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魔獣の巨大な前脚が振り下ろされる瞬間、リナは反射的に叫んでいた。
「ハル――っ!!」
土煙が舞い、空気が圧迫される。
普通なら、その一撃を前にして立っていられる人間はいない。
けれど。
「おっと……」
ハルは一歩、ほんの少しだけ横へずれた。
それだけで、魔獣の爪は空を切り、地面を深くえぐる。
轟音とともに畑の土が抉れ、作物が宙を舞った。
「うわぁ……畑、すごいことになってる……」
「感想そこなの!?」
リナは思わずツッコミを入れつつも、視線はハルから離せない。
魔獣の一撃を、まるで散歩中に飛んできた枝を避けるかのようにかわした、その動きが信じられなかった。
魔獣は一瞬動きを止め、こちらを睨みつける。
低く唸る声が腹の底から響き、威圧感が周囲を包んだ。
「ねぇ……君、ちょっと落ち着こ?」
ハルは両手を軽く上げ、敵意がないことを示すような仕草をする。
「がおおおおおおっ!!」
「やっぱり無理だよね!」
咆哮と同時に、魔獣が再び突進してくる。
リナは歯を食いしばり、武器を構えた。
「ハル! 一人でやろうとしないで! 私も――」
「大丈夫! リナは下がってて!」
その声は、妙なほど落ち着いていた。
ハルは前に出る。
地面を蹴る音は軽く、それでいて確かだった。
魔獣の巨体が迫る。
影が完全にハルを覆い、視界が暗くなる。
「……よいしょっと」
その言葉と同時に、ハルの掌が魔獣の胸元に触れた。
叩いたわけではない。
殴ったわけでもない。
ただ、押しただけだった。
次の瞬間。
魔獣の巨体が大きくのけぞり、足元の土をえぐりながら後方へと吹き飛ばされる。
「………………え?」
リナの口から、間の抜けた声が漏れた。
どさり、という鈍い音を立てて、魔獣は畑の外れに転がる。
土煙が晴れると、魔獣はしばらく起き上がれずにいた。
「い、今の……なに……?」
「うーん……ちょっと力入れすぎたかな……?」
「ちょっとであれなら、全力はどうなるのよ……」
リナは震える声で呟いた。
その間にも、先ほどまでハルを囲んでいた狼型魔物たちは、完全に戦意を失っていた。
低い鳴き声を上げながら、魔獣をちらりと振り返り、森の奥へと逃げ出していく。
「……あ、逃げた」
ハルはほっとしたように肩を落とした。
「よかった……これ以上ケガ人出なさそうだね」
「よかったで済ませる規模じゃないわよ!!」
リナは思わず叫び、すぐにハルの胸ぐらを掴んだ。
「ねぇ! 本当に無茶しないでって言ったでしょ!?」
「えっ、無茶だった?」
「無茶の極みよ!!」
怒鳴りながらも、リナの手は微かに震えていた。
それに気づいたハルは、きょとんと目を瞬かせる。
「……もしかして、心配してくれた?」
「当たり前でしょ!!」
リナは顔を真っ赤にして言い切った。
「あなたがケガしたらどうするのよ!旅、まだ始まったばっかりなんだから……!」
「……ごめん」
ハルは素直に頭を下げた。
「でも、ありがとう。
心配してくれる人がいるの、すごく心強い」
その言葉に、リナは一瞬だけ言葉を失い、ぷいっと顔を背けた。
「……そういうの、さらっと言わないで」
「?」
「もう……」
「???」
戦闘後魔物たちが森の奥へ逃げ去り、畑に静けさが戻ったあと、ハルの頭には大量の疑問符が浮かんでいた。
◆
ハルは倒れて動かなくなっている狼型魔物たちを見渡していた。
「うーん……」
「……なに、その嫌な間」
リナが警戒する。
「ねぇリナ。このまま置いて帰るの、もったいなくない?」
「……は?」
リナは一瞬、意味がわからないという顔をした。
「だってほら、これ魔物でしょ?毛皮とか、牙とか……村で使えるかもしれないし」
「そっちの意味!?」
「うん! 村の人たち、畑も荒らされてるし、少しでも足しになればいいなって」
リナは呆然と魔物とハルを見比べたあと、深くため息をついた。
「……あんた、戦闘後の発想が生活者すぎるのよ……」
「そう?」
「そう!!」
とはいえ、言っていることは間違っていない。
村にとっては、魔物の素材は貴重な資源だ。
「……私たちだけじゃ運べないでしょ。とりあえず1匹持ち帰って、村から人手を借りましょ」
「大丈夫!」
ハルは満面の笑みを浮かべる。
無力化していた魔物のうち、状態の良いものを数匹選び、ハルが軽々と担ぎ上げることになった。
「ちょっと待って……それ、一人で持つ量じゃないでしょ……」
「え? 軽いよ?」
「おかしいわよ!!」
リナが叫ぶ横で、ハルは魔物を肩に担ぎ、もう一匹を腕に抱える。
「よし、じゃあ帰ろっか!」
「ちょっとした買い出し感覚で言わないで!!」
村へ戻る途中、松明の灯りを持った村人たちがこちらに気づき、ざわめきが起こった。
「お、おい……!」
「あれ……魔物じゃないか!?」
「倒したのか!?」
「こんばんはー!」
ハルは元気よく手を振った。
「畑を荒らしてた魔物です!もう大丈夫ですよ!」
「……大丈夫どころか……」
村人たちは、ハルが担いでいる魔物を見て言葉を失った。
「こ、こんなものを……一人で……?」
「いえ、リナも一緒に!」
「いや私は指示しただけだから!!」
リナは即座に否定する。
村に到着すると、事態を察した村人たちが一斉に集まってきた。
「畑は……?」
「作物は……?」
「被害はありますけど、これ以上は大丈夫です!」
ハルは笑顔で答えた。
「それに、魔物の素材、村で使ってください。毛皮も肉も、きっと役に立つと思います!」
「まだ、畑の方に残っています。村の人手を貸していただけますか?」
その言葉に、村人たちは目を見開いた。
「…………」
「俺が行くぜ!」
「まてまて運ぶなら荷車が必要だろ!」
「男連中集めてこい!!!」
沸き立つ村人達を背に村長が震える声で言う。
「本当に……なんと礼を言えばいいか……」
「いえいえ! 旅の途中ですし!」
あくまで軽い調子のハルだった。
用意された家で休むことになり、暖炉の火が灯る。
「……正直、助かったわ」
リナが小さく呟く。
「魔物を追い払っただけじゃなくて、村の人たちの生活のことまで考えてたんだもん」
「え? 普通じゃない?」
「普通じゃないから困ってるの!!」
そう言いながらも、リナの声は少し柔らかかった。
スープを飲み、身体が温まったあと、村長から森の話が出る。
地面が崩れた洞穴。
妙な気配。
魔物たちが追い出された理由。
「やっぱり……森の奥が原因っぽいね」
「ええ。だから、明日様子を見に行く必要がある」
「もちろん一緒に行くよ!」
「当たり前でしょ」
夜。
寝床に腰を下ろしながら、ハルはぽつりと言った。
「今日さ……魔物、怖かった?」
「……ちょっとね」
「でも、ちゃんと一緒にいられてよかった」
リナは少し黙ってから、静かに答えた。
「……ええ。あんた一人だったら、絶対無茶してた」
「それは否定できない!」
二人は小さく笑う。
畑は守られ、魔物は持ち帰られ、村に少しの余裕が生まれた。
だが問題の根は、まだ森の奥に残っている。
それでも、ハルの表情は明るかった。
「よし。明日は森探検だね!」
「探検じゃないから」
そんなやり取りを交わしながら、二人は静かな夜に身を委ねた。




