幻聴(?)
家に帰ってきたのにまるで落ち着かなかった。
ついさっき、1年半勤めていた会社を辞めた。辞めたはずなのに、今もまだ仕事をしているかのような緊張感が続いている。
そわそわとした気持ちを落ち着かせるために部屋の掃除でもしようかとも思ったけど、既に片付いていたので諦めた。ここ半年近くは寝るためにしか帰っていなかったから当然と言えば当然だ。
天井を見上げてただただその場に立ち尽くす。
手持無沙汰感はあるが、実際の所、やるべきことは山ほどある。
仕事こそ辞めてしまったが、何はともあれ働かなければ生きてはいけない。本来であれば転職活動を済ませてから職を辞めるべきだったのだろうけど、心身のバランスを崩して仕事を辞めることになった僕は、疲労を理由に今日まで全く手をつけられていなかった。
でも、さすがにこれ以上職探しを先延ばしするわけにはいかない。長引けば長引くほど履歴書に書く空白期間が空き、次の職を見つけるのが難しくなる。もはや一刻の猶予もない。今すぐスマホを開いて、就活サイトに登録しなければ。そして、自己PRを書こう。まずはそこからだ。
…と、そこまでやるべきことを考えたけれど、いざ実行に移そうした途端、僕は抗いがたい吐き気に襲われた。
「ヴぉえええええええ」
落ち着いて深呼吸をして、息を整えていく。
これがあるせいで朝、会社へ行けなくなり、僕は仕事を辞めざるを得なくなってしまった。
立っているのが辛くなり、僕は自室のドア前から動き出し、ベッドの上に身を投げ出した。今とるべき最適な行動は睡眠と判断したからだ。就活サイトへの登録も重要だが、今のコンディションではとてもじゃないが自己PRを書くことなんてできない。それどころか、琴吹一本と自分の名前を登録することさえ難しいだろう。相変わらず自分の心と身体の弱さには絶望しかないけれど、職探しを諦めるつもりは毛頭なかった。
金を稼ぎ、生活を維持していくこと。それが今一緒に暮らしている最愛の妹――二佳のためにできる唯一のことだから。
「あ…んっ…あん…♡」
「…!?」
不意に、隣の妹の部屋から喘ぎ声のようなものが聞こえてきた。
だが、そんなはずはない。二佳はまだ中学2年生だし、そもそも1年近く不登校が続いている。それがまさか家に男を連れ込むなんてことあるはずが…。
「んっ、やっ、らめ…」
「……っ!?!?」
いや、可能性はまだ残るには残っているか?二佳が一人でシている場合なら…。って、僕は妹相手になんてことを考えているんだ!
お、お、落ち着け。これは…、幻聴だ…。
醜い僕の心が生んだ幻聴。そうに違いない。
大切な守るべき妹の喘ぎ声を想像してしまうなんて、いよいよ本当に疲れているらしい。
僕は耳を塞いで、さっさと眠りにつくことにした。
しかし、将来への不安からかどうにも目が冴えて眠れない。すると今度は新しい幻聴が聞こえてくる。
「よしよし…、今日もがんばりまちたねぇ…」
「二、佳……?」
聞き慣れた柔らかい妹の声に、ずっと眠気を妨げていた緊張の糸が和らいでいくのを感じる。
……今なら寝れそうな気がする。
僕はそのまま幻聴に癒されながら、安らかな眠りについたのだった。
※Nika※
じめじめとした暑さが残る深夜。マイクにノイズを入れないために冷房の電源を切っていた私は、肌着一枚の恰好で同人ASMRの収録をしていた。
今日録っているのは「ちょいエロ彼女との甘々同棲生活」
シナリオ制作者である百奈にチェックしてもらう必要はあるけれど、我ながらなかなかいい感じの演技ができていると思う。
キリのいいところでいったん切り上げて、喉を潤すために一階のリビングへと向かう。
いつもなら、そろそろにいが帰ってくる時間だから手早く行って戻らないと。
そう思って、気持ち早めに階段を降りていると、正面に玄関が見えてきた。リビングへ行くにはここでUターンして一階の廊下をまっすぐに進む必要がある。
しかし、私は階段を降りてすぐ玄関の前で立ち止まった。
「にいの、靴がある…」
頭が真っ白になった。
1秒後、一気に頭が回りだす。
「どうして!?いつもならまだ、仕事してる時間なのに...」
1階のリビングの電気はついておらず、そこににいがいるとは思えない。
だとすると、まさか。
私が収録している間、にいはずっと隣の部屋にいたということ?
収録中は集中していたし、隣ににいが帰ってきても気が付かなかったかもしれない。
私はできるだけ音を立てないように、にいの部屋を目指して再び階段を一段ずつ登っていく。
私が中学1年で引きこもり始めてから、にいとはほとんど会話をしていない。そんな中でもし私のえっちな声を出しているところが聞かれていたとしたら。気まずいどころの話ではない。
にいの部屋の前に辿り着き、私はそぉっとドアを開けた。
そして、見た。ベッドの上で安らかに眠るにいの寝顔を。
「!!!!!!」
とっさに大声を出しそうになり、自分の口を慌てて両手で塞いだ。
どうしよう…。家に誰もいないと思って結構調子に乗って声出しちゃってた…。でも、寝てるってことはセーフ...?いやでも...。
…って、ひとまず部屋のドアを閉めないと。もし急ににいが今目を覚まして目でもあってしまったらそれこそ気まずい。
私はにいの顔をよく観察し、起きないかどうか警戒しながらゆっくりドアを閉めていった。
そして、気付く。
にいの目の下には、うっすらと涙の跡があった。
「……えっ」
私は今すぐ目を瞑り、ドアを勢いよく閉めたい衝動に駆られた。
けど、寸でのところで堪える。心は痛いけれど、にいと二人暮らししている私が、見なかったことにしちゃいけないと思ったから。
ドアを半開きにしたまま呆然と見つめていると、にいがブランケットもかけずに寝ていることに気付く。というより、ブランケットを下にして眠っているようだった。見るからに疲れ果てた結果、ベッドにダイブしてそのまま眠ってしまったといった様相だ。
深く観察すればするほど、にいの憔悴ぶりを理解させられる。
私が逃げている間に、にいはこんなに...。
「っ!」
私は突き動かされるようにして自分の部屋からブランケットを持ってきて、もう一度にいの部屋の扉を開けた。
そして、今度は中にまで侵入を果たす。
…この人に優しくしてあげたい。
そんなシンプルな感情に従って、私はにいにブランケットをかけてあげた。
家族だからとかではない。
むしろ家族だからこそ気まずくて、表立って優しくすることは難しいのだから。
それでも私は、一人の人間として、にいに何か報いたかった。
あとは退場するだけ…。そう思った時、突然にいが私の肌着を掴んできた。
「…っひゃ!にい、起きて…!?」
心臓が飛び跳ねそうになりながら、振り返る。
しかし、にいはすやすやと寝息を立てているだけで起きたわけではないようだった。
「よかった…」
にいが目覚めていなかったことに、安堵する。
しかし、まだ危機を脱したわけではなかった。
ここで力強く振りほどけば、にいが今度こそ目覚めてしまうかもしれない…。
そう思った私は思い切って肌着を脱ぎ捨てて、ぴゅーい、とにいの部屋から脱出を果たした。
背徳感と羞恥心と罪悪感とがないまぜになり、心臓がバクバクと鳴っている。
自分の部屋に戻るとすぐにベッドに身を投げ出した。穴があったら入りたいように、ベッドがあるなら飛び込みたい。そんな気分だった。
今すぐ眠って、このざわざわした心を鎮めたい。
「あ」
だが、不意に思い出す。
「まだ収録終わってない…」
納品日は今日だ。もう何度も締め切りを伸ばしてもらったから、これ以上は百奈に叱られてしまうだろう。
精神的にはかなり疲れたが、ぐーたらするのはもう少し我慢…。にいが眠っているうちに録り終えてしまわないといけない。
下着姿のまま小声で再開したASMRの収録は、不思議と感情の乗った演技が出来た。