Yesterday(2)
レンカは、制服から私服に着替えた谷村とともに医療センターの分院に訪れていた。
この分院は、レンカの姉アンナが入院している病院だった。
狭い個室。室内の、ベッドと通路側とはビニールのカーテンで仕切られており、会話は受話器で行うことになっていた。
面会者から見えない場所には半個室のトイレがある。病室というよりは独房に近い。
アンナが患っている病は「黒綾病」というもので、体表に文字や記号のような黒色あるいは濃褐色の痣が浮かぶ症状が特徴的だった。
原因も治療法も不明。
原因に関してはエネルギー鉱石である法石が影響を与えている可能性があるといわれているが、鉱業従事者の感染者数が際立って多いというわけでもなく、正確なことはわかっていない。
人対人の接触感染確率は高くないが、感染者からの輸血や臓器移植で高確率で感染することがわかっている。しかし、それ以外の感染・発症条件は未だ不明。
そもそも「病気」や「感染症」と見做すことでさえ、正しい評価かすら怪しい。
ただ、癒えることがないということだけが確か。
やがては全身が痣で埋め尽くされ、死後間もなく砂塵の如く骨すら残さず消えてしまう。
この病院には、黒綾病の感染者だけが入院していた。
ここは事実上の隔離実験施設であり、まだ埋められていない、あるいはまだ燃やされていない棺桶であった。
「レンカちゃん、来てくれたのね」
「うん」
「いつも、ありがとうね」
アンナはレンカの後ろにいる人物を見る。
「リョウ、あなたも」
谷村リョウはアンナの婚約者だった。
「何ヶ月ぶり? 全然顔を見せないんだから。レンカちゃんは何度も何度も来てくれるのに」
そう言うアンナの首から顎にかけて痣が浮かんでいる。リョウの知るアンナの病状は左手の甲と右胸の下辺りにワンポイントタトゥーのようにぽつんと浮かんだ痣。入院着の下には、元の肌の色のほうが少ないほどに痣で埋め尽くされているだろうことは想像に難くなかった。
「何、そんなに悲しそうな顔して。元気な人がそんな顔しないでよ」笑う。「ほら、せっかく元恋人に会えたんだから、もっと嬉しそうにして」
「あ、ああ、そうだな」
「でも、ごめんね。今日はちょっと悪いお報せがあるの」
「……え?」
自分は退室して、恋人同士で語らってもらおう。そう思って、場を離れる機を窺っていたレンカだったが、「悪い報せがある」と聞いて、身体が固まった。
「言っても大丈夫かしら」
「う、うん」「お、おう」レンカとリョウは二人して神妙な面持ちで身構える。
「わたしね、近いうちに重症者の病棟に移ることになったわ」
「重症者?」
「そう。週明けくらいかな。だから、もう面会はできないかも。今週末が最後かしらね」
「あ……、あ、そう、そうなんだ。お、お大事に」レンカは何か言おうとして、自分でもよくわからないことを言った。
小さく震えるレンカを見て、リョウが肩を叩く。
「おい、大丈夫か」
「へ、平気。リョウさんこそ、大丈夫なの」
「ぉ、ぉぅ」
「はは」力なく笑う。「……ちょっとお手洗いに行ってきます。リョウさん、お姉ちゃんのことよろしく」
レンカはとにかく、この場を離れたかった。
――
病室を後にし、別の階のトイレへ向かったレンカ。
個室で項垂れ、様々なことが頭の中で浮かんでは消えて浮かんでは消えていく。
姉は飛び級で大学へ進学して、卒業後は地元でも有名な一大企業に就職した。恋人もいて、結婚する予定もあった。
自慢の姉だった。
そんな姉の人生が狂ったのは、母が病に倒れたことがきっかけだった。母は腰痛で通院したが、そこで「黒綾病」に感染していることが判明した。背中に痣ができていたため、気づかずにいたようだった。母は入院することになり、ベーカリーも閉めるはずだった。しかし、姉は何を思ったか退職し、家業を引き継ぐと言い出した。一年ほど経ち、母が病院で亡くなった。黒綾病末期患者は遺体が残らない。母は死んだが、死んだという実感も湧かなかった。
姉のパン屋経営はそこそこ順調だったが、母が亡くなってほどなくして、今度は姉も「黒綾病」を発症した。
レンカは、姉はとんでもない不幸な人だと思った。家のことなど放っておけば、今頃はリョウと結婚して、もしかしたら子供だっていたかもしれない。
哀しいとか、そういう感情は湧いてこなかった。
手の届かないところへ行ってしまう。そう思うと堪らなく怖かった。
個室から出て、化粧が落ちてしまうほど何度も顔を洗う。
「はぁ、いつ見ても酷い顔」
――
姉の病室へと戻るレンカ。病室の外にはリョウが壁に寄りかかって待っていた。
目の周りがいくらか赤くなっていた。
お互いに酷い顔なのはわかってるために、レンカもリョウも何も言わず、ただ頷き合った。
レンカは病室に入った。
「お姉ちゃん……」
「よかったね、レンカちゃん。ようやくわたしのところになんて来なくてもよくなるね。せいせいしたでしょ」
「いや、そんなこと……」
「ごめんね。わたしのせいで無理させたよね。わたしだって、本当は妹にそんな顔させたくなかった。自由に生きてほしくってパン屋さんを継ごうって思ってたのに。ダメだよね」
「ちが、違くて――、わたしがこうなってるのはわたしが勝手にやってるだけ」こんなの自傷行為と同じだよ、と呟く。
「知ってる。当てつけだよね。自分から人生台無しにしたおバカさんなわたしへの」
「そ、そんなこと……いや、そうかも」
「ふふ……わたしはどんなにレンカちゃんがボロボロになって頑張っても、『よしよし、頑張ってるね。偉いね』なんて言わないから」
「いいよ、言わなくて。気持ち悪い」
「わたしもそう思う」
「でも、いい妹だって思ってるのは本当よ?」寂しそうに目を細める。
「それはわたしもそう。ずっと自慢の姉だって思ってた」
「嫌いなのにね」
「大嫌い、だよ」同じくらい好きだけど。
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
「そんな大嫌いなお姉ちゃんから、最後に我儘、言ってもいい?」
「うん」
「明日か、明後日。レンカちゃんの作ったパン、持ってきて」
「パン? 最後の我儘がそんなことでいいの?」
「なら、もうちょっと欲を言うとビールでもワインでもいいからお酒もほしいな」
「何それ、まるで死んじゃうみたいじゃん」
「死ぬのと大して変わらないでしょ。だって――」
これから自分に待っているのは孤独だけなのだから――。
アンナはそう思った。寂しいこと、悲しいことのはずだが、不思議と清々しい気分だった。
◆
夜遅く、自宅に戻ったレンカ。家の灯りは点いているが、妹弟はすでに就寝していた。週の半分ほど、妹弟へ夕食を用意し、そのあと外へ働きに出ていた。
仕事終わりの、酷く重い足取りで、階段を上り、自室に入った。
カーテンすら閉まっていない寒い部屋の中、窓から入る街灯の光を頼りに、机の傍へ寄る。
コートのポケットから紙幣の入った封筒を三つ、無造作に机の引き出しに放った。引き出しの中には、金銭の類が入っているだろう封筒や、剥き出しの紙幣が乱雑に重なり、層となっていた。
コートを脱いで、ベッドに倒れ込んだ。
「ぁ、そうだ、明日……お姉ちゃんに……」
レンカは、泥に沈むように、眠りに落ちていった。