24話-馬車襲撃 (5)
「ア~? これ? 軍隊なら退却ラッパとかそんなもんだろうけど、俺たちはこれで十分なんだよ。そして今日はもう一つ、この笛の音が聞こえたらやるべきことを教えておいたよな。クフフフ、それじゃあ……」
笛を口から離しながら、グリックが大きく後ろへ跳んで下がった。
グリックの笛の音を聞いた周囲の盗賊たちが逃げ出し始めた。盗賊らしく秩序など微塵もなく、ただただ乱れ散る退却だった。周囲の森に向かって走り逃げ、縛られていた馬に乗り駆け去る者もいれば、倒れた仲間や兵士たちの死体を漁り、悠々と笛の音など無視して一儲けを掻っ攫いながら去る者まで。混乱した戦場の遠くから、グリックの声が響いてきた。
「割れた剣の代金と、破れた鎧の代金でベルデ男爵様はお持ち帰りしますよ~。ハハハハ!」
「追いますか、グラベル様?」
イリスがグラベルに近づいて尋ねた。
「いや、必要ないだろう。まずは負傷者たちを手当てしよう。」
イリスにグリックの追跡を任せていたら、さほど時間をかけず余裕でグラベルの前に連れ戻せただろう。しかしその過程で、グリックを守ろうとする忠実な盗賊がいたり、イリスを阻む勇敢な盗賊たちがいたりしたら……おそらく大量虐殺に近い惨事が起こる可能性もあった。だからグラベルはイリスに追撃を任せないことにした。もちろん、そんな判断の裏側には、ディアラから聞きたかった異世界の魔法に関する知識欲を一刻も早く満たしたいという、グラベルの言い訳がより大きな理由として潜んでいた。
遠くから見てきたディアラの魔法とマナの運用能力、そしてキャスターでありながらマナが付与された杖を使い、近接で戦う戦闘スタイル。頭に浮かぶ数々の疑問が、グラベルの判断力を曇らせていたのだろうか……
「火だ!! 馬車に火が!」
「盗賊どもが火を!」
逃げ去る盗賊たちが馬車に向かって松明や油袋を投げつけていた。飛んでくる数十の松明に囲まれ、馬車が炎に包まれ燃え上がっていた。グリックが下したもう一つの命令を守った盗賊たちが、クックッと笑い声を上げながら森の中へ一人ずつ消えていった。
「ハンド・オブ・ユル!(Hand Of Yull)」
ディアラの叫びとともに、燃える馬車の地面から巨大な水柱が噴き上がった。噴き上がった水柱の先端が五つに分かれ、人間の手に似た形になって馬車を包み込むように握りしめ、燃えていた馬車の炎を消し去った後、再び地面の下へ広がりながら消えた。
噴き上がった水の手によって握りしめられた燃えていた馬車は、赤く黒い煤を纏った炎が消え、白く濛々とした水蒸気を立ち上らせていた。
『確かにダメージを与える魔法だったはずなのに……威力を抑えて馬車の火を消す用途に使うなんて……かなりマナのコントロールに慣れたキャスターだな。』
グラベルがディアラの唱えた魔法を見て感嘆した瞬間だった。
「馬……馬車の中にはバナス大公様に届けなければ……」
無理にマナを使ったせいか、言葉を最後まで言い終えられず、ディアラが地面に崩れ落ちて意識を失った。
*****
「う……ううん……」
人々のざわめき、誰かの叫び声、タキタキと薪が燃える音が時折聞こえてくる中、ディアラがゆっくりと目を開けた。
「お目覚めですね。」
横たわっていたディアラの傍らの椅子に座っていたイリスが、ディアラに言った。イリスの声を聞いたディアラが上体を起こし、周囲を見回した。
時間の見当がつかないほど薄暗い天幕の中では、小さなランタンが光を放っていた。
「馬車の中にあった……馬車はどうなったんですか?」
馬車に付いた火を消すために魔法を使ったところまでは覚えていたが、それ以降の記憶がなく、ディアラが体を起こして立ち上がりながらイリスに言った。
「馬車の中にあった石像のことなら、兵士の方々がこちらに無事に移しておきましたよ。」
イリスがディアラに、奇妙な獣の姿が彫られた石像を指さしながら言った。
火に少し焦げて黒い煤が付着した、大きな牙を剥き出した獣の姿が彫られた、普通の人間より大きい柱状の石像が、天幕の隅に置かれていた。
「ふうう……良かった。何があっても大公様に届けなければならない大事な物ですから。」
ディアラが安堵の溜め息を吐いた。しかしそれも束の間、自分がこうして悠々と横たわっているわけにはいかない理由が思い浮かび、天幕の外へ歩みを進めようとした。
「もう少しお休みになってもいいんです。リブという名前の兵士さんが、他の兵士の方々と一緒に臨時の野営地を設営しました。」
「それじゃあ……他の兵士の方々は……」
「負傷者たちはグラベル様が全員治療を終えました。そして戦闘で亡くなった兵士の方々は、野営地の近くの森に埋葬しました。」
ディアラが意識を失っている間に起きた出来事を、イリスが説明しながら、天幕の中に置かれた椅子へディアラを導いた。
「申し訳ありません。感謝の言葉が遅れました。お二人のお力添えに、心より感謝申し上げます。」
「そんなに気にしなくてもいいです。私は私の主人の意志に従っただけですし、それにそのお力添えに対する対価は受け取るとおっしゃっていましたから。」
「あ……そうですね。もちろんよ。何であれお渡しできるものなら、喜んでお渡しします。」
相手が冒険者たちだったからこそ、ディアラもただ言葉だけの感謝で済ますつもりはなかった。二人がいなければ、自分の命を含め、それ以上に優先する大公様への石像、そして兵士たちの命まで危うかったのだから、何であれ渡すつもりだった。
「お目覚めのようですね。」
天幕の入り口が捲られ、その隙間から漏れ入る光とともに、グラベルが湯気を立ち上らせるスープを手に持ち、天幕の中へ入ってきた。
「兵士の方々の話では、野営のための装備や物資のあった馬車は火に焼かれずに済んで良かったそうですよ。」
グラベルが手に持ったスープの入った器をテーブルに置きながら言った。
「ですが、ディアラさんが火を消すために唱えた魔法で傾いて転倒したせいで、一台は完全に使えなくなってしまったそうです。」
「あ……そんな過ちを……」
ディアラが頭を下げながら、馬車に向かって魔法を唱えたあの瞬間を思い浮かべた。
朧ろげに、気を失う直前に無理にマナを絞り出して急いで唱えたせいで、すぐ近くの馬車に気を配れなかったことを自覚した。
「そんなに自分を責めなくてもいいですよ。あの状況でマナを精巧に扱って被害を最小限に抑えたんですから。」
そんな急な瞬間でも繊細なマナの調整で馬車への被害を減らしたことを知っていたからこそ、グラベルは笑みを浮かべてディアラに慰めの言葉をかけられた。
「だから今、何人かの兵士の方々がプロイクテンに向かいました。おそらく馬車の修理工や、壊れた馬車の中の物を一台では積みきれなくて助けを求めに行かれたようです。」
グラベルが状況をディアラに説明しながら、テーブルに置いたスープの器をディアラの方へ押しやって言った。
「そうですね。でも、対価を受け取るっておっしゃったのは……」
「あ……イリスからお聞きになったんですね。私が望む対価は、ディアラ様との会話です。大抵は私の質問になるでしょうけど。」
グラベルの目が澄み、明るく輝いていた。口元には薄い微笑みさえ浮かべ、これから繰り出す質問を整理するかのように頭の中が忙しなく回っているようだった。
「会話とおっしゃいましたの? 質問です?」
まだグラベルの言った言葉の意味を理解しきれていないディアラが、再びグラベルに尋ね返した。
「ええ。私と私の同行者であるイリスは、遠いところからここへ旅をしてきましたので、このエステタ王国についての知識が不足しています。特にこの地の魔法に興味があって、ディアラさんなら私の質問にお答えいただけるかと思いまして。」
グラベルの言葉を聞いたディアラが、しばらく考えて頭を垂れテーブルを見つめた後、少し時間が経って再び頭を上げ、グラベルに言った。
「私がお答えできることなら、喜んでお答えします。知識の伝授は、私たち隠れ月の騎士団の使命でもありますから。」
「私が聞ける最高の答えですね。」
ディアラの答えにグラベルが微笑み、これから始まるディアラとの会話を期待する気持ちを露わにした。そして席から立ち上がり、天幕の外へ出ながらディアラに言った。
「それでは、もう少しお休みください。プロイクテンへ向かった兵士の方々が戻るまで、まだ時間がかかるでしょう。」
「ええ。もう一度お礼申し上げます。グラベル様、イリス様。」
*****
日が沈み、夕暮れ時になってようやくプロイクテンへ向かった兵士たちが、馬車の修理工とその助手二人を連れて野営地に到着した。
白髪交じりの髭を生やした馬車の修理工が、太い腕で小さな木槌を持ち、馬車のあちこちを叩いて見ながら、二人の助手とともに二台の馬車を点検した後、『一台は新しく作るしかないほどだから諦めなきゃならねえ、もう一台は車輪ごと新しく作って嵌め込まなきゃいけねえ』と言った。
修理工が帰る前に、急いで作業しても二日はかかると言い、兵士の一人に伝えて再びプロイクテンへ戻っていった。
二日間の野営が確定すると、兵士たちも余裕ができたようで、壊れた車輪の馬車の中から料理のための補給品が入った箱を取り出す兵士や、自ら進んで周囲の警戒のために野営地の外を回る兵士、森の中に埋葬した仲間たちの元へ戻り、石を墓の上にさらに積んで死者を弔う兵士たち、それぞれの時間を過ごしていた。
プロイクテンへ行った兵士の一人が、そこで助けを求めていた御者を遇ったと言った。大規模な盗賊団が出現したという噂で小さな騒ぎがあったが、全て片付いたと聞いた御者は、もう一度グラベルとイリスに感謝の言葉を伝えてくれと言っていたと、兵士がグラベルに御者の話を伝えた。
時間が経ち、野営地の焚き火が明るくなり、夜空がさらに暗くなると、イリスとグラベルがディアラの天幕を訪れた。
ディアラとグラベルが、天幕の中の小さなテーブルを挟んで椅子に座ると、イリスが一時天幕の外へ出て、お茶の入った二つのカップを手にして戻ってきた。厚くて粗い木のカップだったが、カップの中から立ち上る湯気とともに、ほのかな花の香りが広がり、天幕内の空気を香しく満たした。
「お茶はお口に合いますか? プロイクテンで初めて味わって以来、旅の際はいつも持ち歩いてます。ラコエという植物の葉だそうです。」
グラベルがテーブルに置かれたカップを取りながら、ディアラに言った。
「ええ、ラコエのお茶は私も好きなお茶です。」
ディアラもテーブルの上のカップを近くに引き寄せ、目を閉じてカップから立ち上る香りを嗅いだ後、グラベルに言った。
「それでは、約束通り、お力添えの対価として、私に話を聞かせてください。まずはお聞きします。隠れ月の騎士とおっしゃいましたが、騎士団に所属されているんですか?」
あまり重い雰囲気にならないよう、グラベル自身が考えるに答えにくくない軽い質問から会話を始めた。
「ええ……名目上は騎士団ではありますが、一般的に知られているような鎧を着た騎士たちではありませんわ。皆、私のようにウェイ・オブ・マナの道を歩む魔法使いたちで構成された集団です。騎士団と呼ばれるのは、私たちの主君であるバナビル・バナス大公様が、昔の大草原の向こう側の遠征戦争で『兵士たちを指揮し、最も先頭を駆け抜ける者たちこそ騎士の名にふさわしい』とおっしゃったからです。あの遠征での勲章のような意味で、騎士団の称号を使っています。」
「なるほど。バナス公爵家については知らないのですが。ここがトルド伯爵の領地だというのは聞きました。周囲の地理についてお聞かせいただけますか?」
「ええ。今いる場所の道を進むとプロイクテンがあり、そこから北東へ道をさらに進むと、トルド辺境伯の最大の都市であるバラ・グラス(Valla Glas)があります。もっと詳しく小さな街や男爵領もありますが、私も完全に覚えているわけではないんです。」
(プロイクテンではそれほど広範囲の地図は手に入らなかったから、もっと大きな街に行ったら入手しようと思っていたけど、もう少し聞いてみようか?)「それじゃあ、バナス公爵様の都市は、おっしゃった辺境伯の都市からさらに遠いんですか?」
グラベルが周囲の地形を頭の中で描きながら、空白をディアラの話で埋めていった。
「ええ、そこからさらに北東へ行くとヴェス・ディナスが出てきます。私たちの馬車が向かう先もそこです。」
「プロイクテンにしか滞在していなかったので、遠くの地形には無知でした。この旅も南のトル(Tollu)という都市へ向かう途中でディアラさんに出会ったんですから。」
「あ、トルへ向かう途中だったんですね。迷宮都市アクイルンが目的地でしたのか?」
「ええ、そこ以外にもダウィとムワという獣人たちの都市もあると聞きました。あ、エルフたちもいると。」
「アクイルンは人間、エルフ、ダウィ、ムワが共同で管理しています。大陸の各地から迷宮を探検するために集まる様々な種族の冒険者たちが集まる場所ですから。」
その後、グラベルがプロイクテンに滞在して遠くに見えた山の名前や、森の名前などを尋ねながら、会話が続いた。
戦いは終わり!ひと休みの時間です!次回はお茶の葉の香り漂う魔法講義になるかも?




