66話 ラチャ湖
ニアが合流した後、ディアラの馬車がグランドマーケットを発って十字路の北側の道に上がってから、二日目になった日だった。運よく草原を横断する遊牧民に出会い、羊を一頭買ってニアのための小さな歓迎会を開くことができた。
遊牧民たちが大きな木の樽に詰めた馬乳を使って作った酒も快く分けてもらえたおかげで、歓迎会という名にふさわしい体裁を整えることができた。
その後、再びディアラの馬車は数日間、草原の上を横断して移動し、草原の北端に到着した。
そうして草原を抜けた一行を迎えてくれたのは、赤褐色の巨大な木々が育つ森だった。馬上から首と体を大きく後ろに反らさなければ木のてっぺんがかろうじて見えるかどうかの高さの巨木たちだった。
巨人の国に来たかのように、眺める者をあまりにも小さく感じさせる、天に向かって高く伸びた木々に視線を奪われながら、森の奥へとディアラの馬車が進んだ。
「神々の世界で育っていた木が人間たちの世界であるここに落ちて育ち始め、やがて大陸のあちこちに広がり始めたそうです。神の木に名前を付けるなんて畏れ多いので、人々はその木々をただ『赤い木』と呼ぶのだとか。」
馬車の周囲を首を上げてぼんやり眺めているニアに、ディアラが言った。
「うおぉん……こんなに大きな木は初めて見たんだる……。」
「この森の中心にある一番大きな赤い木は、200キュビト (100m)を超える高さだって言われています。2000年以上の歳月を生きてきた木で、今私たちの周りにある赤い木々の3倍は大きいと想像すればいいです。」
ニアはディアラの説明を聞きながら、目を丸く大きく見開いてディアラに集中していた。馬車の横で馬に乗って進んでいたグラベルは、ディアラの赤い木についての説明を聞きながら、今では慣れたのか、馬上からペンを持ち、馬車を囲む赤い木々とその間を通る馬車と馬に乗った一行の姿を描いていた。
「ディアラ様、今日はじゃあラチャ・ワリアまで行くんですか?」
ケインが馬車の近くに馬を寄せて近づき、ディアラに尋ねた。
「いえ。日が沈む前にラチャ・ワリアの反対側の湖まで行って野営します。そしてラチャ・ワリアからラテラ山を回る道じゃなく、ラテラ山を通る道で行くつもりです。」
ディアラの言葉にケインは何の反応もできず、時間が止まったように動かなくなった。そして頭の中でディアラの言葉を何度も繰り返した後、状況を把握して再びディアラに言った。
「そんな険しいラテラ山を準備もなくどうやって越えるおつもりですか? しかも私たちのドロコのニアは寒さに弱いのに。」
「私は大丈夫だる、荷物袋の中にムールムックの毛皮の服があるんだる。」
ディアラの会話を横で聞いていたニアがケインに言った。
「こほんこほん。とにかく無茶ですよ。準備が足りません、ディアラ様。」
ケインが空咳をしながら、リブに片目をウィンクして助けを求める顔を見せた。
「うん。ケインの言う通りだよ。だったら数日かかってもラチャ・ワリアから山を回る道で行きましょう。」
リブがケインの横に馬を駆って近づき、ケインの言葉に力を貸した。
「心配しないでください。ラテラ山の下にある隠れ月騎士団の農園に行くんです。あそこを通ればむしろ森をより早く抜けられます。山を越える時も一番緩やかな稜線を越えるから、思ってるよりきつくないはずですよ。」
これから来る厳しい山行が心配なリブとケインの声とは違い、落ち着いた調子の声で二人にディアラが答えた。
「農園があるんですか?」
「え? 農園ですか?」
二人が驚いた声でディアラに尋ねた。
「ええ、新しい農法と作物たちを研究する小さな農園ですよ。おそらく2日後の午後くらいには到着できるはずです。」
「はい! じゃあ日が沈む前にラチャ湖に行きましょう。グラベル様、先日見せてくれたあの釣り竿を使うチャンスですよ! ラチャ湖は大きな鱒が多いことで有名なんです。」
リブが馬車の反対側で走っていたグラベルに向かって笑いながら言った。
「はは。頑張ってみますよ。」
グラベルは薄く笑いながら、リブに答えた。
*****
同じ日の午後。日が沈む前で空が赤く染まっていた。ラチャ湖畔に到着した一行の周囲に生い茂る、天に向かって高くそびえる赤い木々の間を、小さな風が野営の準備中の一行に向かって吹いていた。
湖の横に馬車を停め、その横では夕食の料理に加えるキノコとハーブを探しに周囲の森に行く前にリブとケインが焚いた焚き火が明るい光を放ちながら燃えていた。
プロイクトンから今いるラチャ湖に到るまで一緒に旅して過ごした時間が長くなるにつれ、今では各自の役割が何かを知り、それを終えた後には与えられた小さな自由時間を過ごして一日を終えるのが、旅しながら毎日変わる道上の風景とは違い、お互いに慣れた様子だった。
一日中ディアラの横に座ってマナ脈の位置と名前を覚えていたニアは、馬車が停まるとすぐに森へ駆け出し、薪に使う木の枝を腕いっぱいに抱えて戻ってきて置いた後、イリスに近づいて剣術を教えてほしいと言った。
ディアラは馬車を停めた後、一日中馬車を御して固まっていた体を伸ばし、焚かれた焚き火のそばに座ってグラベルが教えてくれたフォックスフレイムの魔法陣を細い木の枝を使って地面に描き入れながら、新しく覚えた魔法を勉強していた。
グラベルは湖の方へ突き出た地形の上、大きな岩の上に座っていた。グランドマーケットで大金を払って買ったウィヴル・ネストの木で作った釣り竿を垂らし、静かに釣りに集中していた。
餌のミミズが手に入らなかったので、適当な小さな干し肉の欠片を釣り針に刺して釣り竿を振り、遠く湖の方へ投げ入れてその場に座った。
カチカチという音がして適度に歯車リールを回して釣り糸を巻き取り、糸をピンと張った。
沈みゆく陽の光に湖の表面もその色に染まって赤く見えた。岩の上に座って水面に浮かぶ色付きの小さな木の浮きを、グラベルが集中して見つめていた。
「うーん……。やっぱり干し肉の欠片じゃダメなのかな?」
グラベルは片膝を立てて岩の上に斜めに座り、釣り竿を軽く握った手で穏やかな水面を眺めた。もう片方の手は顎を支え、ささいな波にも揺れる浮きを凝視しながら深いため息をついた。
『誰が釣りはのんびり時を釣り、煩悩と雑念を捨てる行為だなんて言ったんだ……』
かえって雑念と悩みが増えた。『餌を変えてみようか?』、『針は合ってるサイズかな?』、『もう一度投げてみようか?』目をぱちくりさせて浮きを眺めているグラベルの心の中がひどく複雑になった。湖を渡る風に運ばれた小さな波がグラベルが座っている岩の下の水辺に触れてチャプチャプという音を立てた。
様々な悩みに包まれ、眺めていた浮きに向かって再び長いため息をつこうとした時だった。
濃い青色の小さな鳥が一羽近づいてきた。体躯に比べて大きな翼を折りたたんで軽やかに着地した鳥が、グラベルのそばに寄ってきた。
グラベルの周りをちょこちょこと歩き回っていた鳥が、一匹も釣れた魚がいないのを確認した後、再び翼を広げてグラベルが釣り竿を垂らして座っていた岩から湖上の空に向かって飛んで行った。
『ごめん……。初心者釣り人だから、盗まれる魚すらないんだ……』
グラベルが水面に映る陽が眩しくて目を細め、去って行く鳥の羽ばたきを見ながら短いため息をついた。
遠くに停めた馬車の横の広い空き地では、イリスとニアの剣術訓練が本格的に行われているようだった。剣がぶつかる音と土を踏む音、ニアの気合の声がグラベルが座っている場所まで聞こえてきた。
グラベルが再び集中して水上の浮きを睨みつけた。
「え? 今浮きが?」
水面に小さな波紋が起き、水に浮かぶ浮きが動いていた。
「引くべきかな?」
迷いもつかの間、グラベルが釣り竿を上げた。
「おお! なんか掛かったみたい!」
釣り竿からパタパタという抵抗感が感じられた。でもそんな抵抗も長く続かず、グラベルの釣り針に魚が一匹掛かって上がってきた。二スパンにも満たない長さで、背側は濃い藍色、腹側は銀白色の脇腹には濃い暗褐色の斑点がある。
「これが鱒……なのかな? 似てる気はするけど……。」
岩の上でパタパタと暴れながら動いている魚の姿を眺めながら、グラベルが独りで悩んでいた。
「食べられるよね? 一匹じゃ足りないから、もっと釣らなきゃ。」
グラベルが針に肉干しの欠片を刺して再び湖に向かって釣り竿を振り、湖の水中に釣り針を沈めた。
最初に釣り針と浮きを湖に投げ入れた時より、さらに遠くへ飛んだようだった。
空が釣りを始めた時より暗くなり、濃い赤色になった。
ケインとリブが森から戻ってきたのか、グラベルの耳に二人の声が聞こえた。遠くからリブがグラベルに向かって頭上で手を大きく振って挨拶した。そして少し後、
「どうですか? ちょっと釣れました?」
リブが素早く歩みを移してグラベルに近づきながら言った。
「一匹釣れましたよ。はは……。」
グラベルが指一本をリブに見せて答えた。
「お? 鱒ですね? ちょうどケインと森で野生のニンジンとアンズタケを採って来たので、一緒に料理して食べましょう。何匹か。このくらいの適当なサイズでさらに釣ってくれれば……。」
リブがグラベルが座っている岩の上に歩いて来て、釣り上げた鱒の前にしゃがみ込んで鱒を見下ろしながら言った。
「はは……。頑張ってみますよ。」
リブに笑って答えたグラベルが、再び湖上に浮かぶ浮きを集中して眺めた。
少し経つと、水面上の微風が水に浮かぶ浮きを揺らした。
「うーん?」
吹いてくる風に揺れるのではなく、微妙に違う様子で動いている浮きを見て、グラベルが目を大きく見開いた。再び眉をしかめて浮きを睨んだ。
「グラベル様! あれ今食いついてるんじゃないですか!?」
「そうかな? 微妙に動いてて……あ、うわっ!」
-ズルズルズル-
グラベルが言葉を言い終える前に、強く釣り竿を引っ張りながら歯車リールに巻かれた糸を解き放っていた。
「うわぁっ!」
待ちの美学、時間を流し歳月を釣る行為が釣りだと思っていたのに、投げ入れた釣り針はそんな釣りという行為を表す他の全ての言葉を無視するかのように魚の口の中に入り、グラベルの釣り竿を折れんばかりの勢いで曲げていた。のんびりさとはほど遠い力と力の対決。命を釣ろうとする釣り人と命を守ろうとする魚の対決。グラベルが知っていた釣りの常識とは違う状況が訪れた。
「大きな奴ですね? うお! 釣り竿の曲がり方見て!」
重い力が水面の下の釣り糸の先から引っ張る魚から感じられた。
いつの間にか釣り竿を握って立ち上がったグラベルが、一方の手で歯車リールからこれ以上釣り糸が出ないように押さえ、もう一方の手で水面に向かって曲がった釣り竿を握っていた。
『うわ! これ折れるんじゃない?』
高価なウィヴル・ネストの釣り竿が万一折れるかと、グラベルが水面を素早く動く釣り糸と曲がった釣り竿を交互に見ながら、水中に釣り竿を引っ張る魚との力比べを維持していた。
『いっそ魔法を使って……。いや、純粋に楽しもう。せっかく趣味にしようと思ったんだから……。』
一瞬魔法を使って今の力比べを終わらせようかとも思ったが、すぐにその心を折り、釣り竿を強く握り直した。
「少しずつ歯車リールを巻いてみてください。それでも最初より力が抜けたみたいです。」
「はい!」
グラベルが膝を少し曲げて上体を後ろに反らし、歯車リールを巻いた。
-ドゥク。ドゥク。ドゥク-
歯車リールが巻かれ、グラベルがそれと同時に釣り竿を引き、何度か繰り返すと水中の魚とグラベルの距離がだんだん近づいていた。
「うわぁ! あいつの頭の大きさ見て! 見た? すごい大物ですよ?」
濃い栗色の魚が水面を叩いてチャプンという音を立てながら姿を現した。
「うっ! 釣り竿が持つかどうか怪しいです。」
再び釣り竿が揺れて動き始めた。再び派手な音を立てて糸が解け出てグラベルとの距離を広げるようだったが、遠くまで行かず再びグラベルが歯車リールを押さえてそれを止めた。
「力はほとんど抜けたみたいです。今はゆっくり巻けばいいと思います。」
リブの応援とともにグラベルが少しずつ釣り糸を巻き、魚との闘いは終わりを迎えようだった。岩の上に引き上げるには大きすぎる魚だったので、リブとグラベル二人が岩の下の水辺に降りて、黄色い腹を見せて口をパクパクさせる魚を陸に引き上げて迎えた。
「うお! 盲目魚ですね……2キュビト(1m)はありそう!」
「ん? この魚の名前が盲目魚ですか? 変わった名前ですね。」
「この奴の目を見てみてください。この目を見ればわかりますよ。ほら、この目を見て。」
リブがパタパタと体を動かす魚の目を指差しながらグラベルに言った。
リブの指先が指した魚の瞳は普通の魚の目とは違っていた。濃い灰色の霧がかかったような濁った光の瞳だった。
「なるほど。こんな目の色だから盲目魚って呼ばれるんですね。」
「へへ。正解です。それにしても今日の夕食は豪華ですね。鱒と盲目魚に、しかもキノコも採って来たんだから、すごくいい食事になりそうです。」
リブが盲目魚を見てグラベルに言った。
その日の夕食はリブの予想通り、黄色のアンズタケを添えた盲目魚の料理が野営地での食事を華やかな宴の席に変えてしまった。
淡水魚なのに土の味がせず、柔らかくあっさりした味の盲目魚の味に、決して悪くなかった鱒の焼き物が一行から無視されるようだったが、ニアの口の中に一口入った後、リブとケインから味の感想を聞かれたニアの評価では鱒の焼き物もとても美味しかったそうだ。
長い旅の数ある日々のうち、また別の日が終わった。冷たい湖畔に吹く風が野営地で携帯用の寝具の中で眠る者たちに吹いてきたが、焚き火の温もりと寝具の中のぬくもりに捕らわれた者たちを起こすことはできなかった。
アンズタケを添えた盲목魚の料理、いかがでしたか? 旅の疲れを癒やす一行のひとときをお楽しみいただければ幸いです




