34話 ロールの村
ディアラが率いる石像を護送中の馬車と兵士たちがノードポードを発ってから三日目。馬車は東に向かっていた。プロイクトンとノードポードの間に流れるディウレ川は、二つの都市の西側にある大山脈ノルワンから発源し、さらに東にある大都市バラ・グラスを通り、ビーチェの目とビーチェの鏡と呼ばれる大きな湖まで流れる、平均1ティタ(0.5km)の幅を持つ広い川だ。
そんな大きな川の流れに沿って、エステタ王国の西北部の多くの都市や大小の村々がディウレ川の本流と支流を飲料水として利用している。そしてディウレ川には、川を使って物や人を運ぶ船も多いため、ディアラも船を使って石像をバラ・グラス、またはさらに東のビーチェの目湖まで運ぶ計画を立ててみたが、カビル家が本気で船を狙ってきた場合に対処する方法がないため、地上で馬車を使って行くのが良いと判断され、時間がかかっても馬車で移動することになった。
ヴェス・ディナスまで行く道はまだ遠いが、旅の期間を短くするために危険を冒すわけにはいかず、安全な道を選ぶのが優先だった。
しかし、ノードポードであまりにも長く防壁の修復に携わったせいで、ディアラの心は急ぐべきではないという事実を忘れ、焦燥に駆られていた。それでも、予定外のノードポードの工事にまで文句一つ言わず従ってくれた兵士たちを、今の速度以上に急かして移動させるわけにもいかなかった。
唯一ディアラの心を落ち着かせてくれたのは、グラベルとイリスがヴェス・ディナスまで石像の護送に同行してくれることだった。
昨日だけでも、森の道を進む最中、聞こえてくる赤熊の咆哮に馬車の馬たちの動きが止まった。8キュビト(4m)の身長と900ストーン(900kg)を超える体重の巨体に、赤い毛が特徴の赤熊は、ラヴィルーン大陸の北西部では「旅する都市や村を行き来する商人なら、一生に五回はその咆哮を聞いたり姿を見たり、赤熊の残した痕跡を見たりする」という言葉があるほど、よく出会う動物だった。
それだけに赤熊は人間に対する恐れがなく、自分の領域に入るどんな侵入者も許さず襲いかかる習性があるため、王国北西部の冒険者ギルドでは常に討伐依頼の掲示が貼ってあり、冒険者たちにとっては熟練者への一歩を阻む存在がまさに赤熊だった。
その日も、森を満たす赤熊の咆哮が止まなかった。森に広がる自分の領域に入った見知らぬ匂いを嗅ぎつけた赤熊が発する警告の咆哮だった。
動かない馬を兵士たちが手綱を引いてみても、馬たちはその場で前進を拒み、頭を振って手綱を引く動きに抵抗していた。
数名の兵士が馬を無理に引こうと苦労したが、馬は前足を踏ん張って耐えていた。動こうとしない獣に兵士たちは困惑の色を隠せなかった。その時、ディアラは、森のどこかを指先で指し示すグラベルの姿を見た。すぐに、グラベルの指先が向いた方向へイリスが駆け出していく姿が目に映った。
しばらくして、イリスが馬車の場所に戻ってきた時には、赤熊の咆哮はもう聞こえなくなっていた。
馬たちが少し落ち着いたようになると、グラベルがディアラに「もう行かれても大丈夫そうですよ」と伝えた後、再び動き出した馬車の横で平然と歩き出した。
そうしてディウレ川の水が流れる方向に沿った道を、日が沈み周囲が薄暗くなるまでディアラの馬車は進んだ。馬車の車輪の転がる音と道を歩く兵士たちの足音、馬たちの蹄の音が混ざって聞こえてくる。
さらに夜が深まると、数名の兵士が馬車に付いたランタンに火を灯し、馬車の周囲を照らした。他の兵士たちも持っていたランタンに火を灯し、肩に担いだ槍の先に吊るして周囲を照らした。
しばらく暗い夜の道を護送隊が進み、兵士たちと馬たちが疲れ果ててくる頃、ディアラが動く馬車の席から立ち上がった。
遠くの川に見えるいくつかの灯りと、その灯りが向かう先を眺めた後、兵士たちに言った。
「ロール村です。今日はあそこで泊まりましょう。」
「おお! 今日は野営の準備はしなくていいんだな!」
「うう。今日は膝が痛かったのに、よかったよ。」
「うはあ。ようやく休めるな、ちょっともう少し歩こうぜ!」
疲れ切った兵士たちの小さな静かな歓声が馬車の横と後ろのあちこちから聞こえてきた。
ディアラの馬車がロールに近づくにつれ、村の船着き場に向かう川の上に浮かぶ灯りの正体を確認できた。
馬車や人々、あるいは人と荷物の箱が載った船だったが、水を漕ぐ櫂もなく、風を捉える帆も付いていない、水に浮かぶ筏のような船たちが、大きさこそ違えど皆同じ形で、船着き場に繋がった巨大な縄を船に繋ぐ装置で川を渡り、船着き場に向かっていた。
「独特な形の船ですね。」
グラベルが馬車に乗ったディアラに言った。
「綱船ですよ。ディウレ川では幅が狭くなる場所にはいつも綱船があるんです。橋を渡るには迂回しすぎる道だったり、橋の通行料が高いと思う人たちがよく利用する、川を渡る手段です。」
「ああ、そうなんですね。こんな夜なのに、たくさんの船が移動中ですね。」
グラベルが遠くに見える無数の小さな灯りを眺めながら言った。
「きっと川の向こうから来る商人たちでしょう。商人たちにとって時間は金ですから。」
グラベルの後ろから速い足取りで近づいてきたリブが言った。遅い夜に加え、一日中歩いたせいか、表情と声には疲労が満ちていた。
川の上に浮かぶ小さな灯りの動きを眺めながら到着したロール。遅い夜なのに、川の水がチャプチャプと音を立て、船着き場の上を往来する人々で木の板がきしんだり押されたりする音とともに、綱船から降りる人々と荷馬車の馬の嘶きが騒々しく聞こえてきた。
「先に席を取っておきます。」
リブが疲れた体を引きずって馬車より先に歩き出した後、速く走り始めた。
「リブ、ロールでは予約をしたり人が先に席を取ったりするのは無駄だよ。馬車の場所は馬を直接そこに停めないと確保できないって。」
すでに遠ざかったリブの背中に向かって一人の兵士が叫んだ。
走り出して大きな建物の角を曲がり姿が見えなくなったリブが、再び姿を現して馬車に向かって駆け戻ってきた。そして大声で叫んだ。
「先に馬車を停める順番でしか客を取らないんですよ!」
虚空に手を振りながらリブが近づいてきた。
「ディアラ様、すでに宿の馬車置き場8つ中6つが埋まってるんです!」
遠くから叫ぶリブの言葉に、ディアラが馬車の速度を上げ始めた。ヒヒンと鳴く馬の嘶きとともに、ディアラが馬車を駆って角を曲がり、遅れた兵士たち……そしてグラベルとイリスの視界から消えた。
しばらく後。何日か馬車を一人で駆ったディアラの腕前が発揮されたのか、馬車より先に走って道案内をしたリブのおかげか、ディアラの馬車は他の七台の馬車とともに、ある宿の馬小屋にあった。
「ふう。ふう。ふっ! これで、外で寝なくていい……。」
流れ落ちる汗を拭いながら満足げな笑みを浮かべたリブがその場に座り込んだ。
後から追いついた者たちが宿に到着して合流する頃、よろよろとした足取りで出迎えに出たリブに歓声を上げた。そして宿の一階にある一行のために用意された席に座った。
酒場ロープズエンド、ロールで一番大きな建物であるこの宿は『E』字型の三階建てだ。各棟の間には馬車を停められる馬小屋があり、そしてその棟の二階には複数人が団体で泊まれる大型客室が、三階には小さな個室がある構造だった。
各棟の一階は、普通の酒場と変わらず、多くの人々の声と食べ物を盛った皿、酒を注いだ大きな木製の杯を手にしてあちこちに料理を運ぶ従業員たちの動きが忙しげだ。
リブとケインが宿の従業員を手伝い、食べ物を盛った皿を兵士たちが座るテーブルに運び、湯気が立ち上る食べ物の温もりと喉を刺激する飲み物を飲みながら、一日の疲れを癒していた。
ディアラとグラベル、そしてイリスの三人は、兵士たちが座る長いテーブルではなく、その隣のホールの隅に置かれた小さく丸い卓に座っていた。
ケインが手にパンを盛った皿を置き、後ろからついてきた女従業員が柔らかい湯気が立ち上るスープの皿を卓に置いた。
暖炉では炎が勢いよく燃え、温かな光を放っていた。その周囲には旅人たちが集まり、談笑を交わしていた。天井には干したハーブと枯れた花束が吊るされ、ほのかな香りを添えていた。
「活気のあるところですね、ロールは。」
人々で満ちた宿のホールを眺めながらグラベルが言った。
「ここは綱船でディウレ川を行き来する人が多い場所ですから。」
「そうですね。綱船というのも初めて見ましたが、大きさがさまざまですね、印象的でした。」
「あ、見ましたか。大きな綱船は魔道具を使うこともあります。少数の人を運ぶ小さな船から、馬車を複数台一度に運べる大型の綱船まで。乗せる客によってさまざまな大きさの綱船があるんです。」
ディアラが手を伸ばして小さなパン一つをつまみ、グラベルに答えた。
「そうなんですね。それで、今私たちが向かっているバラ・グラスまでは、ロールから東へあと何日くらいかかるんですか?」
「うん……ディウレ川に沿った道で行けばおおよそ五日くらいですね。あるいはシャラボラス遺跡のある森の方に迂回すれば、一日くらいは余計にかかるでしょうけど。」
「(遺跡の森か……。ゲームだったら絶対行かなきゃいけないけどな。)そうなんですね……」
数日一緒に過ごしてグラベルの性向をある程度把握したディアラが、グラベルに自分が知るシャラボラス遺跡について話し始めた。
「私が昔本で読んだ記憶では、昔滅亡した都市国家の遺跡だそうです。遺跡の壁に古代文字で『シャラボラス』という文字がある以外、何の記録もなかったそうですよ。」
「(一日余計にかかる森の道を行く予定はないから、直接遺跡を見るならこの馬車護衛が終わってからかな……。)機会があれば、後ででも行ってみたいですね。」
「それなら、遺跡の正確な位置をヴェス・ディナスに行って調べておきます。確か森の北東辺りだったと思うんですけど、ずいぶん昔に見たし、森の広さがとんでもないので、確実に地図を持って行くのがいいですから。」
「ありがとうございます。どうせこの件が終わったら行ってみようと思ってました。」
グラベルの言葉に、ディアラが微笑みを返して答えに代えた。
会話が止まった二人の視線が自然と宿のホールを巡り、卓の上のパンを取って口にくわえ、咀嚼しながらホールの人間たちを見始めた。
綱船に似たものは実際にも存在します。
さすがに魔石の力で動くものはありませんが……。




