耳かきえーえすえむあーる
二佳は自分のスマホにイヤホンをつなげて、両耳分とも僕の方に差し出してきた。
「……これ、つけて」
「あれ、二佳は一緒に聞かないの?」
「え」
うわ、何言ってんだこいつ、気持ち悪っ。みたいな顔で二佳に見られてしまった。もちろん二佳はそういうことを言う子ではないと知っているけれど、センチな今の僕にはそこそこ心に来るものがある…。
「えっと、耳かきえーえすえむあーるっていうのはどういうものかわからないけど、このイヤホンを両耳につければいいんだね?」
「……うん、あとは横になって」
とりあえず二佳に言われた通りに従って、ソファの上で仰向けに寝転がった。
これでいいのだろうか?
「…じゃ、再生する」
「んにゃっ!!!???」
二佳が手元のスマートフォンを操作すると、すぐにその音はイヤホンを通して両耳に流れ込んできた。
耳の奥深くをこしこしとくすぐられているような感覚…!
あぁ、やばいこれ…、なんも考えられなくなっちゃうぅぅぅ!!!
「に、二佳!すとっぷ!くすぐったいから止めて!お願いっ!」
「……え?」
信じられないといった顔をしながらも、二佳は僕の要望通りに音声を止めてくれた。
まだくすぐったさが消えず、一度イヤホンを外して耳元をかきまくる。だが、耳の奥に音の衝撃が残っており、なかなかくすぐったさはとれなかった。
「…安眠できなかった?」
「それどころじゃない!これはいったいなんだ…!?」
大慌てする僕とは対照的に二佳は、さも当たり前かのように解説する。
「…えっと、だから耳かきASMRだよ?じっさいに耳かきされているみたいで気持ちよくなかった?」
「気持ちいいというか、くすぐったいというか…。二佳はあんなの聞いて平気なのか?」
「…慣れれば余裕。物足りないくらい」
「そうか……」
お兄ちゃんは妹と分かり合えなくて悔しい。
でも、二佳が言うのなら、僕は本当に慣れていないだけなのだろう。
そして慣れの問題ならば、二佳の趣味をちゃんと理解できるよう僕も頑張るべきじゃないだろうか。
それにそもそもこれは、僕を安眠させたいという二佳の優しさからおすすめしてもらった代物だ。
それを始めて10秒も経っていないうちに否定するのはあまりに二佳が可哀そうだ。
「……ごめん、二佳。もう一回、再生してもらえる?お兄ちゃん頑張るからさ…」
「くすぐったいなら、無理しなくてもいいと思うけれど…」
「む、無理じゃないさ。むしろクセになってきたところだ」
「……わかった」
強がりながらもそう言うと、優しい二佳は僕のことを心配しながらも音声の続きを再生してくれた。
「あっ…んっ、んほ♡」
「に、にい…変な声が漏れてる…」
「ごめっ、あっ♡声を抑えようとはしてるんだけどっ♡」
くっ、二佳の前で醜態をさらすのは死ぬほど恥ずかしい…!
けれど、これに耐えきらないと二佳の趣味を理解してあげることができない。
1年近く目を背けてきて、ようやく二佳と正面から向き合える時間ができたんだ。もう二度と、逃げるわけには…。
「いや、やっぱり無理ぃぃぃぃ!止めてぇぇぇぇ!」
しかし、そんな覚悟も耳かきASMRの前では無力。耳の奥から心の奥まで溶かすような音に耐えるにはあまりにも僕は脆弱すぎた。
「…わかった。…あ、操作を間違え」
次の瞬間、こりこりと耳の奥に入ってくる音から、ぐっぽぐっぽとした水音交じりの音に変わった。
そう、これはまるで、耳かきというよりも、耳を舐められているような感覚に近かった。
「んほぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ♡」
耳かきでさえ耐えられなかった僕は、当然この攻撃に耐えられるはずもなく…。
僕の情けない声が家中に響き渡ったのだった。
数分後。ベッドの上で膝を抱えて震えている僕に二佳が謝罪の言葉を投げかけてくる。
「…間違えて、停止じゃなくて、次に進むボタンを押しちゃった。ごめん…」
「いいんだ。二佳は悪くない。耳が脆弱な僕が悪いんだ…」
19年間生きていて、初めて知った。
僕って耳が弱点だったんだ…。
「でも、二佳はすごいね。その、よくわからないけれど、ああいう音も安眠には効果があるんでしょ?」
「…あ、あれはむしろ、今夜は寝かさないと義姉が添い寝してくるっていうシチュだから逆だけど…、耳舐めから入って、睡眠導入に移る作品もあるよね…」
「え、姉が、えっと、なんて…?」
「…っ、な、なんでもない。どうせ冒頭の所しか聞かれてないだろうし…」
急にぼそぼそと饒舌に喋りだしたと思ったら、そっぽを向かれてしまった。
僕では二佳の趣味の理解者にはなりえなかったみたいだ。
「……この後は、どうする?またアニメ見る?」
「いや、もういい時間だし、そろそろ就活の方を進めようかなって……」
「…………」
「と、いうのは、冗談で…。あはは…」
二佳にめっちゃ睨まれたからついひよってしまった。
就活は進めていくにしても二佳の前でわざわざ発言するようなことは控えたほうがいいだろう。心配かけちゃっても悪いし…。
「お腹も空いたしご飯にしようか」
「……またフレンチトースト作る?」
「気持ちはものすんごく嬉しいけど、大丈夫。今日一日、ゆっくりしたおかげでエネルギーが有り余ってるから何か作るよ」
そう言ってソファから身を起こした。
つい昨日まで全く料理をする気になれなかったのに、今日は妙に調子がいい。
やっぱり二佳とたくさんお話できたからだろうか。
「…無理してないのなら、いいのかな……」
そんな二佳のつぶやきを背に聞きながら、キッチンへ足を運ぶのだった。