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76話 農園 (9)

農園の日常は忙しい。隣人だった誰かが故郷に帰る途中、原因不明の理由で消えたとしても、収穫すべき果実が、雑草を抜かなければならない畑が、餌をやり水をやらなければならない動物たちが、農園の働き手たちの手入れを待っている。



それでも比較的、仕事を少し明日の自分に任せられる余裕のある人たち、伐採に出かけたり狩りをしたりして森に慣れた人たちは、ワレンの馬車が発見された場所を中心に、それぞれが区域を分担してワレンの捜索に出かけた。



それ以外の農園の他の人たちは、一日の仕事が終わってから、ようやく先送りにしていた消えた隣人の心配と悲しみを誰かに預け、話を分かち合える。時には馴染みの日常が安らぎを与えることもあるが、こんな時にはそんな忙しい日常が、予定のある農園の働き手としての生活が嫌になる。



そうして時間が過ぎ、空の上にあった太陽が二つの月に変わり、農園に再び夜が訪れた。農園の皆が自然と日が沈むと集まるロングハウスから少し離れた湖の近くに、グラベルが目を閉じて座っていた。



『ううむ…そろそろきつくなってきたな?』



今では日課となってしまったマナ脈の循環修練(じゅんかんしゅうれん)。座っている場所の前に、マナ脈の位置が描かれた本の1ページを広げて置いたまま、グラベルが修練中だった。



グラベルの体内で増幅されたマナが、猛烈な勢いで制御を外れようとするように、グラベルの周囲にその気配を放っていた。



『もう少し…もう少し…』



獰猛な勢いのマナがグラベルの体から放出された。グラベルから噴き出したマナが、嵐の日の波のように外に向かって伸び、曲がって再びグラベルに向かって戻ってくる。



噴出されるマナを抑え込んで制御すると、グラベルが座っている場所周辺の空間が曲がり、歪む。



『限界まで追い込んで…!』



さらに激しくマナの気配がグラベルの体から噴き出す。



数千、数万の糸のように見える精錬(せいれん)されていないマナの気配が生じると、それらの気配をグラベルが再び自分に引き戻し、まるで複雑な結び目が絡み合ってグラベルの体を包む形となった。



「グラベル様…でしたよね? ディアラと一緒にいらした…」



修練に集中していて気づけなかった馴染みのない声が聞こえてきた。自分に誰かが近づいてくるのを察知できなかったグラベルが、素早く体外に放出されるマナを収め、自分を呼ぶ声の方向に向かって立ち上がり、振り返った。



「はい。そうです」



月光に照らされ、銀色の美しい糸のように見える散らばる金髪の女性、微笑みながら細く開けた目さえも魅惑的(みわくてき)に見えるリシアが、グラベルにゆっくり近づいてきた。



バイオレット色の瞳が見える大きな目の端に向かって軽く上がった口角の微笑みを浮かべていた。



湖畔に吹く小さな風がリシアの額を(かす)めて過ぎると、細い彼女の一つの手で乱れた髪を()き、整えようとした。



「もう風が冷たくなりましたね。山の下の農園だからか、寒さは他の季節より早く訪れるようです」



互いの声がよく伝わる距離まで近づいたと思ったリシアが、湖に向かって体を向け、湖に映った月を眺めながら言った。



「ええ。最近プロイクトンにいた時よりは冷え込んできたようです」



「ああ、ディアラとはプロイクトンで出会ったとおっしゃっていましたね? カビル家から送られた…」



「はい。私の仲間とトルに向かう途中で、グリックという者が率いる集団と出会ってディアラさんをお助けすることになり、その後ヴェス・ディナスまで石像を運ぶのを手伝うことになりました」



「では、もう一度お礼を言わなければなりませんね。おかげでディアラと石像がこの農園まで無事に到着できました」



リシアが両手を合わせて胸に当て、目をじっと閉じてグラベルに感謝の挨拶をした。



「そんなに礼を言われるほどの大きなことをしたわけではありません」



「ふふ。もう言ってしまったんですよ?」



「あ…。では…」



リシアの言葉にグラベルが躊躇(ちゅうちょ)して頭を掻くと、リシアが数歩さらに近づいてグラベルに寄ってきた。



「グラベル様は、冗談混じりの会話がお得意じゃないんですね?」



「はは…。そうみたいですね」



グラベルが目を細めて微笑み、リシアが困惑したグラベルの表情を見て、にっこり微笑んでいた。



そうしてしばらくリシアとグラベルの会話が続いた。



「寒いですね…会話は楽しいですが、このまま留まって話し続けるには、リシアさんのおっしゃる通り風が冷たすぎるようです」



「そうでしょうか? 私はこのままグラベル様とお話して夜を明かしても構わないんですけど…私との会話が退屈で、風を口実に私を帰そうとしているんじゃないですか?」



リシアが口元に微笑みを浮かべながら眉間を寄せ、いたずらっぽい表情でグラベルに尋ねた。



「そんなことはありません…。はは…」



「分かっていますよ~。私も夜がさらに遅くなる前にしなければならないことが思い浮かんで、そろそろ帰ろうと思っていたんです」



リシアが湖畔に吹く風で乱れた髪を梳きながら言った。グラベルが軽く頭を下げてリシアに挨拶した。



リシアもグラベルに微笑みと手の仕草で挨拶を返し、農園の方向に向かって体を向け、歩き出した。






*****



サラサラ。サラサラ。小さな茂みを過ぎる風の音が聞こえる。夜の番人であるフクロウとミミズクが、光を避けた眠りから目覚め、自分の領域に入ってきた見知らぬ訪問者に警告の鳴き声を上げていた。



『そろそろこの辺でいいかな…?』



グラベルが月光の入らない暗い木の下で歩みを止め、周囲を見回す。



マナの循環修練をしながらふと頭を掠めた考え。感知魔法(かんちまほう)の原理を応用してマナを放出する新しい探索法を実行してみようという思いが、グラベルの足を農園に向かわせず、彼をさらに深い森まで連れてきた。



『やはり座ってやる方が集中しやすいな。慣れれば動きながらもできるだろうけど…』



グラベルはそのまま木の下に座り、背を木に預け、マナの循環修練をする時と同じように楽な姿勢を取る。



「ふううう…」



グラベルが体内深くから息を集めて吐き出す。そしてマナを循環させる。



互いに繋がって呼応するマナの脈を伸ばしていく。多くの時間を修練に費やした結果、今では20個以下のマナ脈の接続と循環は、それほど長くない時間で発現させられる。



短い刹那の瞬間、グラベルの周囲の空気が波動(はどう)し、鋭い勢いで周囲に向かって伸び、再びグラベルに向かって吸い込まれた。



「......」



息を吸い、吐く音さえ聞こえないほど静かな呼吸をし、周囲に最大限薄く長く引き出した糸のように想像しながら、数十、数百、数千の糸。数え切れないほどの多くのマナの糸を広げた。



細いマナの糸がグラベルの体から伸びていく。そして伸びたマナの糸が周囲の木に触れる、岩に触れる、木の上太い枝に座って鳴いているフクロウに触れる…。すると、霧の中で見えなかったグラベルが座っている周囲の森の中の全ての物体が一つずつ認識され、鮮明に見え始めた。



『うむ…いくら多くの糸を伸ばしても、その間に隙間ができてしまうな…』



再びグラベルが目を閉じて精神を集中した。



『伸ばしたマナの糸を薄く…広く…広げれば!』



グラベルの周囲がさらに鮮明に頭の中に認識され、見えた。風に飛ばされて木々の間に落ちる小さな葉っぱが目の前にあるように見える。広く伸びたマナが触れた全てが見える。形容(けいよう)しがたい感覚がグラベルに伝わり始めた。まるで周囲の森にある全てを同時に見ているような感覚だった。



その周囲全ての形と動きが感じられ、新しく習得したもう一つの感覚にグラベルが適応している頃だった。



『ん? これは…』



新しいマナの応用法に喜びも束の間、伸びたマナの最も遠い端。森の奥深くから、森のどんなものとも馴染まない異質な気配が捉えられた。



『なんだ? こんな気配は以前に感じたことがないのに』



グラベルが目を閉じたまま頭を一度傾げ、眉間を寄せて捉えた異質な気配に向かって広げたマナを集中させた。



凶々(まがまが)しく暗い気配だった。これまで対峙した相手から感じた単純な殺意や怒り、敵意、多くの言葉を頭の中に広げてみたが、それに合う言葉が見つからなかった。



そしてその暗い気配に囲まれて気づけなかったものが見えた。



破れた外套の中の枯れた腕と脚、ぱさぱさで勝手に伸びた髪の毛、凶々しいオーラに囲まれていたが、グラベルは一目でそれが誰か分かった。



『ガラドさんだ!』



グラベルが動いた。『なぜガラドさんが森の床にこんな姿でうつ伏せになっているんだ?』『なぜそんな分からない黒い気配に囲まれていたんだ?』疑問に思う間もなく、グラベルが座っていた場所から消えるように見えるほど速く動き、森の奥深くに向かって進んだ。



グラベルの姿がぼんやり見えるほどの速い動きだった。普通の人なら一歩踏み出す短い瞬間に数十本の木を過ぎるほどの速さだった。



そんなグラベルの動きを追って木の下を過ぎる強い風が、遅い夜の森の中の静けさを破って後を追った。



「ガラドさん!」



森の短く生えた草の上にうつ伏せになったままのガラドに向かって、グラベルが叫びながら駆け寄った。



急いで名前を呼んだが、床に倒れているガラドの姿はすでに生命の兆しなど見当たらない状態だった。



『この痕跡は…魔獣か? 狼にしては大きすぎるが…』



森の床に倒れているガラドの姿は惨たらしい。腕と脚は爪か鉤爪(かぎづめ)かも分からない鋭い物体に引っ掻かれ、引き裂かれた傷が、体躯(たいく)は肩の一方が大きく噛み千切られて落ちた痕跡が見え、脇腹からも大きく噛み裂かれた痕跡が見えた。



体のあちこちに巨大な口を持つ何かに噛み千切られた跡があった。



『腰元の兎が魔獣を呼び寄せたのか。だがこの程度の痕跡を残す魔獣なら、以前大市場で見たスクリーチャーかもな』



少し前グランドマーケットの闘技場で見た、体躯に大きな口がついた怪物の姿をグラベルが頭の中に思い浮かべた。



『しかしスクリーチャーがこんなに醜悪(しゅうあく)な気配を持つ怪物だったか?』



少し前に遠くから見たスクリーチャーから経験した気配とはあまりにも違うオーラがガラドの傷から感じられた。



『外見が似た種か…私が知らない種類の怪物かもな』



考えが多くなる。不運な事故? そう思うにはガラドとは違うが、森で消えたワレンという人がいる。



消えたワレンとガラドの死…。そして分からないぞっとする暗い気配の痕跡。月光さえ入らない暗い木の下にグラベルが立っている。そして少し頭を下げてガラドの死体をしばらく見つめる。



「苦しかったと思います。短い時間でしたが互いに知り合っていたので、つい昨日まで挨拶を交わしていたのに…これ以上時間を共に過ごせないのが寂しいです」



グラベルが少し頭を下げ、ため息のような短い息を吐き、再び頭を上げた。



「ですが、まだ悲しむことはできません。何が起きたのか突き止めます。そしてガラドさんが感じた痛みについては、きっちり返してあげます」



独り静かに呟いていたグラベルがガラドの死体に向かって手を伸ばし、魔法陣一つを具現化(ぐげんか)した。そしてそれに続いて魔法陣の光が明るく輝いた。



すると光が魔法陣の光が消えた場所の土がうねり、土の壁が地から湧き上がってガラドの死体を覆った。



もしかすると他の森の野生動物がガラドの死体を損傷(そんしょう)するかもしれないので、それを防ごうという思いで魔法を発動したのだった。



『かすかにガラドさんを攻撃した魔獣の気配が続く道が見える。いつ消えるか分からないから急がなければ』



再びグラベルが周囲にマナを放出して森の床に小さく散らばった悪の欠片を追って森の内側の奥深くに向かって歩いた。

次回の展開も、どうぞご期待ください

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