第1章(後半):はじまりの特命
翌日の午後、久保田は神楽坂のバー「パシフィック」のカウンターで、バーボンを指で揺らしていた。
「特命案件だと?」
バーマスターの佐伯は氷を転がしながら言った。「お前がそんな言葉使うようになるとはな」
「たぶん、俺、でかい壁に触れちまった気がするんです」
久保田は静かにグラスを傾けた。佐伯は黙って棚から古い写真集を取り出した。そこには1970年代の学生運動と政治報道の特集が並んでいた。マスターはかつて、報道カメラマンとして国会前で催涙弾の雨を浴びていた。
「何も変わっちゃいねぇさ。メディアが動けるか、動けないか。それだけの話だ」
夜9時10分前、久保田はコートの襟を立てて、光ヶ丘団地裏の児童公園に立った。冬の冷気が喉を刺す。鉄棒とブランコは錆び、照明のない闇が辺りを支配していた。
「来たな」
声の方を振り向くと、街灯の陰から江上が現れた。帽子を目深にかぶり、フードで顔の半分を隠している。
「記者なんて信用しちゃいない。ただ、お前だけは少し違うと思った」
「なぜですか」
「昨日の目だ。あんた、目が怯えてなかった」
江上はポケットから封筒を取り出した。中にはコピーされた数枚の書類。建設契約書と収支内訳書。そして別紙の寄付受領証明書には「光泉会」の名前が印字されていた。
「これ、何ですか?」
「建設受注前に“福祉寄付”という名目で1千万円が“光泉会”に渡ってる。表向きは寄付だが、実際はキックバックだ。娘が経営してるんだ、神代の」
「神代議員の……娘?」
「それ以上は俺の口からは言えない。これ以上突っ込むなら、あんたも潰される」
江上の声がかすれた。目が血走っている。
「一つだけ教えてください。あなたはなぜ、こんな危険を冒してまで……」
「娘がいる。中学生だ。将来、彼女がこの建物を見て『うちの父は悪いことに加担してた』って思ったら……俺はたまらない」
その言葉に、久保田の喉が締まった。取材ノートにメモを取りたい衝動に駆られたが、それはせず、ただ黙って頭を下げた。
「あなたの名前は一切出しません」
「名前を出すな。だが、真実は出せ。俺はそのために来た」
江上は足早に団地の闇に消えた。公園に残された久保田は、冷気とともに自身の覚悟が試されているのを感じていた。
翌朝、久保田は風間のデスクに資料を置いた。
風間は無言でそれを読み込み、数分の沈黙の後、口を開いた。
「……本物だな」
「どうしますか。出しますか?」
「出すさ、もちろんだ。だが段取りがいる。政治部には知らせるな。紙面化までは俺が面倒を見る」
久保田の胸に火がともった。
「これが表に出たら、神代は……」
「政局が動く。あいつは次期総裁候補筆頭だ。潰せばその穴に誰が入るか。官邸も黙ってはいない」
「……社も?」
「圧力はある。だが俺たちは報道機関だ。黙るのは恥だ」
風間の目が、久保田を貫いた。
その日の午後、編集整理部の壁にある紙面スケジュールに、朱色のマーカーで「特集・神代疑惑:構図解明」と書かれた。
「これ、なんだ」
政治部の中堅・村井が眉をひそめた。「勝手に社会部が動いてるのか?」
「勝手とはなんだ。社会部は社会の腐敗を暴くんだよ」
風間がぴしゃりと返す。
「神代案件は官邸直結だぞ。社の上層も黙っていないぞ」
「報道に官邸も上層も関係ない」
部屋に一瞬、静寂が降りた。久保田はその空気に立ち尽くしたまま、だが、心の奥底で確かな熱を感じていた。
夜。久保田は記者寮で原稿を書いていた。
──『光泉会をめぐる“寄付”の実態』
──『浮かび上がる資金環流の構図』
──『政治と福祉の腐れ縁』
何度も推敲を繰り返し、息を止めてキーボードを叩いた。原稿のラストはこう締めくくられていた。
「誰も書かないなら、書くしかない。社会を記録するとは、権力の影をあぶり出すことだ」
その瞬間、どこか遠くで印刷機が回る音が聞こえた気がした。