5
翌朝。
宿屋の窓から差し込む陽光はまぶしく、昨日の出来事がまるで夢のように思えるほど穏やかな朝だった。
「ん〜〜……よく寝たぁ……!」
ハルは伸びをしながらベッドから起き上がった。
昨日は魔物を倒し、子供を救い、守備隊にまで歓迎され、夕飯のあとも宿屋の人たちから礼を言われ、まるで英雄のように扱われてしまった。
しかしハル自身はそんなつもりはまったくない。
ただ、困っている人を助けただけだ。
そんな彼にとって、今日もまた“普通の日”だ。
「よし、散歩しよっと!」
軽く朝食を食べ、荷物をまとめると、ハルは町へ繰り出した。
◆
朝の通りは活気にあふれていた。
露店の商人たちが店を開き始め、焼きたてのパンや果物の香りが風に乗って漂う。
昨日すれ違った人たちが、何人もハルに手を振った。
「お兄さん、おはよう!」
「昨日はすごかったよ!」
「うちの子がずっと“ハルお兄ちゃん”の話してるよ!」
「あ、ありがとうございます〜!」
褒められるたびにハルは照れながら笑う。
だが、その柔らかい笑みがまた、周囲の好感度を上げてしまう。
「すごいわねぇ……もう町の人気者じゃないの」
「ほんとだよ、あの子いい子そうだし……」
そんな声が聞こえてくるたび、ハルの頬はずっとゆるみっぱなしだった。
そんな中、
「――あっ……!」
ふと、通りの先で小さな悲鳴が聞こえた。
昨日とは別の少女。
年齢は12〜13歳ほど。
両手に抱えていた果物の籠を落としてしまったようで、リンゴがコロコロと転がっていく。
「わ、わわ!」
「大丈夫?」
ハルは駆け寄り、逃げていくリンゴを器用に拾い集めた。
「これ、持ってて!」
「えっ、ありが……と……」
少女が驚いたように目を丸くする。
ハルはしゃがみ、少女と同じ目線になるように視線を合わせた。
「どうしたの? 手、滑っちゃった?」
「う、うん……あの、ちょっと考え事してて……」
「悩み事?」
少女の肩がピクリと震えた。
どうやら図星らしい。
「……お母さんの薬代が足りなくて……お店の手伝いで果物売ってるんだけど……あたし、うまくできなくて……」
小さな声で、少女はぽつりと打ち明けた。
「そっか……つらかったね」
ハルは自然と声を優しくした。
少女の瞳が潤んでいく。
「でも、がんばってるね。すごいよ」
涙がぽろりと落ちた。
その時――
「おい! そこのガキ! また仕事サボってんじゃねぇ!」
乱暴な声が響いた。
大きな体の男が、通りの向こうから歩いてくる。
店の主人らしく、エプロンをつけていたが、顔つきは険しい。
「す、すみません……!」
「謝ればいいと思ってんのか! 売上落ちたらどうすんだ! ったく、昨日も――」
「あ、あの!」
ハルが手をあげて割って入る。
「少女さん、転んじゃったんで助けてただけですよ!」
「……なんだお前は?」
店主はハルをねめつけるように見た。
しかし次の瞬間、目が見開かれる。
「……あんた……昨日の……」
「え?」
「魔物倒したって噂の……! “ハル”ってやつか!」
「あ、あはは……そうですけど……」
「す、すまねぇ!!」
店主は勢いよく頭を下げた。
周囲も「またハルだ!」とざわめき始める。
「おいおい……支店長、態度が180度変わったぞ……」
「ハルってマジですごいやつだったのか……」
「昨日の子供の話も聞いたぞ……!」
町人たちの視線が一気に集まる。
少女はキョトンとした顔でハルを見つめ、震える声で言った。
「お兄さん……英雄なの?」
「えぇぇ……違うよ!!」
ハルは全力で否定した。
しかし、もはや説得力はゼロである。
「と、とにかく! この子を責めないであげてください! がんばってるみたいですし!」
「そ、それは……わかった……! 今日は休ませるから……!」
「ありがとうございます!」
ハルが頭を下げると、店主はさらに恐縮したようにぺこぺこした。
少女は目を潤ませながら、ぎゅっとハルの服をつまむ。
「……ありがとう……」
「うん! 元気出るといいな!」
頭をぽんぽんと撫でると、少女は恥ずかしそうに笑った。
◆
「……ふぅ」
ひと段落して歩き出そうとしたその時、横からぱたぱたと足音が近づく。
「あなたが、ハルさん?」
「え?」
振り返ると、警備隊の若い兵士が駆け寄ってきた。
「隊長が呼んでます! すぐに来てほしいと!」
「えぇ!? なになに!? なんかした!?」
「悪いことじゃありません! 昨日の件で“正式に感謝状を渡したい”って……!」
「えっ、感謝状!? そんな大それた……!」
「いえ、本当に大ごとなのです!!」
兵士は真剣そのもの。
ハルは頭を掻きながら、苦笑した。
「……なんか、ぼく、昨日からずっと褒められてる……」
「そういう人なんですよ!」
「そ、そうなの……?」
「そういう人なんです!!」
「断言された……!?」
兵士に押されるようにして、ハルは守備隊の詰め所へと向かった。
昨日も来た場所だが、今日はどことなく空気が違う。
入口前には、なぜか町の人たちが集まり、ざわざわと談笑していた。
「おい、あの青年が来たぞ!」
「本当に呼ばれてる……やっぱり英雄として扱われてるんじゃ……?」
「守備隊長が自ら呼びに行ったって噂の……あの……!」
「えぇぇ……なんか大ごとになってない?」
ハルは頬をひくつかせた。
兵士が扉を押して中に入ると、そこには昨日以上に整然と並んだ隊員たちがいた。
全員が一斉に姿勢を正し、ハルを迎える。
「――風間ハル殿、到着!!」
「ハル殿って言われた!? 殿ってなに!?」
ハルの動揺は置き去りにされ、隊員たちの声が室内にこだまする。
「敬礼ッ!!」
全員の手が一斉に胸に添えられる。
重厚な空気に圧倒され、ハルは思わず背筋を伸ばしてしまう。
そんな中、隊長――ガルドンがゆっくりと前に進み出た。
「ハル。来てくれて嬉しい。」
「は、はい……なんかすごい勢いで呼ばれたので……」
「あぁ、すまない。昨日の件もあるが……今日は正式な“感謝”を届けたかったのだ。」
隊長は深く息を吸い、胸を張った。
「風間ハル殿。あなたの行動により、我が町の子供一名の命が救われた。その他、商人ゴドンの救助、少女の財布の保護など、一連の善行はいずれも町の平穏を守るものである。」
「え、いや……そんな……普通のことを……!」
「普通ではない!」
その言葉は詰め所全体に響いた。
「人は危険の前では逃げるのが自然。魔物を前にしてなお飛び込み、子供を庇い、冷静に怪物を排除できる者がどれほどいると思う?」
「いや、でも……反射で……」
「その“反射”が常人ではないのだ!!」
「えぇぇぇぇぇ……」
ハルは完全に困惑していた。
しかし隊長はさらに続ける。
「我々守備隊は、あなたがこの町の安全に貢献したことを高く称える。」
ガルドンは机に置かれた羊皮紙を取り、ハルの前に進み出た。
「これが……感謝状だ。」
「か、感謝状……!」
羊皮紙には、守備隊長の署名と隊員たちの名が並び、丁寧な筆致でこう記されていた。
『風間ハル殿は、この町における善行と勇敢なる行動により、町民から深い感謝を受ける。
よって当隊はここに“友好証”を授与する。
これからもあなたの旅路に幸多からんことを。』
ハルは言葉を失った。
胸がじんわりと熱くなる。
「……ぼく……こんな……立派なもの受け取っていいんですか……?」
「当然だ!」
隊長は真剣な目で頷く。
「これはあなたが、この町にとって“友人以上の存在”だと証明したものだ。」
「友人……以上……?」
ハルの声は震えていた。
日本にいた頃。
困っている人を助けても、ここまで感謝されることなんてなかった。
むしろ損したり、嫌な顔をされたことさえある。
でも、この世界では――
“ありがとう”と心から言ってくれる人たちがいる。
「……うれしい……」
ぽつりと呟いた。
その瞬間、隊員たちがざわついた。
「なんて純粋な……」
「この青年……尊い……」
「泣く……」
「泣かないでください!?」
ハルは慌てて両手を振る。
「よし、ではこれからは我々の詰め所は、いつでもハルの帰る場所だ!」
「帰る場所……?」
また胸が温かくなる。
日本で孤独を感じたわけではないが、こうして受け入れてもらえるのは何より心地よかった。
「さて、堅苦しい挨拶はここまでだ!」
隊長が手を叩いた。
「宴だ!!」
「宴!?」
「ハル殿の功績を祝って、昼食会を開くぞ!!」
「ま、またご飯……!?」
隊員たちが歓声をあげ、すでに料理を運ぶ準備を始めている。
「昨日より豪華にするぞー!」
「肉を焼け!」
「酒も出せ!」
「いや昼から酒は……!」
「今日は特別だ!!」
「ちょっ……本当になんか大ごとになってる……!」
ハルは混乱しながらも、どこか嬉しさが止まらなかった。
◆
昼食会は想像以上に盛大だった。
テーブル一面に料理が並び、隊員たちが楽しげに笑い、歌い、時にハルに絡み……。
「ハル殿、剣の訓練興味ありませんか!」
「魔物の倒し方教えてください!」
「旅の目的は!? 好きな食べ物は!? 恋人は!?」
「質問が多い!!」
「いやぁ、ハル殿が気になるんです!」
「そうだ! 今後どこへ行くつもりです?」
「えっと、のんびり旅を……」
「そうか……だが、我々はいつでも歓迎するぞ!」
「道中で困ったら戻ってきてくれ!」
「うちに住んでもいいぞ!」
「住むのはちょっと!!」
笑い、盛り上がり、食べ、語らい……。
気づけば数時間が過ぎていた。
やがて宴が終わり、隊員たちに見送られて詰め所を出たハルは、広場で深呼吸をした。
「……はぁ……すごい一日だった……」
昨日も濃かったが、今日も負けず劣らずの密度だ。
「みんな優しくて……本当に、ありがたいなぁ……」
空を見上げると、青空が広がり、白い雲がゆっくり流れていく。
(あぁ……異世界って……いい場所だな)
そう心から思えた。
だが――
この和やかな時間の裏で、町の噂はさらに過熱していた。
『ハルは守備隊長クラスの実力があるらしい』
『いや、国の精鋭部隊に引き抜かれるかもしれない』
『魔物を掌底一撃だと!?』
『あれはもう英雄では……?』
そして、その噂はついに――
町の外にまで広がり始めていた。




