88話 シャックル・ドーン (Shackle Dawn)
ヴェス・ディナス。ラヴィルーン大陸の人間王国群の中でも、大陸中央を占めるエステタ王国、そしてその王国北西に位置する二つの地方のうち北側であるバナルド地方を支配するバナス大公爵の城がある都市である。
バナルド地方は北に大海カトクロウ海と接し、南にはレバドスの大平原が広がっている。その草原のさらに南には、もう一つの公爵領であるカビル家領があり、ここをウェイルド地方と呼ぶ。ウェイルドの中心にはカビル公爵領の首都カロブディフがある。ウェイルド地方は東西をそれぞれロウィン山脈とノルワン山脈に囲まれ、南はペストロナク山脈と接している。
このように三方を険しい山脈に囲まれ、残る一面は海に面したこの地域は、エステタ王国の北西部に位置する辺境の地でありながら、広大な領土と豊かな資源のおかげで、王国内のどの貴族領よりも裕福な土地だ。
ただ、王国の端に位置し、中央部への進出が難しいため、孤独で孤立した土地でもある。バナルドとウェイルド、この二つの地域に入る道は二つしかない。一つは東のロウィン山脈を越えたトリステン侯爵領ティスロ地方北部の港から船に乗る海上路、もう一つはロウィン山脈南端とペストロナク山脈東端の間、バラモア伯爵のラスワビ地方を通る狭い峡路だ。
まとめると、北のバナス公爵領は山脈を迂回する海上路で、南のカビル公爵領は二つの山脈の間の狭い道で、王国の他の地域とつながっている。
地理的な理由で隣り合う領地の主同士が仲が良いことはほとんどない。長く一緒にいるうちに衝突することが多いからか、あるいは二つの領地を治める家系の間で起きた一つの事件がきっかけとなり、その恨みと感情が連鎖するケースもある。
王国の諸家の前例に従うように、バナルドとウェイルドをそれぞれ支配するバナス家とカビル家も、いつからだったかも思い出せないほど長い間、互いを敵視してきた。
こうして二つの家系がお互いを宿敵と見なし、長き時を過ごし、二人の公爵とそれに従う多くの貴族家が、三つの山脈と海に囲まれた土地で南と北に分かれ、向かい合う形となった。いつ頃からか、エステタ王国の人々はバナルドとウェイルドという本来の名称の代わりに「二頭の獅子の穴」と呼び、略して獅子穴と呼ぶようになった。
バナルドの獅子、バナス公爵家最大の都市ヴェス・ディナス。大陸北部の広大な海カトクロウ海に面した海岸にある大都市だ。
エステタ王国の首都ドラスナァルに引けを取らないほど繁栄した都市ヴェス・ディナスは、東に天然の自然城壁であるロウィン山脈、北に岩石海岸のガノス湾、西と南にはエステタ王国の歴史上最も遅く開拓された土地でありながら、バナルド地方の豊かな資源と途方もない物資生産量を背景に築かれた堅固な城壁が都市を守っている。
そして南の城壁と西の城壁が交わる都市南西部には、ヴェス・ディナスを「難攻不落の都市」と呼ぶ最大の理由である、高さ90キュビト(45m)の巨大な城壁塔がある。
その規模はすでに常識を超えており、単なる「塔」というより一つの要塞と呼んでも遜色ない巨大な防御施設だ。
このヴェス・ディナスの巨塔を背に、南側から都市を眺めると、まずヴェス・ディナスを訪れる者を迎えるのは南城壁前の新市街地だろう。
城壁前の新市街地はヴェス・ディナスの継続的な拡張で自然に生まれたもので、主に王国からの移住者の流入で必要が生じてできた居住区と、ヴェス・ディナスを中心にエステタ王国北部やエルフ王国、コバルト群島などカトクロウ海の海上交易路を中心に活動する商人ギルドの拠点、そしてその下にある小さな商人たちの倉庫や商店が並ぶ商業区で構成されている。
都市へ向かう平らな石畳の整えられた凱旋路を進み、道の左右に数百の家屋と建物の煙突から空へ立ち上る白い煙を眺めながら歩くと、ヴェス・ディナスの南城壁の門が見えてくる。
黒い獅子の門とも呼ばれるこの門は、漆黒のような黒色を出すコバルト群島のロベロ樹の根を焼いた染料で作ったタイルを貼って装飾してある。
城壁の頂上には黒い獅子の彫像が門の外を睨むように立てられ、その下の壁のあちこちに金箔で飾られた獅子の姿が刻まれている。
黒い獅子の門をくぐり、続く凱旋路を都市の中心へ向かって進むと、門をくぐった者に最初に目に入るのは右側に高くそびえるハセット山と、その下に濃い緑で満ちたバナス大公家の森だろう。そしてその森を過ぎ、都市の中心へ続くレンガを積み上げた巨大な水路柱も見えてくる。
柱の上にはハセット山の水源からヴェス・ディナスの旧市街地へ水を供給する水路がある。
道の左側は右側とは違い、広い野原と農地が広がり、遠く西の城壁まで視界が開けている。
そのまま道を進むと都市の旧市街地が見えてくる。
古い歳月の痕跡が見える建築物と、先ほどの都市外郭の静けさとは全く違う賑やかな通りが現れ、都市の中心から少し東に寄った十字路が現れる。
十字路の東側にはハセット山の麓を平らに整えた上に建てられたバナス家の城、西側には道沿いに並ぶ数十の商店があり、十字路の北へ進むと船乗りたちの居住区が出てきて、その通りを過ぎさらに進むと海岸に位置する北城壁とその向こうのガノス湾が見えてくる。
再び都市中央広場の四つに分かれる道の中心に立ってみると、北東には兵営がある軍事地区、その下の道を越えた南側には他の場所とは違い大きくて整った庭園と精巧に彫られた美しい彫像がある富裕貴族と大商人の邸宅が並んでいる。
中央広場の北西には、大陸の知識をすべて網羅しようという意志で建てられたヴェス・ディナス大図書館がある。
ここは王国辺境の知識と学問の中心地とされるほどの大規模な建築物だ。
大陸各地から種族を問わず招かれた学者300余名が執筆した文書が保管されており、多様な分野の学者たちが常駐して研究と教育活動を行っている。
また、本を読んで固くなった体をほぐせる庭園、閲覧室、講義室、会議室なども備わっている。
ヴェス・ディナスが誇る大図書館の他にも、都市の重要施設として北東の隅、ガノス湾の東端には数百の倉庫が連なる港がある。港の最も東側にはブライト・ホーク岬と名付けられた場所に立つ東灯台が、港前のバス海峡と海峡の向こうに造船所が集まるファリア島を照らしている。
数十隻の船が浮かぶ港前のいくつもの大小の通りに、都市の中心旧市街地や城壁外の新市街地と同じくらい多くの人々が通りや路地を埋め尽くしている。
エステタ王国北西部で最も繁栄する都市ヴェス・ディナスは、依然としてその繁栄と豊かさに満足せず、成長を続ける活気が止まらず、衰えを知らない都市として、人間種族の優れた開拓力を垣間見せる街である。
*****
遠くから聞こえてくる波の音が、港の人のざわめきに混じって小さく響いてくる。数十隻の船が錨を下ろして浮かぶ埠頭では、滑車に巻かれたロープのきしむ音と、荷物を早く運べと急かす男の叫び声がうるさく響いている。
滑車を足で踏んで上げるたびに鳴る巨大な装置のガタガタという音、そして埠頭をふらふらと肩を組んで歩く船乗りたちの陽気な歌声が耳を満たす。
埠頭から少し都市の方へ入った小さな路地の奥に、独特の音色の弦楽器と軽快なリズムの小さな太鼓の音が笑い声と混じって流れ出す場所がある。
シャックル・ドーン(Shackle Dawn)酒場。「訪れる客を酒で酔わせて夜明けまで店から動けなくしてやる」という主人の野心的な抱負で開いた酒場だ。
酒場の内部を明るく照らす油ランプが見え、その下では陽気に大声で笑いながら会話を交わす一団の客がいる。ごわごわの髭、油を塗って梳いた髪、身に着けた古びた鎧がガチャガチャと音を立て、手に持った丸くて太い酒杯を高く掲げて豪快に笑う男の姿が見える。
「ははは! どうだ? このシャックル・ドーンの農魚蒸しの味は?」
「騎士様のおっしゃる通りです。この白いスープにふわふわの農魚の身の味が最高ですね!」
「おいしいだる。」
「あ、おい! ニア、ちょっとゆっくり食べろよ。」
「リブが遅いのだる。」
リブとの会話を終えたニアが、手に持ったフォークでテーブルの上の農魚料理の身を大きくすくい、口いっぱいに詰め込む。
「たくさん食べろよニア! ふふん……いや、俺が言うのもなんだけどな。お前ら二人が食事代を出すって約束の席なのに。」
「いえいえ! 大丈夫です。騎士様もたくさん食べてください。こんなに美味しい農魚料理のあるいい酒場を紹介してくれたんですから、このくらいは僕らが払いますよ。」
リブが腰に下げたたっぷり入った財布を撫でながら、満足げな笑みを浮かべてレーベンに言った。
「おい、聞いたか? 今日の飯代は俺が払うんだから、めっちゃ、めっちゃたくさん、感謝しながら食えよニア。聞いてるか? な?」
隣に座るニアを肘で突きながらリブが言った。
「おいしく よく~ 食べ た よ だる! リブ!」
「うわっ! ニア! 口に食べ物入れたまま喋るな!」
自分の顔に向かって飛んでくる大量の食べ物の破片を両手で防ごうとするリブがニアに叫んだ。
「それで騎士様は明日ヴェス・ディナスを離れるんですか?」
激しく牽制し合いながら食べ物を突っつくリブとニアをなんとか無視してケインがレーベンに尋ねた。
「ああ。明日朝早く出発してブクレまで行く予定だ。そして二週間後に控えたグランドトーナメントに出なくちゃいけないから、それまではヴェス・ディナスに戻ってくるつもりだよ。」
「おお! もうトーナメントの時期なんですね。しばらく都市を離れていたので忘れていました。」
「ふっはは! そういうこともあるさ! まあ、俺みたいに長年旅を続けていると、逆に季節や日付をよく覚えるようになるんだがな。」
「時間が許せば騎士様の試合を応援しに行きますよ。」
「おお~ 応援してくれる人がいると嬉しいな!」
「トーナメント? 私も応援しに行くだる。」
口いっぱいに食べ物を詰めたままのニアがレーベンに言った。
「赤い竜の応援があれば、俺とレスカが優勝する可能性がぐっと高くなるな! 今年はもっと気合を入れて臨まなきゃな。」
「ニア、お前も出てみろよ。馬上槍試合以外に決闘大会もあるんだから。」
リブは自分の前のパン一つを取ってニアに差し出しながら言った。
「考えてみるだる。イリス師匠が許可してくれないと大会に出られないと思うだる。」
相変わらず忙しなくテーブル上の食べ物をフォークで突きながらニアがリブに答えた。
「くはっ! 夜風の吹かない席での酒はすぐ体が温まるな! もっと飲め、もっと食え! 明日からは兵営に戻らなきゃいけない憂鬱な俺のために、思う存分飲んでおくぞ。」
「明日のあんたは二日酔いで苦しむんだろう。ほどほどにしろよリブ。」
酒の入った杯をリブから遠ざけながらケインが短いため息をついて言った。
「じゃあこの最後の杯を、明日には再び旅路に立つ騎士様と、長旅の末にヴェス・ディナスに戻ってきた俺たちの喜びを、一杯の酒に込めて祝福しよう!」
リブが遠ざけられた杯を再び掴み、腕を頭上に力いっぱい掲げて叫んだ。
「そう言うなら仕方ないな……」
「うおおん!」
「ありがとう! ブクレまではすぐに往復してくるよ! そしてまたここに集まって酒を飲もうぜ!」
三人の男とドロコが掲げた酒杯がテーブルの上で空中でぶつかり合う。
続いて聞こえてくる笑い声、酒場の主人に向かって酒と料理をもっとくれと叫ぶリブの声、そんなリブを止めようとして諦めたケインのため息。
ヴェス・ディナスの港の小さな酒場の中で、縁の鎖で互いを結び、夜明けが訪れるまで四人の酒杯は止まることなく傾けられた。
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