89話 ラタク・バナス
バナス家。
バナルドの支配者であり、今の当主であるバナビル・バナスに至っては、エステタ王国の辺境の大公爵に叙せられ、その名を高めた家門である。
はるか昔。今のバナルド地方とその南のウェイルド地方が、まだ人間の土地ではなかった時代。鳥人族クルクートが三つの山脈に囲まれたこの地を支配していた頃、好戦的な鳥の種族から人間王国の最果てを守っていたのは、今のバナルドとウェイルドへ入る入口の土地――ラスワビ地方を領地とするカビル家だった。
長い間、カビル家は「エステタの盾」という名を誇りにし、王国の守護者という名誉を背負って、クルクートの大軍勢を幾度も撃退した。.
そうしてカビル家の犠牲によって、人間王国は長い繁栄を享受することができた。
だが、一つの家門の犠牲だけで、いつまでも不安に盾の後ろに隠れて防ぐだけではいられなかった。人間王国の反攻――その中でも戦争の後期に現れ、最前線に立ってクルクートに向かって突き進んだ家門こそ、バナス家である。
分厚い甲冑をまとい、馬に跨がり、槍を構えて恐れを知らずに敵へ突っ込むバナス家の重装騎士は「撃ち出された鋼の矢」と呼ばれ、クルクートにとって長きにわたり恐怖の存在であり続けた。
彼らの突撃は嵐のように敵へと襲いかかった。槍先がぶつかり合う雷鳴のような音は、しばしば前線の兵士たちに希望の響きとして聞こえたという。
こうして781年という長い時間を、クルクートと人間は戦い続けた。戦場では数多の英雄が生まれ、消え、互いへの憎悪を育て続けた。
バナス家とカビル家の活躍により、多くのクルクートの都市が陥落し、人間王国を絶滅させるために歴代最大の兵力を動員したクルクートとの決戦で大勝を収めたエステタ王国軍は、ついに長年の膠着状態を打破した。そして北西へ向かって、鳥人族が築いた小さな土侯国を一つずつ追い払いながら、数百年におよぶ戦争の末にクルクートを完全に駆逐することができた。
そうしてクルクートが追放された北の土地を「バナルド」と名付け、その地をバナス家に分封し、公爵の位を与えた。
南のウェイルドはカビル家に与えられ、その後、北の海カトクロウ海の島々に退いたクルクートを防ぐ「盾」の役割は、バナス家の責務となった。
人類の守護と開拓の象徴――ヴェス・ディナス。この大都市の奥にバナス家の城がある。ハセット山の中腹からヴェス・ディナスの旧市街地を見下ろす荘厳な公爵の城は、城自体に華美な装飾はないが、周囲の美しい自然と溶け合い、訪れる者に息をのむほどの絶景を贈る。
クルクートとの戦争中に生まれたこの城は、数多の都市や拠点、要塞の奪還・占領・陥落の歴史の中で、ただの一度も落ちたことのない城である。
*****
バナス家の城。武器庫とその隣の兵営を過ぎ、庭園のグリフォン飼育場と馬小屋を過ぎると、城の人々が毎日食べるパンを焼くパン焼き小屋が出てくる。厨房と食料貯蔵庫を過ぎ、その上階へ上がると、バナス家の客人たちが宿泊する客室がある。
高い天井と、柔らかな橙色の魔石灯が部屋を照らし、壁には過去のクルクートとの戦争での栄光の瞬間を描いた絵画や、家門の先祖たちの肖像画が掛けられている。
奇妙な魔獣の姿が彫られた背もたれの高い上等な装飾椅子と、それに合わせた暗色の胡桃の木の食卓が置かれている。
その高級な椅子を二つ占めて座っているのは、グラベルとイリスだった。
ヴェス・ディナスに到着するなり、街の様子を眺めながらディアラの馬車についてバナス家の城へ着いた二人は、直接感謝の挨拶をしたいというラタク・バナスの意向により、城の応接室に通されていた。
目を閉じて椅子の背もたれに体を預け、黙って考えごとをしているグラベルと、隣の椅子に座って部屋の中を見回し、壁に掛けられた絵画に視線を止めているイリス。
応接室のドアの脇で待機していた使用人が近づき、本分の務めとして二人に何か必要なものはないかと尋ねたが、イリスが柔らかな笑みを浮かべて「大丈夫です」と答えてほどなく、部屋の扉が開いた。
見慣れた青いローブのディアラと、ドアを開けた使用人二人、そして手に持てるほどの小さな魔石灯を掲げて先に入ってきた使用人の後ろから、身なりの整った男性が部屋に入ってきた。
整えられた茶色の髪、広い肩幅と引き締まった体躯の男が、座っているグラベルとイリスの姿を確認すると、明るい表情で二人を迎え、喜びを隠さぬ足取りで歩み寄ってきた。
「ようこそいらっしゃいました、グラベル様、そしてイリス様」
こちらへ歩きながら大まかな事情をディアラから聞いていた男は、二人が迎える挨拶に続けて自分を紹介し、グラベルとイリスの座る席へさらに近づいた。
「私はラタク・バナスと申します。ディアラからお二人のお話を伺い、名前は存じておりました」
「はじめまして、ラタク・バナス様」
「こんにちは、ラタク・バナス様」
二人の挨拶を受けながら、手で席に着くよう勧め、ラタクは腰を下ろした。そして顔を向け、一緒に入ってきた使用人に向かって軽く頷き、無言の指示を送った。
「エステタの文物にご興味がおありだと伺いました。そしてお助けいただいたことへのお礼もこちらに……」
ラタクの指示に従い、ラタクとグラベルの間に置かれたテーブルの上に、赤い封蝋に家紋が押された小さな白い文書一枚と、角が削られた小さな黄金の立方体がいくつか置かれた。
「ええと……こちらへお越しになる途中でお気づきになったかどうかはわかりませんが、この文書があればヴェス・ディナス大図書館の古文書室と資料室で、書籍や文書をご覧いただけます。そしてこの金貨は我が家の家紋が刻まれていますので、王国内であれば不自由なくお使いいただけるはずです」
テーブルの上の文書と家紋の刻まれた黄金の立方体を、掌を開いて指し示しながらラタクが言った。
「ありがとうございます。この文書はとても助かります。そしてこの金貨は……私たちと仲間たちがしたことに比べて、報酬が大きすぎるのではないかと心配です」
グラベルは目を輝かせて文書を見つめながら少し躊躇したが、気まずくなる前に、ラタクに向かって謙虚な感謝の言葉を述べることができた。
「いいえ。もっと大きな報酬をお渡しできないのが私も気になっていたくらいです。ちょうどよい心配の境界線で、お互いに留まることにしましょう。ところで、お二人のもう一人のお仲間が、赤い鱗のドロコだと伺いましたが……一緒に来られなかったのですか?」
「ええ、ニアでしたら馬車の護衛をしていた兵士の方々と、港近くの酒場へ行くと申しておりました」
ラタクの後ろに控えていたディアラが、グラベルに代わって答えた。
「ほう? それは残念ですね。ディアラ、君がドロコの話をしたので、イクスターンへ行ってからずいぶん時間が経ったなと思い出しました。どれほど変わったか、話でも聞こうかと思っていたのですが」
ラタクは椅子から体を向け、ディアラを見ながら会話を続けた。
「ご希望でしたら、別の日を設けてニアを呼びましょう。しばらくヴェス・ディナスに滞在されるとおっしゃいましたよね、グラベル様?」
ニアが旅の間中、しばらくはイクスターンに戻らずグラベルの旅に同行すると聞いていたディアラは、グラベルがヴェス・ディナスに留まる予定を確認するために、そう尋ねたのだった。
ディアラが一緒に旅をして短くない時間を過ごす中で知ったグラベルの性格から推し量ると、今こうしてヴェス・ディナス大図書館の古文書室の閲覧許可証まで手に入れた状況ならば、少なくとも冬が過ぎて次の春が来るまで、大図書館の蔵書を読みふける日々を送るだろうとディアラは思っていた。
「はい。そのつもりです」
「別に約束を入れなくても大丈夫だよ、ディアラ。どうせもうすぐ開かれるグランドトーナメントのことで迎えなければならない客人たちもいるし、会わなければならない人もいるから……そのニアという方との面会は、しばらく先送りにせざるを得ないな」
山のように積まれた予定を思い浮かべ、目尻を寄せてしかめ面をしたラタクがディアラに言った。そして席を立ち、部屋の片側の壁に向かって歩き始めた。
ラタクが向かった先には、壁一面を埋め尽くす大きな陳列棚があった。そしてその棚の中には、大陸各地の都市から集められた、大きさも形もさまざまな酒瓶が並んでいた。
「こうして少しでも息をつける時間があるうちに、一杯くらいはいただこうかと思うのですが、お付き合いいただけますか?」
陳列棚の中の酒瓶をざっと眺め、ラタクはグラベルに向かって言った。そして気分に任せて気に入った一本を取り出し、再び歩いてグラベルの座る席へ戻ってきた。
「はい。そうしましょう」
グラベルは笑顔で嬉しそうな声でラタクに答え、主人の意図を察した使用人たちが素早く動き、酒杯を探してラタクの後ろについた。
「では、しばらくはこのヴェス・ディナスに滞在されるとのことですので、私にできることがありましたら、いつでもお申し付けください」
席に着いたラタクは酒瓶の栓を抜き、すでにテーブルの上に置かれた銀の装飾付きの杯に、透明な液体を注ぎ始めた。
清涼感のある甘い柑橘系の香りと、小さな山の果実の香りが、酒杯の上にふわりと立ち上る。
短く与えられた休息の時間、飲む者の苦しみを削ぎ落としてくれる酒は「生命の水」と誰かが呼んだ言葉を思い浮かべながら、杯を口元へ運ぶ。
「ふむ……普段はあまり楽しまない酒ですが、今日は美味しく感じますね。領内に父上が蒸留所を作ろうとしているのも、納得がいきます」
ラタクは杯から優しく立ち上る香りを嗅ぎながら、グラベルに言った。
「ディアラから聞くところでは、剣術だけでなく魔法にも長けているそうですね。興味がありますよ。時間が許せば、その腕前を一度拝見したいくらいです」
「ディアラ様が私の実力を過大に評価してくださっているようです」
「ははは。謙虚ですね。謙虚さは弱さや臆病さ、または恐れの表れではなく、何かを隠そうとする悪意でもないと、私も学んでいます。むしろ内面的な強さを示す、真の力の現れだとも」
「そうおっしゃっていただけて嬉しいです」
「では、もう少しお付き合いください。食事もご一緒したいところですが、もうすぐまた文書の山に埋もれて日が暮れるまで過ごさねばならないので、それができないのが残念です」
ラタクは文書を見すぎて疲れた目を閉じ、指先で眉間を揉みながら言った。そして短い休息がもたらす安らぎに、椅子の背もたれに体を預けて長いため息を吐いた。
こうして二人の会話は、ラタクの短い休息に合わせて続いていった。
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