フレンチトースト
「ひゃぁっ!」
二佳の驚きに満ちた悲鳴が聞こえる。
だが、僕の頭の中はもう真っ白で何も動けなかった。
過度なストレスに耐え切れなかったのか、いつもなら吐き気だけ済んでいたのに実際にぶちまけることになるなんて…。
「……て、ティッシュ!」
妹の前で吐いてしまったというストレスが重なり、僕は再び吐き気に襲われる。だが、また吐くわけにはいかない。喉まで上がってきている出してはいけないものを必死に追いやる。そうしているうちに、いつの間にか僕の前には大量のティッシュペーパーが積み上げられていた。二佳が自分の部屋から持ち出してくれたのだろう。
「ご、ごめ、ん……」
どうにかその一言だけを絞り出す。
少しして、喋るのは難しいものの吐き気事態はだいぶ収まってきたので、僕も掃除に参加する。
そうして二人で黙々と吐しゃ物を片付けていった。
やがて、使ったティッシュも全てゴミ箱にいれて、廊下が綺麗になったことを確認すると二佳はそそくさと逃げるようにして部屋へ戻ってしまう。
「あ…」
二佳に何か言葉をかけようとするが、自分自身への情けなさや、二佳のプライベートな一場面を見てしまった罪悪感もあって、とっさに言葉が出なかった。それでも、当初の目的を果たさないわけにはいかない。
二佳が部屋の中に戻ってしまったけれど、どうにか言葉を絞り出し、ドア越しに声をかける。
「えっと…、さっきはごめん…!それと、昨日…というか1時間くらい前か。その、二佳の肌着を僕、持ったまま寝てたみたいなんだけど…」
「…にいが気にするようなことはなにもない」
「そ、そうか…」
二佳がそういうのならこれ以上の追及はすまい。それは体のいい言い訳だとわかっているけれど、これ以上話を掘り下げる勇気が僕にはなかった。
さっきも一緒に片付けてくれたし、少なくとも僕が想像した最悪な出来事は起こっていないように思う。
真相は謎のままだけれど、それがわかっただけで十分だ。
僕は自分の部屋に戻り、深くため息を吐く。
すごく疲れた。身体的にも精神的にも。せっかく久しぶりに二佳と話せたのに、まさかあんなことになるなんて。
ひとまず明日?今日?の朝食は、お詫びもかねて二佳の大好きなフレンチトーストを作ることにしよう。
だけど、それはそれとして今はとにかく少しでも早く次の仕事を見つけないと。二佳への免罪符というわけではないけれど、働いている自分さえも失ってしまったら、僕は二佳に合わせる顔がない。
早速スマホを取り出して、就活サイトへの登録を進めようとする。
スマホのスリープを解除してホーム画面を開くと、100件以上の通知が溜まっているアプリが、真っ先に目に入った。社内用のチャットアプリだ。
退社後、家に帰ってから消そうと思ってずっと忘れていた。
本当にやり残したことはないだろうか。あとから質問されたり残件に対して文句を言われたりはしないだろうか。
そんな不安が頭をよぎったけれど、結局僕は震えた指先でアプリを長押しし、通知の中身も見ずに削除した。
ただそれだけを終えるのに、気付けば10分も経っていた。
「ふぅ……」
大きなため息を吐く。
チャットアプリを見ていたせいか、働いていたときによく言われていた言葉が何度も脳内でフラッシュバックした。
無能、高卒、要領が悪い、バカ、アホ、エトセトラエトセトラエトセトラ。
頭がぼんやりとしてきて、結局何もしないままベッドに潜った。
目を瞑る。眠れるまで目を瞑り続けるけれど、眠れなかった。
気付けば外が明るくなって、朝がやって来た。
もう会社へ行くことはないというのに、なんて最低な朝なんだろう。
でも、二佳のフレンチトーストを作ろうと思えば、少しだけ元気が湧いてきた。
だるい身体も起こして、一階のキッチンへ移動する。
フレンチトーストを作っていると、まだ両親が生きていたころに、家族みんなで食卓を囲んでフレンチトーストを食べていた時のことを思い出す。フレンチトーストは二佳と僕、二人の大好物だったから母がよく作ってくれていた。
その時は僕もよくお手伝いをしていたっけ。
昔の思い出に浸っているうちにフレンチトーストが出来上がる。その後は、皿に盛ってラップをし、二佳の部屋の前に置きに行った。
二佳が美味しく食べてくれますように。
二佳が昔のように美味しそうにフレンチトーストを頬張る姿を想像し、ちょっぴり救われた気持ちになった。
※Nika※
ふて寝から目が覚めても、まだ心臓がバクバクと鳴っていた。
にいに下着姿を見られてしまった…。
最悪のタイミングだった。ちょうど布がこすれる音を録るために下着を触っていたときにやって来るなんて…。
しかも、にいは!私の貧相な身体を見て目の前で吐いたのだ。
1年近く前まではにいは間違いなくシスコンの部類だと思っていたのに。引きこもり生活の中でいよいよにいにも見放されてしまったのだろうか。
照れるでも、無反応でもなく、吐くだなんて。そんなに私の下着姿は気持ち悪かったのだろうか。
恥ずかしくてしょうがない気持ちと、なんか納得がいかない気持ちと悲しい気持ちがまぜ状態で頭がおかしくなりそうだった。
これ以上は眠れそうにないけれど、ベッドから起き上がったら現実が始まってしまう。私はまだ夢と現の間をさまよっていたい。ぶっちゃけ現実逃避したい。
ごろごろとベッドの上を転がりまわり、昔から愛用しているカメのぬいぐるみ(うらしまくん)を強く抱きしめる。うらしまくんの顔面がゆがみ、ブサイクになった顔を見て癒されていると、きゅぅっとお腹の音が鳴った。
はぁ…、お腹が減ると無理やりにでも現実に生きていることを実感させられてしまう。
私は観念して、ベッドから起きあがった。さあ、辛い現実の始まりだ。幸い今の時間は、にいは仕事に行っているだろうし、鉢合わせる心配はない。それが救いだった。
私は部屋の扉を開ける。
するといつものように部屋の前に朝食が置いてあった。
「あっ、フレンチトースト…」
それはにいと私の大好物だった。
だから、それだけで深夜の出来事のお詫びだとすぐにわかった。どうやらこれで私の機嫌をとろうとしているらしい。
まったくもって浅はかだ。
こんな単純なことで本当に機嫌を直してしまう私が。
「ふへへ…」
部屋に戻り、フレンチトーストを味わいながら食べる。
私が一年近く引きこもっていても、こうして生きていられるのは、全部にいのおかげだ。
一応、後見人としておばあちゃんもいるけれど、お母さんとお父さんが事故で亡くなってから塞ぎ込んでしまい、ほとんど会えなくなった。
だから、もしにいが私の面倒を見てくれなかったら、辛い現実は本当にそのまま辛いだけだったと思う。
ふと、昨日のにいの寝顔を思い出す。あの苦しそうな姿を。
締めつけられる胸の痛みを誤魔化すために、もしにいが本気で苦しんでいるのなら、私が手を伸ばそうと決めた。
本当にできるかどうかはわからない。でも、そう心に決めたことで、私はフレンチトーストをただひたすら美味しく食べることに集中できた。