に裁かれるべきだ。だがメッセージを送ったあと、外は妙に静かになった。次の瞬間、ライターを擦る短い音がした。
周が満足そうに扉を叩いた。
「佐倉璃茉、中で死ぬのを待っていろ」
火の回りは想像よりずっと早かった。濃い煙がすぐ部屋に流れ込み、私は濡らしたタオルで口と鼻を押さえながら、できるだけベランダへ近づいた。
耐えろ。絶対に耐える。私はようやく、自分の優勝と尊厳を取り戻したばかりだ。警察と消防が来るまで耐えれば、すべて終わる。
でも、本当に耐えられるのだろうか。煙で涙が止まらず、意識が少しずつ沈んでいく。いつの間にか、スマホも床に落ちていた。
私は歯を食いしばって立ち上がり、玄関へ体当たりした。扉はびくともしない。そして私の力も、最後の一滴まで尽きた。体が少しずつ床へ滑り落ちていく。
意識が暗闇へ沈みかけたそのとき、ベランダのガラスが外側から砕かれた。
「璃茉!」
煙で何も見えなかった。けれど、蒼真の顔だけは見えた。彼は全身傷だらけだったが、私をしっかり抱きとめた。
その腕の中は、あまりにも安心できた。私はようやく力尽き、意識を失った。
もう一度目を開けたとき、火はまだ完全には消えていなかった。私は蒼真の腕の中にいて、彼は私を強く抱きしめていた。まるで、次の瞬間には私が消えてしまうと恐れているように。
「蒼真」
声はひどくかすれていた。
「私、大丈夫」
彼の体には大小の傷がいくつもあった。隣室のベランダから非常用隔壁板を破って入ってきたときについたものだろう。幸い、火傷はなさそうだった。
「病院に行こう?」
彼は唇を引き結んだ。
「二人を待つ」
ほどなくして、人が慌ただしく駆け寄ってきた。
「斉木先生、人は確保しました」
周と優奈が連れてこられ、地面へ乱暴に突き倒された。二人は狼狽した顔で、私と蒼真を見上げた。
周が思わず叫んだ。
「佐倉璃茉、どうして死んでいないんだ?」
蒼真の拳が固く握られ、目が凍るように冷たくなる。
「なぜ、俺が彼女を死なせると思った?」
優奈は全身を震わせ、甲高い声を上げた。
「ちゃんとドアを開かないようにしたのに。火もつけたのに」
「なんで生きているの?」
「なんで死ななかったのよ!」
周と優奈は悔しそうにもがいたが、すぐに押さえつけられた。周は半ば錯乱したように、私へ罵声を浴びせ続けた。優奈は一方で、完全に怯えきっていた。
「嫌、刑務所なんて嫌」
「佐倉さん、許してください!」
「全部、神谷周にやらされたんです!」
「覚えてますよね? 昔、囲碁道場では私たち、仲がよかったじゃないですか」
もちろん覚えている。あのころ、周は言った。優奈は彼のいちばん大切な友だちだと。その言葉のために、私は心から彼女に優しくした。
けれど返ってきたのは、容赦ない裏切りだけだった。
今となっては、もうどうでもよかった。周は信じられないという顔で優奈を見た。
「この女! お前さえいなければ、僕と璃茉はうまくいっていたんだ!」
「全部お前が僕を誘惑したせいだ!」
私は、醜く歪んだ周の顔を見つめた。かつて胸をときめかせた面影は、どこにも残っていなかった。二人は互いに責任を押しつけ合い、感情を高ぶらせ、ついには拘束を振りほどいて殴り合い始めた。
けれどすぐに、駆けつけた警視庁の警察官によって引き離された。防犯カメラ映像、ガソリン購入記録、玄関ドアに残った細工の跡、そして放火現場の証拠はそろっていた。二人が問われるのは、放火未遂だけではない。殺人未遂と監禁も加わる。
蒼真は二人が連行されるのを見ながら、どこか惜しそうな顔をした。それから、私の手を握る。
「行こう。病院へ」
陽の光の下で、私は彼の横顔を見つめた。ふと、若いころの夏に戻ったような気がした。あのころ蒼真は私の手を引いて走り、棋院の外の桜の木を風が揺らし、少年だった彼は陽だまりのようにまっすぐ笑っていた。
私はその手を握り返した。
「じゃあ、早く元気になってね」
「私、あまり長く待つのは好きじゃないから」
蒼真は急に走り出した。声を上げて笑っている。
「もう全快している」
私は彼に手を引かれ、前へ走った。今度こそ、振り返らなかった。背後にあるのは、焼けた古い家、盗まれた七年、そして終わるべきすべての過去だった。
前にあるのは、ようやく私が取り戻した人生だった。
――完――




