第3章:代理戦争の果てに(後半)
翌朝、社会部デスクの田之倉俊一は、久保田の提出した原稿を一読して、即座に赤ペンを手に取った。
「これ……出せると思ってるのか?」
久保田は机の前で直立したまま、田之倉の顔をじっと見据えていた。
「Nさんが話してくれた内容です。検察が内部告発者に直接圧力をかけていた。これは、情報源を保護する報道倫理に対する挑戦です。黙っていられる話じゃありません」
「わかる。俺も社会部の人間だ。ただな……お前のこの記事が通れば、政治部は黙っていない。特捜の主任検事の実名を出せば、検察との関係は凍りつく。官邸ルートも遮断される。会社として耐えられるのか?」
「それでも、事実は事実です」
田之倉はため息をついて、机に肘をついた。
「久保田……この記事が紙面に載ったら、お前は干されるぞ。いや、社にいられなくなる。覚悟はあるか?」
沈黙。
久保田の目が、静かに、しかし揺るぎなく田之倉を見据えていた。
「……覚悟は、とっくに決めています」
社内調整会議――
政治部デスク・綾瀬圭太は、社会部原稿の“問題点”を列挙し、削除を求めた。
「この実名報道、検証が甘すぎる。検察の反応も取っていない。いわば片側の言い分に乗った“攻撃的記事”です。こんなものを出せば、我々の司法取材の信用は地に堕ちますよ」
編集局長・中川は、両者の主張の板挟みに頭を抱えていた。
そんな中、田之倉が静かに口を開いた。
「……仮にこの記事をボツにしたら、朝都新聞は“情報提供者を守らない”と見なされる。記者が命をかけて得た証言を握りつぶし、権力に配慮して捨てた新聞社、という烙印が押される」
「理想論だ。現場はそんなに甘くない」
「いや、これは理想論じゃない。矜持の話だ。記者の仕事は、読者の知る権利のために“見たくないもの”を伝えることだ。もしこの原稿を社の都合で潰すなら、俺たちがやっているのはジャーナリズムじゃない。単なる“業務”だ」
その言葉に一瞬、会議室の空気が凍った。
深夜、編集局の灯はまだ消えていなかった。
田之倉と久保田、そして整理部の校閲記者が最後の校了作業に追われていた。
「出せるかどうかは、まだわからない。だが……明日の朝刊の中面、社会面右上、空けてある。もし“差し替え指示”が入らなければ……君の原稿は載る」
久保田は黙って、深く頭を下げた。
翌朝――
朝刊が刷り上がった。
社会面の右上。そこに、久保田陽介の署名が躍っていた。
《告発者沈黙の裏に――検察が圧力か/光泉会裏金問題、特捜主任検事が“私的接触”か》
見出しはやや抑えられていたが、記事の骨子は生きていた。
実名は伏せられたが、検察幹部による非公式接触の事実、取材対象者の証言、録音の有無、社会部内での裏取り状況――すべてが丁寧に記されていた。
数時間後、記者クラブがざわめき始めた。
NHKが久保田の記事を速報で引用。ネットメディアも追随。ついには外国特派員協会が声明を出した。
《情報源保護は民主主義国家の根幹である。本件は重大な人権侵害の可能性を孕む》
すると、東京地検特捜部が慌てて「事実関係を精査中」とするコメントを発表。検察内部でも調査が始まったという情報が入ってきた。
その日の夜、久保田は編集局の屋上でひとり、缶コーヒーを飲んでいた。
田之倉が後ろからやってきて、隣に腰を下ろす。
「よくやった。……まあ、これからがお前の戦いだけどな」
「そうですね。だけど……今は少し、誇らしいです」
田之倉は笑った。
「それでいい。そう思える記事を、お前は一本、出した。それだけで価値がある」
夜風が頬を撫でた。
高層ビルのネオンが、静かに東京の闇を照らしていた。