優しさ
〈潤せる咽喉掻き消えて胃が見ゆる 涙次〉
【ⅰ】
平涙坐。普段は自作のビーズ細工を鬻いで細々と生計を立てゝゐる、と云ふ。自作アクセサリー賣りの仕事は、(このネット社會)競合者が多く、なかなか暮らしてゆくに充分なカネは落ちて來ない。
そんな彼女に、カンテラ一味の情報収集係の仕事は有難かつた。彼女は父・平凡から、カンテラ事務所の隆盛ぶりを聞いてはゐたものゝ、正直こんなに給料を貰へるとは思つても見なかつた。
【魔】の血が混ざる彼女には、魔界スパイの仕事は容易かつた。父・凡を斬つたカンテラではあつたが、こんな職業が持て囃される、この世界が狂つてゐるのだと思ふ事にした。
【ⅱ】
涙坐が事務所を訪れると、番犬タロウが律儀に吠える。なので、一味一堂「あ、涙坐が來たな」と分かる。金尾のやうに、完全に魔性を拔かれた譯ではない彼女。また彼女の躰から魔性を拂拭したのでは、その職掌に叛する事となる。
【ⅲ】
閑話休題。テオ・じろさん・永田の文藝同人誌『季刊 新思潮』の事なのだが‐ 永田はすつかり脱落してしまつてゐた。*「カンテラ外傳(解説として)」と云ふ文章を送つて來て以來、音沙汰がない。ノイローゼなのだ。急遽代役が必要となつた。テオ=谷澤景六の強い意向で、二人誌にはしない、と云ふ規約があつた為である。谷澤は、事務所の外部の、新しい空氣を重んじてゐたのだ。
と、「あの、その方面の人、わたし知つてゐるんですけど‐」他でもない涙坐が紹介してくれる、と云ふ。
* 当該シリーズ第179話參照。
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〈尿となる今日を確かに生きし事トイレや涼し籠もりたくなる 平手みき〉
【ⅳ】
彼女が連れて來たのは、新進氣鋭の文藝批評家として知られる黑瀬巨文であつた。思はぬ大物出現である。彼は『ラノベ論』と云ふ論文集で、文壇の注目を浴びてゐた。「純文學は戰後、所謂自然主義文學の時代を脱け出、ポスト・モダンの荒波に揉まれ、長足の進歩を遂げた。それに比して、大衆文學は直木三十五・菊池寛の頃と本質變はつてゐないし、また變はる必然性もない、と見られて來た。だがその狀況に風穴を開ける物が最近出て來た。所謂ラノベ、である」その名に愧ぢぬ堂々たる論陣である。
テオ、じろさん、待つてました、とばかりに彼を仲間に引き入れた。
【ⅴ】
だうやら涙坐と黑瀬は戀仲らしかつた。その點で身許は保証されてゐた。だが形式通り、ボディチェックをじろさん行つた。これはカンテラ事務所に初めて來訪した者に、一様にやつてゐる事である。そこで、黑瀬、慌てふためく。これは‐
【ⅵ】
なんと黑瀬、拳銃を保持してゐた! がらりと様子が變はる。「私の姉の仇、カンテラと牧野旧崇を撃つ為に、ブラックマーケットで入手したものだ」。彼の姉とは、* 狼狂の女、古物商「一心堂」主・桝本千代だつたのだ...
「あなた、わたしを騙したのね!」涙坐は利用されたゞけだつたのである。カンテラ、のつそりと、「桝本千代? 知らんな」大刀をすらり拔いた。黑瀬、發砲したが、「秘術・魔磁界!」彈丸は傳・鉄燦に吸ひ寄せられた。そこで、牧野のチャカが火を噴いた...
重傷を負つた黑瀬に、カンテラが止めを刺す。「しええええええいつ!!」
煉獄に墜ちて行きつゝ、黑瀬は思つた。「苛められつ子だつた僕に、あんなに優しかつた姉さん...」
* 当該シリーズ第171話參照。
【ⅶ】
涙坐、涙にくれながら「わたしの大事なものは、全てカンテラさんに奪はれてしまふ。わたしだうしたらいゝの?」それには答へず、カンテラはカンテラ外殻に退いた。
「辞表」‐數日後、涙坐はそれを提出した。一箇月分の給金と共に‐ カンテラ「このカネを依頼料替はりにしやう」。そんな時の彼は、まさに血も涙もない。
「さて、『新思潮』、だうしやうか」‐谷澤にもじろさん=此井晩秋にも、取り立てゝ、プランはないのだつた。
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〈夏のふけ湿りを帶びて肩に付く 涙次〉
本当に優しかつたのは、誰だらう? 絶句、絶句、絶句... お仕舞ひ。