第4章:国家と報道の断絶線(前半)
永田町が静かにざわめき始めていた。
与党幹部が緊急招集され、官邸の地下会議室には重苦しい空気が立ち込めていた。朝都新聞が紙面で報じた「検察による告発者への私的接触」は、一部で“政治的弾圧”と受け取られかねない内容だった。特に、記事の中で言及された「光泉会」という政治団体は、与党最大派閥の資金パイプそのものだった。
「このまま放っておけば、政権中枢に飛び火する」
内閣官房副長官の山野は、低く言った。
「それだけではない。検察と報道の対立が顕在化すれば、国民の“信頼”という目に見えない土台が崩れかねない。メディアへの監視体制を強化するしかない」
すでに、内閣情報調査室(内調)は水面下で動き出していた。久保田陽介の個人情報、過去の交友関係、海外渡航歴、あらゆるデジタル履歴が収集対象となっていた。
一方、朝都新聞社内。
社会部の一角には、異様な空気が立ち込めていた。
「官邸筋から“あの記者を表に出すな”という圧力がきてるらしいぞ」
「警視庁経由で会社に“出入りしている非公認のフリーライターがいる”って照会が来たって話だ」
編集局長・中川の顔は蒼白だった。社会部デスクの田之倉は会議室に呼ばれ、直属の部下である久保田の“社外活動”について説明を求められた。
「SNS上で、記事に賛同する市民団体が久保田の取材内容を引用し始めている。会社としてのスタンスを明確にしないと、まるで我々が“反体制キャンペーン”をしているように見られかねない。……新聞社にとって最も危険なのは“信用の揺らぎ”だ」
「しかし、記事は事実に基づいて書かれたものであり、会社はその編集方針を承認しました」
「記事の内容云々ではない。影響力の“波及”が問題なんだ」
中川の言葉は、はっきりと圧力の“内在化”を意味していた。
その夜。
久保田は一通の封書を手にした。差出人は匿名。内容は明確だった。
《もうやめろ。お前は見られている。次はない》
紙の隅には、小さなUSBが同封されていた。
封を切ると、中には無音の動画ファイルが入っていた。
それは、久保田が自宅近くのコンビニに立ち寄る様子を、数十メートル離れた車の中から望遠で撮影したと思われる映像だった。
心臓が冷えた。
脅迫――いや、“牽制”だ。
翌日、編集局で臨時会議が開かれた。
議題は「光泉会関連取材の今後の取り扱い」だった。
会議冒頭、政治部から通達が下された。
「今後の“光泉会案件”は政治部の統括とする。社会部による独自取材、記事化は一時停止。すべて政治部編集会議で精査の上、進行すること」
事実上の“取材権剥奪”だった。
社会部の記者たちがざわついた。田之倉も声を上げた。
「取材の独立性を侵す行為です。報道部門ごとの自由な取材活動がなければ、横並び記事しか生まれない!」
だが、局長・中川は反論しなかった。
久保田は、静かに立ち上がった。
「……私にだけ、なにか問題があるというのであれば、取材から降りる覚悟はあります。ただし、私の原稿を紙面から“抹消”したことについては、記録を残させていただきます。これは、報道機関の自己検閲です」
会議室の空気が一気に冷えた。
久保田は取材ノートと録音機材をカバンに収め、編集局を後にした。
その足で、彼が向かったのは、都内の小さな喫茶店だった。
待っていたのは、かつて検察内部で報道渉外を担っていた元事務官だった。実名を伏せたまま、“彼”はぽつりと語った。
「検察は、光泉会の裏金ルートを把握している。ただし、それを暴くと政権中枢と真正面からぶつかる。だから、途中で情報提供者に“手を引かせる”よう働きかける。……あれは圧力ではなく、“戦争回避の知恵”だと、上層部は本気で考えている」
「でも、それは情報源を潰すことと同じです」
「それでも、“潰されない記者”もいる。覚悟を決めた者だけが、最後まで残る。……お前は、残るつもりか?」
久保田は答えなかった。
ただ、ノートを再び開き、万年筆を手に取った。