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翌朝――。
柔らかな日差しが窓越しに差し込み、ハルの頬に温かさを落としていた。
ふかふかの布団に包まったまま、ハルはしばらく天井をぼんやり眺めていた。
「……ぐっすり寝たぁ……」
異世界初日の緊張感がほぼ皆無だったせいか、睡眠の質はここ数ヶ月で最高だった。
布団から身を起こすと、木材の匂いとパンの焼ける香りが漂ってくる。
「あ、これは……絶対美味しいやつ!」
ハルは反射的に部屋を飛び出し、食堂へ向かった。
食堂では朝の準備がすでに整っていた。
香ばしいパン、具だくさんのスープ、軽く焼いた野菜、香り高い温かな茶。
どれも素朴だが、健康的で、温かみのある雰囲気を漂わせている。
「お、ハルさん! おはよう!」
宿屋の主人が大らかな笑顔で手を振る。
「おはようございます! いい匂いすぎて飛んできました!」
「ははは! 座って座って!」
テーブルにつくと、主人は次々に料理を運んでくれた。
「昨日のゴドンさんから、全部あんたに出してくれって頼まれてんだよ。ありがたい話だな!」
「本当に……お世話になりっぱなしだなぁ……」
いただきます、と軽く頭を下げ、スープを口に運ぶ。
「……うまぁ……!」
まろやかな塩気と野菜の甘さが口いっぱいに広がり、胃の奥からじんわりと温かさが湧き上がる。
パンも外はパリッ、中はふんわり。
朝食だけで、この町への好感度が急上昇してしまう。
「しかしハルさん、今日からどうするんだい? 旅を続けるのか?」
「そうですね〜。せっかく異世……ここに来たんで、まずは色々見てまわりたいです!」
「はは、いいねぇ。旅人らしいや!」
主人との会話はどこかほのぼのしていて、心地よかった。
ひとしきり食事を楽しんだあと、ハルは宿を出た。
町には朝の活気が満ちていた。
露店が開き始め、商人たちは元気よく呼び声をあげ、子供たちは走り回っている。
「おはようございます!」
「昨日の青年だ!」
「魔物倒したんだって?」
「すごいねぇ!」
通りを歩くだけで、人々から声をかけられた。
「へへ……おはようございます!」
照れながらも嬉しそうに返す。
これだけフレンドリーな町は、異世界だろうと関係ない。
そんな時――。
「――きゃっ!」
通りの向こう側で、小さな悲鳴が上がった。
ハルは反射的にそちらへ視線を向ける。
そこには、買い物袋を落としてしゃがみ込んでいる少女がいた。
年の頃は十歳ほど。服からして、町の子供だろう。
「どうしたの?」
ハルは駆け寄り、落とした袋を拾いながら声をかける。
「あっ……ご、ごめんなさい……」
「謝らなくていいよ! 怪我はしてない?」
「う、うん……大丈夫……」
安堵したように少女は頷いた。
しかし次の瞬間――
「あっ……お財布がない……!」
少女の顔が青ざめた。
「さっきここに入れてたのに……!」
少女の小さな手が震えていた。
「落ちたの?」
「わかんない……気づいたら、無くて……」
ハルはしゃがみ、少女と視線を合わせた。
「一緒に探そう。心配しなくていいよ!」
少女が少しだけ安心したように見えた、その時。
「……ん?」
通りの向こう。
人混みの中で、誰かが足早に歩き去るのが見えた。
その手には――小さな革財布。
「あっ……」
少女が呟くより先に、ハルは声を上げた。
「見つけた! ちょっと行ってくるね!」
「えっ!?」
ハルは軽い走り出しから、一気にギアを入れた。
身体が羽のように軽くなり、地面を蹴る度に進む速度が加速する。
「うぉっ!? は、速ぇ!?」
周りの人が驚き声を上げる。
スリと思われる男は、振り返って目を見開いた。
「なっ……なんで追ってくる……!?」
男はさらに速度を上げるが、ハルにとってはお散歩レベルだ。
「おーい! 待ってぇぇ!!」
「追いつく気満々じゃねぇか!?」
男は慌てふためきながら路地へ。
ハルも迷わず追いかけ――
「そいっ!」
路地をショートカットし、男の進路へ一足先に移動。
予想外の先回りに男は棒立ちになった。
「……え?」
「こんにちは!」
「いやこんにちはじゃねぇ!!」
驚く男の腕を、ハルは軽く掴んで財布を取り返した。
男は暴れようとしたが、ハルの力には勝てず観念した。
「悪いことはやめようね! うん!」
「な、なんなんだあんたぁぁ……!」
男は泣きそうな顔で警備隊の方へと連行されていった。
そして。
「……あ、あのっ!」
少女が駆け寄り、ハルにしがみついた。
「ありがとう……ありがとうっ!!」
「うん! よかった! 間に合って!」
少女は涙をこぼしながら何度も頷く。
ハルは優しく頭を撫でた。
その姿を見ていた周囲の人々は――
「おい……あの青年、やっぱりただ者じゃないぞ」
「スリを捕まえただけじゃなく、あの速度だ……」
「昨日の魔物の件もあるしな……」
などと噂し始めていた。
そして、その噂はすぐに警備隊へと届き――
「そこの君! 話がある!」
槍を持った守備隊長らしき男性が、真っ直ぐに歩み寄ってきた。
「ん? ぼくですか?」
「君だ! 一体何者だ!? そして――」
守備隊長の目は燃えていた。
「ぜひ我が隊に入ってくれ!!」
「えええええええええええ!?」
ハルの素っ頓狂な声が、町中に響いた。
堂々とした声で言い放った守備隊長の勢いに、ハルは思わず半歩後ずさった。
その後方では、スリを連行していく隊員たちが「すげぇ奴が現れた…」とヒソヒソ話している。
「え、えぇと……ぼく……ただの旅人なんですが……」
「た、旅人……? 旅人が魔物を倒し、スリを一瞬で捕らえ、さらにあの疾走力……?」
守備隊長は眉を寄せ、じーっとハルを観察し始めた。
その視線は、戦場で怪物を見つけた兵のような、警戒と興味が入り混じったものだ。
「どう考えても“ただの旅人”ではないだろう……!」
「いやいやいや! 本当に一般人なんですよ! むしろ昨日転——」
あ、危ない、とハルは口を噤んだ。
“転生してきた”なんて正直に言うわけにもいかない。
「と、とにかく! ぼくは旅をしながら色んな景色が見たいんです! この町を出て、他の場所にも行きたくて!」
「む……旅、か……」
守備隊長は腕を組み、唸りながら考え込む。
「旅をしている者を無理に止めるのは、やはり良くない。しかし……」
視線がハルの足元へ落ちた。
「昨日は商人ゴドンを救い、荷馬車も修理したと聞く。今日は少女を助け、スリまで捕まえた……。動きに迷いがない。実戦経験も豊富だろう?」
「えぇと……実戦……?」
「ないのか?」
「ほぼ、ないですね!」
「ないのにあの動き!?」
隊長は頭を抱えた。
周囲の隊員たちも「嘘だろ」と目を丸くしている。
「おい、あんた。何者だ?」
「旅人なのに、なんでそんなに強いんだ?」
「訓練でも受けてたの?」
質問の嵐。
ハルは困ったように笑う。
「いや〜、身体が軽くて……なんか動けちゃうんですよね……」
「“なんか動けちゃう”レベルじゃねぇよ!?」
「そうなんですか?」
「そうだ!!」
守備隊長が即答した。
「とにかく……我々としても、こんな逸材を放っておくわけにはいかない。せめて――せめて我々の詰め所に顔を出してくれないか?」
「顔を……?」
「入隊の強制ではない。ただ、礼を言いたい者も多いし、正式にお前を“町の友人”として迎えたい!」
「お、お友達……!」
その言葉に、ハルの目が輝いた。
友達。
異世界に来て、一晩でできた最初の“歓迎の言葉”。
強制でも見返りでもない、純粋な感謝からの申し出。
「じゃあ! 顔を出すくらいなら!!」
「よし!!」
守備隊長は拳を握りしめて喜んだ。
周りの隊員たちも拍手を送る。
「お前さん、本当にいい奴だな!」
「ぜひうちにも寄ってくれ!」
「歓迎するぞ!」
町の空気が少しだけ温かくなった気がした。
「じゃあ、後で伺いますね!」
「わかった! 我が詰め所は大通りの北側だ! 誰に聞いてもわかるぞ!」
隊長と別れ、ハルは少女に返した財布がきちんと戻っていることを確認してから、改めて町を散策し始めた。
通りのあちこちから声が飛んでくる。
「スリ捕まえた青年だ!」
「私も見たよ! すごい速さだったねぇ!」
「昨日の魔物の件もあるし、あの人絶対すごい人だよ!」
「ち、違う違う! 普通の旅人ですから!!」
ハルは慌てて手を振るが、全く説得力がない。
その後も――
「パンおまけしとくよ!」
「うちの店にも寄ってけ!」
「腕は怪我してないかい?」
次々と差し入れや声掛けが飛んできて、ハルは笑いが止まらない。
「ははは……すっごい町だなここ……!」
その明るさと人のよさに、心が弾んだ。
そして――ふと立ち寄った露店で、ハルは足を止めた。
「おっ……!」
冒険者らしき男たちが剣や装備を見ている横で、店主がハルに声をかける。
「おや、あんた見ない顔だね。旅人か?」
「はい! 旅をしてまして!」
「ほぉ……旅人にしては動きがしっかりしてるな。剣とか興味ないか?」
「……剣……!」
ハルの目が輝く。
「実は……剣って触ったことないんですけど……なんか、ロマンありません?」
「おお! わかる! 男はみんな一度は憧れるんだよ!」
店主が豪快に笑って、一本の短剣を手に取った。
「まずは軽いものからだな。どうだ、持ってみろ。」
「いいんですか?」
「もちろんだ!」
ハルは短剣をそっと握った。
金属の冷たさと重み。
手に吸い付くような感触に、思わず感心してしまう。
「うわ……持ちやすい……!」
「だろう? 旅人でも護身用に一本くらいは持っとくと安心だぞ!」
「護身用……なるほど……」
その時、通りの方からまた声がした。
「はるさーん!!」
「え?」
振り返ると、さっき助けた少女と家族らしき人が駆け寄ってくる。
「さっきは本当にありがとう! これ、気持ちだけど受け取って!」
手渡されたのは、小さな手作りのお守り。
布を丁寧に縫い合わせた、素朴で可愛いものだった。
「えっ……嬉しい……!」
ハルは胸の奥が温かくなるのを感じた。
少女の母親が深く頭を下げる。
「本当に助かりました。どうか、あの子の恩人に……良い旅を……」
「はい! ありがとうございます!」
短剣、お守り、そしてたくさんの笑顔。
異世界での朝が、こんなにも優しいものになるとは思わなかった。
「よし……!」
ハルは胸に決めた。
「今日も誰か困ってたら助けよう!」
ただそれだけで、足取りはさらに軽くなる。




