表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/9

第1章(後半):はじまりの特命


 翌日の午後、久保田は神楽坂のバー「パシフィック」のカウンターで、バーボンを指で揺らしていた。


「特命案件だと?」

 バーマスターの佐伯は氷を転がしながら言った。「お前がそんな言葉使うようになるとはな」


「たぶん、俺、でかい壁に触れちまった気がするんです」


 久保田は静かにグラスを傾けた。佐伯は黙って棚から古い写真集を取り出した。そこには1970年代の学生運動と政治報道の特集が並んでいた。マスターはかつて、報道カメラマンとして国会前で催涙弾の雨を浴びていた。


「何も変わっちゃいねぇさ。メディアが動けるか、動けないか。それだけの話だ」


 夜9時10分前、久保田はコートの襟を立てて、光ヶ丘団地裏の児童公園に立った。冬の冷気が喉を刺す。鉄棒とブランコは錆び、照明のない闇が辺りを支配していた。


「来たな」


 声の方を振り向くと、街灯の陰から江上が現れた。帽子を目深にかぶり、フードで顔の半分を隠している。


「記者なんて信用しちゃいない。ただ、お前だけは少し違うと思った」


「なぜですか」


「昨日の目だ。あんた、目が怯えてなかった」


 江上はポケットから封筒を取り出した。中にはコピーされた数枚の書類。建設契約書と収支内訳書。そして別紙の寄付受領証明書には「光泉会」の名前が印字されていた。


「これ、何ですか?」


「建設受注前に“福祉寄付”という名目で1千万円が“光泉会”に渡ってる。表向きは寄付だが、実際はキックバックだ。娘が経営してるんだ、神代の」


「神代議員の……娘?」


「それ以上は俺の口からは言えない。これ以上突っ込むなら、あんたも潰される」


 江上の声がかすれた。目が血走っている。


「一つだけ教えてください。あなたはなぜ、こんな危険を冒してまで……」


「娘がいる。中学生だ。将来、彼女がこの建物を見て『うちの父は悪いことに加担してた』って思ったら……俺はたまらない」


 その言葉に、久保田の喉が締まった。取材ノートにメモを取りたい衝動に駆られたが、それはせず、ただ黙って頭を下げた。


「あなたの名前は一切出しません」


「名前を出すな。だが、真実は出せ。俺はそのために来た」


 江上は足早に団地の闇に消えた。公園に残された久保田は、冷気とともに自身の覚悟が試されているのを感じていた。


 翌朝、久保田は風間のデスクに資料を置いた。

 風間は無言でそれを読み込み、数分の沈黙の後、口を開いた。


「……本物だな」


「どうしますか。出しますか?」


「出すさ、もちろんだ。だが段取りがいる。政治部には知らせるな。紙面化までは俺が面倒を見る」


 久保田の胸に火がともった。


「これが表に出たら、神代は……」


「政局が動く。あいつは次期総裁候補筆頭だ。潰せばその穴に誰が入るか。官邸も黙ってはいない」


「……社も?」


「圧力はある。だが俺たちは報道機関だ。黙るのは恥だ」


 風間の目が、久保田を貫いた。


 その日の午後、編集整理部の壁にある紙面スケジュールに、朱色のマーカーで「特集・神代疑惑:構図解明」と書かれた。


「これ、なんだ」

 政治部の中堅・村井が眉をひそめた。「勝手に社会部が動いてるのか?」


「勝手とはなんだ。社会部は社会の腐敗を暴くんだよ」

 風間がぴしゃりと返す。


「神代案件は官邸直結だぞ。社の上層も黙っていないぞ」


「報道に官邸も上層も関係ない」


 部屋に一瞬、静寂が降りた。久保田はその空気に立ち尽くしたまま、だが、心の奥底で確かな熱を感じていた。


 夜。久保田は記者寮で原稿を書いていた。


 ──『光泉会をめぐる“寄付”の実態』

 ──『浮かび上がる資金環流の構図』

 ──『政治と福祉の腐れ縁』


 何度も推敲を繰り返し、息を止めてキーボードを叩いた。原稿のラストはこう締めくくられていた。


「誰も書かないなら、書くしかない。社会を記録するとは、権力の影をあぶり出すことだ」


 その瞬間、どこか遠くで印刷機が回る音が聞こえた気がした。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ