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荷馬車は修理を終えてゆっくりと動き出し、草原を抜けて砂利道へと入っていった。
馬は先ほどまで怯えていたのが嘘のように落ち着きを取り戻し、一定のリズムで蹄の音を響かせている。
「ふぅ~……いやぁ、さっきは死ぬかと思った……! 本当に助かったよ!」
手綱を握る商人の男――名をゴドンという――は、ホッとしたように深く息を吐いた。
「いえいえ! 困ったら声かけてくださいね!」
「いや……お前さんが困ってる側じゃなくて、助ける側なのがすごいんだよ……」
ゴドンはハルの腕をチラチラと見ていた。
それは「この青年がどういう力を持っているのか」を気にしているというより、
“あの魔物を吹っ飛ばしたのは何だったのか”
を理解しようとしている視線だった。
しかしハル本人は何も考えず、「馬がかわいいなぁ」などと呑気に眺めていた。
「にしても、あんた……冒険者か?」
「冒険者? じゃないですねー」
「じゃあ戦士?」
「もっと違いますねー。一般人です!」
「一般人が魔物をワンパンでぶっ飛ばすか……?」
「いや、棒の力がすごかったんですよ。棒、すごい。」
「棒じゃねぇ……お前さんだよ……!」
ゴドンは、ため息と同時に笑いを漏らす。
呆れ半分、感心半分、そしてどこか安心しているような笑顔だった。
荷馬車の後ろには、ハルが修理した車輪がしっかりと回っている。
応急とは思えないほど安定していて、ガタつきもほとんどなかった。
「にしても、本当に助かったよ……。これが全部無事じゃなかったら、俺、破産してたところだ」
「え! そうなんですか?」
「あぁ……この商品、全部運ぶために借金までしたんだ。今日中に町へ届けなきゃ、契約が破談になって……」
「なるほど〜。そりゃあ焦りますよね!」
「焦るって……お前…はぁ…本当にいいやつだな……」
ゴドンはしみじみと言った。
褒められたハルは、照れもせずただニコリと笑った。
「いいやつっていうか、見てられないだけですよ。」
「いや、それがすごいんだよ!」
ゴドンは急に立ち上がりそうな勢いで叫ぶ。
馬がビクッと肩を震わせ、慌てて手綱を引く。
「あっ、ごめんごめん。馬が驚いちまうな」
「馬さんもびっくりしてますね〜。よしよし、大丈夫だよ〜」
ハルが馬の首を撫でると、馬は目を細めて気持ちよさそうに鼻を鳴らした。
「……おい。今までこの馬、俺にすら懐かなかったんだが……?」
「えぇ!? めっちゃいい子ですよ?」
「……お前、動物に好かれる体質なのか……?」
ゴドンは何かを悟りかけていた。
それは「この青年はただ者ではない」という確信めいた感覚だ。
ハルの“天然”と“善意”と“ちょっと強い身体能力”は、初見の人に強烈な印象を残す。
そして――。
「そろそろ町が見えてくるはずだ!」
ゴドンの言葉にハルは誇らしげに背筋を伸ばした。
丘の向こうに、木の柵で囲まれた街並みが見え始めていた。
規模は大きくないが、屋根は鮮やかな色に塗られ、煙突からは食料の匂いが漂い、活気がある。
「おぉー! 町だー! すごい!」
「……お前、本当に観光客だな……」
ゴドンが笑ってツッコむ。
馬車が町の門へ向かうと、門番の兵士が二人、槍を手に待機していた。
彼らはゴドンを見るや否や、すぐに表情を和らげる。
「お、ゴドンさんじゃないか。無事に帰ってこられましたね!」
「おうよ! ……いやぁ、実はな――」
ゴドンは、ハルが魔物を倒してくれたこと、壊れた荷馬車を直してくれたことを語り始めた。
門番たちは驚き、そしてすぐにハルへ視線を向けた。
「あなた、冒険者か?」
「いや、ただの旅人です!」
「旅人!? 旅人が魔物を倒せるか?」
「みんな疑いますよね〜。棒がね、すごかったんですよ!」
「棒は関係ねぇだろ!」
門番とゴドンのツッコミが同時に飛ぶ。
ハルは笑うだけだ。
そんなやりとりの最中、門番の一人がゴドンの馬車の車輪を見つめて声を上げた。
「おい……これ修理したのか?」
「ん? あぁ、ハルさんがな」
「え……これ、一人で直したのか!?」
「はい! ちょっと調整しただけですよ!」
「ちょっと……?」
兵士たちは顔を見合わせ、やがて深く息を吐いた。
「町に入れるぞ。怪しい者には見えないし……むしろ、助けてくれたんだよな?」
「はい! 困ってたら助けますよー!」
兵士は目を細め、そして優しく笑った。
「……いい青年だな。歓迎するよ。」
ハルは嬉しそうに帽子を取って頭を下げた。
町の門が開き、荷馬車がゆっくりと中へ入っていく。
町の中は活気に満ちていた。
子供たちが走り回り、犬が吠え、パンの焼ける匂いが風に乗る。
露店では果物や野菜、陶器や布などが並び、商人たちが元気よく呼び込みをしていた。
「うわぁぁ……!」
ハルの目は輝く。
本当に異世界に来た、という実感が全身を駆け巡った。
「ハルさん、ここで降りてくれ。宿代は俺が出すから!」
「えっ、そんな……いいですよ!」
「いや、いいんだ! むしろそれくらいしかお礼ができん!」
ゴドンに押されるように荷馬車を降りた瞬間――周りの人たちがざわざわと声を上げた。
「あの馬車……壊れてたやつじゃないか?」
「戻ってきたぞ! しかも荷物も全部無事だ!」
「えっ、修理したの誰?」
「この青年らしい。」
「若いのにすげぇ!」
町の噂好きたちが一瞬で情報を広め始めていた。
「なんか……目立ってません……?」
「まぁ、辺境の町だからな噂はすぐに広まるさ……。でも、悪い噂じゃない。むしろ歓迎されてるぞ!」
「わ、わぁ……!」
ハルは照れくさそうに笑った。
だが、その笑顔がまた、周囲の人々の印象をさらに良くしていく。
ゴドンの荷馬車が町の中心を抜けていく間、ハルは周囲の視線と噂が少しずつ集まってくるのを感じていた。
もちろん、怖さはまったくない。
むしろ、ちょっとくすぐったい。
「さて、ハルさん。まずは宿だ! 今日の食事は俺に任せろ。あんたには何を奢っても足りんくらいだ!」
「わ、そこまで気を使わないでくださいよ!」
「気を使わせてくれ! 恩返しなんだ!」
強引なゴドンに、ハルは苦笑しながらついていく。
彼らが歩いていると――通りの反対側で、果物を売っていたおばちゃんが声を上げた。
「あれ? ゴドンさんじゃないの! 帰ってきたんだねぇ!」
「おぉ、ミーナさん! ええ、まぁいろいろあったんですが……」
「いろいろ?」
「全部、この青年のおかげで無事なんですよ!」
ミーナと呼ばれたおばちゃんは、ハルに視線を向けてきた。
優しげで、しかし好奇心に満ちた目だ。
「まぁ! こんな若い旅人さんが! 助けてくれたんだって?」
「あ、はい。ちょっと魔物が出たので、棒で……」
「棒!?」
「はい、棒ですね!」
「棒で魔物を倒せる? すごいじゃないの! これ、サービスね!」
ミーナは袋に詰めた赤い果物をハルに手渡した。
「えっ、いいんですか!?」
「いいのいいの! あんた、なんだか良い気を持ってるねぇ。最近の旅人さんはピリピリしてる人が多いから、あんたみたいなのが来ると嬉しいよ」
「ありがとうございます!」
ハルが嬉しそうに頭を下げると、ミーナは満足気に手を振った。
「また寄っておくれよ!」
町の人々と触れ合うたびに、ハルは笑みを深めていった。
異世界だの、人種だの、文化の違いだの。
大きな壁があっても不思議ではないのに――この町の人たちは温かく、そして自然体で受け入れてくれた。
そんな暖かさに、ハルの胸がぽかぽかと温まっていく。
「こりゃあ……いい場所だなぁ……」
「ははは! だろう? この町は小さいが、人の優しさだけはどこにも負けん!」
ゴドンの誇らしげな声に、ハルも思わず頷く。
やがて、二人は町の中心部にある宿屋へと辿り着いた。
木造で温かみがあり、入口には花が飾られ、暖炉の匂いが中まで漂ってくる。
「お、ゴドンさんじゃないか! 戻ってきたのか!」
宿屋の主人が声を上げると、ゴドンは胸を張って答えた。
「おうよ! それと、今日はこの青年に一番いい部屋と食事を頼む!」
「はいはい……って、おいおい、また何かやらかしたのか?」
「いい意味でな!」
ゴドンが笑ってハルの肩を叩く。
ハルは「痛っ……」と思ったが、すぐに笑い返した。
「じゃあ、泊まらせてもらいます!」
「もちろんだ! 歓迎するよ!」
宿の主人が鍵を手渡してくれた。
部屋に入ると、予想を上回る清潔さだった。
ベッドはふかふかで、窓からは町を見渡せる。
異世界の宿泊施設といえど、設備は驚くほど整っている。
「うわぁ……」
ハルは素直に感動してベッドに倒れた。
柔らかな布団に包まれ、異世界での初めての安堵が全身に広がっていく。
――が、次の瞬間。
「……あれ?」
天井を見つめながら、ハルはふと、今日の出来事を思い返していた。
刺されて死んだこと。
神様と会ったこと。
転生したこと。
魔物を倒したこと。
町に歓迎されたこと。
本来なら不安になってもおかしくないのに、心は不思議なほど軽い。
「……まぁ……なんとかなるだろ」
天井の木枠を見ながら、ハルは笑った。
――これは、彼が異世界で最初に口にした“お気楽な独り言”だった。
その後、宿屋の食堂でゴドンと一緒に温かいスープと焼きたてのパンを食べ、ハルは満腹になって部屋へ戻った。
あっという間に布団へ潜り込む。
心地よい眠気が襲い、目が閉じていく。
「……明日も誰か……困ってたら助けよう……」
それは、ハルにとってごく自然な願いだった。
強制でも義務でもない。ただ、“そうしたい”からこそ湧き上がる気持ち。
こうして――
風間ハルの異世界“お気楽道中”は静かに幕を開けたのだった。




