第2章:夜討ちの果てに(前半)
午前0時を回った。
都内杉並区。閑静な住宅街の電灯がぽつぽつと消え、街全体がまるで呼吸をやめたかのように静まり返っている。
久保田は、その中の一軒、築40年は超えるだろう木造二階建ての玄関前で、コートの襟を立てたまま立ち尽くしていた。目の前の表札には「神代」の文字。そしてその脇には、しっかりと「光泉会理事長 神代綾乃」の名前が並んでいる。
娘――神代綾乃。その名が、裏金構造の肝だ。
昼間のうちに福祉法人の資金流れを追い、久保田はあることに気づいた。施設建設が決定した直前に「寄付」名義で法人に支払われた金額と、ゼネコンの営業部門が計上した「営業経費」が一致している。現場担当者の一人が久保田にこう漏らした。
「実態のない“プレゼン資料制作費”って名目で、金が動いたらしいですよ。口止めされてますけど」
匿名での証言。裏取りには程遠い。しかし、このまま引き下がれば、ネタは潰れる。久保田は情報提供者・江上の言葉を思い出した。
「俺は真実が紙面に出ることだけを望んでる。それで十分だ」
その思いに応えるには、リスクを取らなければならない。
――夜討ち。記者が対象者の自宅を直接訪ねて、非公式に取材する手法。かつてのベテランたちは当然のように行っていた。だが今の時代、それは訴訟リスクやプライバシー問題と紙一重のギャンブルでもある。
だが、やるしかなかった。
久保田はインターホンの前に立ち、深呼吸し、呼び鈴を押した。
1分、応答なし。2分……ドアがわずかに開いた。
「……夜分にすみません。朝都新聞の社会部の記者です。神代綾乃さんにお話をうかがいたく……」
ドアの奥から顔をのぞかせたのは、すっきりと髪をまとめた三十代半ばの女性だった。驚いたように一歩引き、眉をひそめた。
「取材? この時間に? 非常識だと思いませんか」
「申し訳ありません。ただ……法人運営について、どうしてもご本人から確認させていただきたいことがあって」
綾乃はわずかに睫毛を震わせた。
「父のことでしょう? どうせまた、政敵から流された噂をもとに来たのでしょう」
「そうではありません。ゼネコンからの寄付について、正式な手続きであれば、その証拠を見せていただければ、報道の公平性のためにも記録できます」
沈黙が流れた。綾乃の目が久保田の目を見つめていた。その奥に怒りとも不安ともつかない光が宿る。
「帰ってください。答える義務はありません」
「ですが、“答えない”ことが世論にどう映るかは……ご承知のはずです」
「脅しですか?」
「いえ。これは、対話の最後のチャンスです」
綾乃は目を伏せると、ゆっくりと扉を閉めた。ドアの隙間から漏れる光が、久保田の足元からすっと消える。
その瞬間、背後で人の気配を感じた。振り返ると、塀の陰から黒い影が現れた。目が合った。
「久保田か?」
その声には聞き覚えがあった。
「……田島さん」
東京地検特捜部の刑事・田島誠司だった。
ファミレスの隅に移動してから、田島は久保田の対面に腰を下ろした。午前1時を過ぎた店内は、学生とタクシー運転手しかいない。
「まったく、お前はいつか問題を起こすと思ってたよ」
田島はコーヒーに口をつけた。「夜討ちで家に突っ込むとはな。特捜に先んじて“容疑者扱い”してるって捉えられかねんぞ」
「でも、取材対象が“沈黙”を選んだら、我々は何も書けなくなる。事実が見えなくなる。それじゃ……」
「それは、俺たちの世界でも同じだ」
田島は低く言った。「俺たちも、取れなきゃ起訴できない。でもな、“取れそうだから突撃する”のは、素人のやることだ。お前は記者だろ。証拠を磨け。信頼を掘れ」
「証拠……は、掴みかけてるんです。だが、決め手がない」
久保田は封筒を差し出した。中には昨日、江上から渡された建設契約書と“寄付”の領収書がある。
田島は中を見て、目を細めた。
「これは……社内資料だな。役所の担当者しか持てないはずだ」
「提供者の名前は、絶対に出しません。ですが、これをもとに裏が取れれば……」
田島は深く息を吐いた。
「お前に言えることは一つだ。この話は、神代一人を潰して終わる話じゃない。官邸、財界、検察の一部、すべてが絡む。つまり、お前はもう“踏んで”るんだよ。報道の地雷原に」
久保田は、それでも目をそらさなかった。
「なら、その先を見てみたいんです。どうしても」
田島は苦笑し、空になったカップをテーブルに置いた。
「……一つだけ、教えてやる。近々、光泉会に対して東京地検が“任意調査”をかける。建設資金の流れの本筋を押さえるには、それが起点だ。記事を出すなら、それに重ねて打て」
「いいんですか?」
「何も言ってない。ただ、そういう話が“あるかもしれない”だけだ」
田島はそう言うと、勘定をテーブルに置いて席を立った。
その夜、久保田は寮に戻るとすぐにノートPCを開いた。
画面の下書きフォルダには、未完成の見出しが並んでいた。
──「福祉の名を借りた金脈」
──「神代一族、影の連携」
──「“寄付”の闇、市場化する善意」
それらを見つめながら、久保田は考えていた。
これは記者人生を決定づける原稿になる。だが、同時に――情報提供者を守るための最大の賭けにもなる。