59話 赤い鱗のドロコ (8)
「ぐぅぅぅむ……」
未知の粘つく液体が煮えたぎる泡の音と、カチカチと金属がぶつかり合う音。手足に感じるぬめりとした湿った感触。見慣れない手足を包む感触に、ニアは目を開けた。
目を開けたニアの目の前には、小さな格子窓から部屋に差し込む陽光が照らす自分の腕と脚が見えた。
青みがかった不透明な粘性のある液体が満たされた角ばった浴槽に浸かった自分の姿を、首を巡らせて確認するニアの傍らで声が響いた。
「おや? お目覚めですね、ニア様」
複数のポケットがついた小さな肩掛けバッグを長いローブに斜めがけにし、深く被った暗褐色のローブ。そしてローブの襟に金糸で刺繍されたムールムックと繋がった馬車の象徴であるトレア商隊の紋章がニアの目に留まった。
「待機室に入られるなり、倒れてしまわれましたよ」
「うーん……。俺、ここでどれくらい寝てたんだる?」
ゆっくりと首を巡らせて部屋を見回しながら、ニアはトレア商隊の男に尋ねた。
「さあ……それほど長くはないでしょう。あそこの砂時計が半分ほど落ちているところを見ると、一時間少しといったところでしょうか」
浴槽に繋がった歯車が素早く回る装置を操作しながら、男が答えた。
「もう少し横になっていた方がよろしいですよ。ナリダ茸の粘液がもう少し身体に染み込む必要がありますから」
男の緩慢な言葉を聞きながら、ニアは粘液の中から自分の腕を引き上げ、反対側の肩に触れてみた。
ドアジュの棘付き鉄槌に刺されてできた傷が感じられない。痛みがないので正確な位置を特定できず、肩や腕のあちこちを触ってみたが、肩や身体のあちこちにできた傷は完全に消えていて、場所すらわからなかった。
『ドアジュとの……試合が終わったんだる』
全身を噛みつかれたような激痛はもうない。天井を見上げて長く息を吐き出した後、ニアは再び浴槽に身体を預け、肩をナリダ茸の粘液の中に沈めた。
「そういえば……ドアジュは……」
「ああ、ドアジュ様は隣の部屋におられます。傷が深いので、お目覚めになるのはニア様よりかなり時間がかかるでしょうが……。私も、ドアジュ様にその傷を負わせたニア様の最後の攻撃は見ていましたよ。相手のドアジュ様が振り回す鉄槌の力を利用して! くるりと回って! ザクッと!」
男はローブを翻しながら、ニアがドアジュとの試合で最後に見せた動きを真似てみせた。
「うーむ……腹が減っただる……」
ニアはぐるぐると鳴る空腹の合図を送る自分の腹を見下ろして言った。身体で唯一感じる痛みだった。
「ははっ。無理もありませんよ。このナリダの粘液は傷の回復を助けるだけでなく、身体の再生力を急速に加速させる効果もありますからね。何かお食事をお持ちしましょうか?」
男が止める間もなく、ニアは浴槽から身体を起こし、傍らの小さな机に置かれた大きな布で身体に付いたナリダ茸の粘液を拭き取った。
へこみや穴の開いた鎧と、ぼろぼろに裂けた服を着て、ニアの剣を腰に佩き、部屋を出るのにはそれほど時間はかからなかった。
*****
金属の蝶番がキィィィと音を立てる扉を開け、ニアが外に出ると、強い陽光が目に飛び込んできた。顔をしかめて目をしばらく強く閉じてから開き、明るい光に目を慣らそうとした。通るたびにトントンと響く木の板の感触が足先に伝わる。そして遠くから聞こえてくる音、正確には聞き取れない無数の会話の声と楽器の演奏が響いてきた。
トレア商隊の大馬車の一番上の階の木の廊下の上にニアは立っていた。20キュビト(10m)を超える高さから下を見下ろすと、立ち上る煙と、市場のあちこちに集まり動く荷物を背負った商人たちが見え、果てしなく続く馬車とその間を埋める色とりどりの日よけの布が、華やかな色の水路のように流れているように見えた。
朝とは打って変わって、喧騒と音、色に満ちたグランドマーケットの新たな姿を目に焼きつけながら、ニアは馬車の外壁に沿って丸く巡る木の階段をゆっくりと下り始めた。
しばらくして階段を下りきり、ニアの足が地面に着くと、自分が下りてきた馬車を振り返った。照りつける陽光を背に黒い影を落とす高く巨大な馬車……。馬車と呼ぶにはあまりにも大きすぎて疑問に思えるほどだった。
馬車の外壁には至る所に窓と、形のばらばらの扉が開いている。風が吹くたびにガタガタと揺れるほど頑丈に作られてはいないようだが、馬車のあちこちに色合いの異なる木の板が当てがわれているのが、長年にわたって修復を重ねてきた痕跡を物語っていた。
イクスターンではこの程度の大きさの建物は珍しくない。十倍以上巨大な石造りの建物など簡単に探せる。しかしトレア商隊の馬車のように動く建物は稀だ。おそらく唯一のものだろう。グランドマーケットの外れの草原で見かけた巨獣、大王ムールムックが目の前のこの馬車を引いて道を進むところを想像すると、ますます目の前の馬車の姿が驚異的に見えた。
「ニア!」
「うおっ、ドロコ闘士のニアだ!」
「本当にニアか?」
「馬鹿野郎! 腰の剣を見ろよ。本物だろ?」
八角闘技場の前を歩いていた一団がニアに気づき、遠くから声をかけてきた。
「私がニアだる!」
ニアは頭上に手を挙げて大きく振り、自分を認識して声をかけてきた一団に挨拶した。
「試合、よく見てたぜ、ニア!」
「おかげで儲かったよ! はははは」
一団の一人が首の細い袋に繋がった紐を振りながらニアに言い、八角闘技場の入り口へと戻っていった。
観客たちが挨拶を交わしながら闘技場の中へ入っていく姿を目で追っていたニアは、身体を翻して前方の広い路地へ数歩進んだ。
その瞬間、鼻先をくすぐる馴染みのある香りが漂ってきた。真っ赤に輝き熱を帯びた炭と油が出会って立ち上る、懐かしい香りだった。
「あっちだる! 美味しそうな匂い!」
空腹の腹を片手で押さえ、鼻を上げて短くクンクン鼻を鳴らしながら香りのする方向へ早足で歩いていくと、一目でニアの胃袋を誘惑する香りを放っていた店をすぐに見つけた。
【プロンプアのピスク魚の焼き物】
長い布に縦長に大きく書かれた文字が風に揺れ、棒に吊るされていた。その横には鋭い歯を持つ魚の姿を粗く描いた絵も一緒に掛かっていた。
その下では、長い鉄串に刺された魚たちが真っ赤な炭火の上でジュウジュウと油を飛ばしながら焼かれていた。煙の間から、猫に似たレルたちが手に持った扇子を力強く振り、煙を追い払い、もう片方の手で魚の位置を変えるのに忙しく動いていた。白い煙の向こうでは、熱気と激しい動きで毛が乱れ、先端が湿って固まったレルの姿も見えた。
まだら模様の毛を持つレルが一人、火の前にしゃがみ込み、並べられた魚を一つ一つ確かめながらひっくり返し、焼き続けていた。魚の皮は次第に茶色く焼け固まり、裂けた隙間から白い身がちらりと覗いていた。
ニアは店の入り口に立ち、香ばしい煙の匂いとジュージューという音に魅入られ、ぼんやりとその風景を眺めていた。
「いらっしゃいませ、お客様。空いている席にどうぞお座りくださいなオ」
黒い渦巻き模様の太い縞模様のレルが、手振りで空いている席があるテーブルを指し示しながらニアを迎えた。
店の中へ数歩進み、空いている席にニアが腰を下ろすと、レルの店員が注文を取りに近づいて声をかけた。
「どの魚になさいますかなオ。当店は魚の焼き物だけですだオ」
「うーむ……魚の名前はよく知らないけど……あそこの魚を二匹くれだる」
「にゃっ!?」
ニアが周りを見回した後、指先で指し示したのは、店の看板代わりに棒に長く縦に吊るされた旗に描かれた、鋭い歯の魚の模様だった。
「にゃはははっ! ピスク魚を、お客様みたいに注文する方は初めてですだオ~」
レルの店員は目を細めて大声で笑い、目尻に浮かんだ涙を手の甲で拭いながら言った。
「じゃあピスク魚二匹と、冷たい飲み物をくれだる」
ニアは旗の先を指していた指に、もう一本指を加えて二本の指を店員に見せた。
「へい~い。それではピスク魚の焼き物二匹に冷たい飲み物一杯ですね……お酒が入ったのもありますし、果物ジュースもありますだオ。ザクロ、レモン、リンゴ、えーっと……ブドウまで用意してありますだオ」
「うむ……。ドワーフの火酒があったらそれとザクロジュースの飲み物もくれだる」
以前イクスターンの食堂でドワーフたちの火酒を果物の汁と混ぜて飲むと美味しかったことを思い出したニアが、そう注文した。
人間のビールやローサンの伝統酒よりは強いので、すぐに酔いが回るが、甘い果汁と混ぜると酒の苦味が和らぎ、果物の香りが強くなって料理と一緒に飲みやすい記憶が頭に残っていた。
「にゃはっ! お客様、火酒を美味しく飲むコツをご存知ですなオ。それでは、ドワーフの火酒に冷たいザクロジュースをお持ちしますだオ」
注文が終わって間もなく、レルの店員が二匹の魚が乗った長くて大きな皿を持ってきて、ニアの座るテーブルの上に置いた。続いて、耳の先と指先が黒い別のレルの店員が、長細い瓶に入った火酒と赤い果汁の入った大きなコップ、それより小さい空のコップをニアの前に順番に置いた。
「ごゆっくりお召し上がりくださいなオ」
「美味しく召し上がれだオ」
二人のレルの店員が挨拶をして、ニアのテーブルを離れ、他の場所へ向かった。
「うほおっ! ピスク魚、でかいだる!」
目の前の皿にのった焼き魚を見て、ニアは舌なめずりしながら感嘆した。炭火から下ろされて間もないので、白い湯気がモクモクと皿の上の魚から立ち上っていた。炭火でよく焼かれた黒茶色の皮の間から、白っぽい魚の身が見え、透明な油が皮から身へ染み込んでいた。
ニアはテーブルに腕を乗せて、皿の横に比べてみた。鉄串に刺されて身体がくねくねと曲がった状態でも、ニアの肘から指先までの長さより大きい魚だった。そうして目の前の魚の大きさに口元に笑みを浮かべて喜んでいると、
「これを忘れてましたなオ、お客様」
串の端を手に握り、大きく口を開けてピスク魚にかぶりつこうとした瞬間、レルの店員が再びニアの前に現れ、テーブルの上に手のひらサイズの小さな皿を置いた。
「これはなんだる?」
手に持っていたピスク魚の串を皿の上に戻し、レルの店員が持ってきた皿に身体を傾けて鼻を近づけながらニアが尋ねた。
「いろいろなドライフルーツを細かく刻んだものですだオ。魚の上に振りかけて食べると合いますだオ」
「おおん……ドライフルーツ……」
ニアは細かく刻まれたフルーツの欠片を指先でつまんで口に運び、味見しながら言った。
「当店では良質のケワ塩と岩塩の岩塩を使って焼いていますので、そのまま食べても良いですし、このドライフルーツを振って別の味わいでもお楽しみいただけますだオ」
レルの店員は口角を上げて微笑み、会話を締めくくって席を離れた。
傷が癒えたら、まずは美味しいもの! ニアにとって、空腹こそが最大の敵かもしれませんね




