10
翌朝。
まだ霧が残る村を、ハルとリナは村長に見送られながら歩き出した。
「森の奥は危険かもしれん。くれぐれも気を付けてくれ」
「はい! なるべく安全に見てきます!」
「“なるべく”って言わないの!」
リナがすかさず肩を叩く。
「ちゃんと安全第一で動く!」
「はーい……」
そんなやり取りに、村長は苦笑して手を振った。
森へ入ると、空気の冷たさが一段と増した。
頭上で枝が重なり合い、陽光は細く裂けた筋になって地面を照らしている。
土は柔らかく、ところどころに魔物の足跡が残っていた。
「……この辺、昨日の魔物も通ってるわね」
「だね。でも昨日みたいにいきなり襲ってこないといいけど」
「フラグ立てないの」
「え、フラ……?」
「なんでもない!」
二人は慎重に歩きながら奥へと進む。
途中、リナはしゃがみ込み、地面を指でなぞった。
「これ……新しい足跡。かなり大きい」
「昨日の熊みたいな魔獣かな?」
「たぶん。こんなの、村人が遭遇したら終わりよ」
「じゃあ、なるべく森の奥で止めたいね」
その言葉を聞いて、リナは小さく息を吐く。
本当にこの人は、困っている相手が見えると本気になるのだ。
「……ほんと、放っておけない性格ね」
「え、なんか言った?」
「別に」
しばらく進むと、空気が変わった。
森の匂いとは違う、土の“崩れた匂い”。
そして――目の前の景色に、二人は息を飲んだ。
森の奥。
大地が大きく裂け落ち、そこには巨大な穴が開いていた。
「……これが……崩れたって言ってた場所?」
「でか……!」
深い。
地面が崩れ、地下へと続く洞窟の入り口が露出している。
岩肌は割れ、土が滑り落ち、ところどころに魔物の爪痕があった。
「これ……誰かが掘ったんじゃないよね……」
「自然崩落……だと思うけど……」
そう言いかけたとき、リナの足がぴたりと止まった。
「……ハル」
「ん?」
「ここ……空気が悪い」
森特有の湿った空気ではない。
もっと重く、冷たい感覚が肌にまとわりつく。
「魔物が……逃げたってより、追い出された感じがする」
「ってことは……」
「中にまだ“何か”がいるかもしれないってこと」
その時、低い、鈍い唸り声が洞窟の奥から響いた。
「……聞こえた?」
「うん、ばっちり」
ハルが一歩前に出る。
「行ってみる?」
「当然でしょ」
怖いはずなのに、リナは笑っていた。
昨日と同じだった。
無茶をするハルの後ろで、自分が支えるともう決めている。
「ただし!」
リナが前に回り込み、ハルを指差す。
「突っ込まない」
「危険を感じたら引く」
「私の話ちゃんと聞く」
「昨日も聞いた!」
「今日も聞きなさい!」
「はい!」
二人の声が森に響いたあと、静かに洞窟の入り口へと歩みを進める。
闇の奥で、何かが動く気配がした。
村を襲った魔物たちを追い出した原因。
森に異変を起こしている“何か”。
それが、この先に存在すると確信しハルは拳を軽く握り、笑う。
「よし、ちょっとだけ頑張ろうか」
「“ちょっと”で済ませて」
「努力します!」
そんな他愛のない会話を交わしながら、二人は崩れた崩れた大地の奥、洞窟の入り口に足を踏み入れた瞬間、空気が一気に変わった。
ひんやりとしているのに、どこか圧迫感がある
。
湿った空気が肺に重く入り込み、音が消えていくような静けさが広がる。
「寒い……」
リナが小さく呟いた。
「たしかに、森の中より冷たいね」
「それだけじゃない。……空気が……嫌な感じ」
言葉にできない違和感。
肌がひりつくような、不快な圧。
ハルは一歩進み、洞窟の奥を見つめる。
壁は崩れた岩肌がむき出しで、地面には崩落で割れた石が散らばっている。
ところどころに擦れた跡や深い爪痕があり、明らかに魔物が慌てて通ったことが分かった。
「たぶん、村の近くに出てきた魔物たち……ここから逃げた感じだね」
「そうね。……ここに、“何か”がいた」
「いる、かもしれない、だね」
ハルは笑うが、その目は真剣だった。
奥へ進むにつれ、洞窟の通路は細くなり、ときおり天井から冷たい水滴が落ちる音だけが響く。
深呼吸したくても、息を大きく吸い込むのが怖い空気だった。
しばらく歩いたところで、リナが足を止めた。
「……ねぇ、ハル」
「ん?」
「血の匂いがする」
急に空気が重くなった気がした。
奥へ進むと、壁にこすりつけられた血痕。
そして、倒れ込んだまま息絶えている魔物の亡骸。
「……ここで何かに襲われた?」
「でも、食われてない」
ハルがしゃがみ込んで確認する。
「傷は……鋭い。でも噛まれた形じゃない。叩き潰された感じかも」
「叩き潰す……?」
リナがごくりと喉を鳴らした。
「魔物をこうなるまで一撃で? そんなの……」
「昨日の熊より強い、かな」
「冗談じゃないわよ……」
リナは無意識にハルのマントの端をつまんでいた。
さらに奥へ。
洞窟は途中で広い空間へと繋がっていた。
「……大きい……」
そこは天井が高く、地下とは思えないほど広い空洞だった。
しかし、その地面中央が不自然に、抉られていた。
巨大な何かが暴れたように、地面はえぐれ、石は粉々になり、壁は深く裂けていた。
そして、その裂け目から、ぼんやりした青白い光が漏れている。
「……なんだろ、あれ」
「わからない。けど、自然じゃない」
その光は冷たく、淡く揺らぎながら空気を震わせていた。
それに近づくほど、強い圧迫感が増していく。
リナが額に手を当てた。
「頭が、少し痛い……」
「無理しないでね。危なそうならすぐ出よう」
「それ言えるあんたが一番危ないのよ」
そう言いながらも、彼女は引かなかった。
その時――空洞の奥で、何かが動いた。
重い音。
地面を擦るような音。
「来る……!」
リナが息を呑む。
闇の中から姿を現したのは、熊でも狼でもなく、岩のような身体を持つ、異様な生き物だった。
四つ足。
全身が石の鎧のように覆われ、目だけが怪しく光っている。
普通の魔物とは明らかに違う。
「これ……魔物……?」
「……たぶん。でも、ただの魔物じゃない」
その体からは、先ほどの青白い光と同じ気配が漂っていた。
「もしかして……あの光の影響で……?」
考える暇もなく、その巨大な生物は大地を踏み鳴らす。
岩が割れる衝撃が、足元まで届いた。
「リナ、下がって!」
「言われなくても!」
ハルが前に出ると、石の獣が咆哮を上げた。
洞窟全体が揺れるほどの声。
「……よし。やってみるか」
ハルは拳を軽く握り、笑った。
お気楽そうに見えるその背中が、リナには、頼もしすぎて、そして少し怖かった。
「絶対倒れないでよ。治せるの、初級だけなんだから!」
「はは、大丈夫!」
「本気で言ってる!?」
「本気で言ってる!」
石の獣が飛びかかり、洞窟の広間が揺れる。
リナは拳を握りしめ、ハルの背中を見つめた。
村を守りたい。
森を守りたい。
そしてこの人を、絶対死なせない。
「……頼んだわよ、ハル!」
岩と光と衝撃がぶつかり合う瞬間、二人の戦いが始まった。




