帰宅
静まり返った夜の街。海獣達の姿はもう、どこにも見えない。
先の冷斗の雰囲気に言葉を失い、立ちすくんでしまったが事がおさまったおかげか、その背中には何の圧も感じられなくなった。
「天宮…さん、大…丈夫?」
意を決して話かけ、返答を待つ。
すると、銀糸の髪を靡かせながらゆっくりと此方に目を向けた。
「うん。平気。」
表情一つ動かさない、公園で会った時と同じ冷たい空気をまた纏い始めた。
一連の異様な光景を目の当たりにして、いつもらなら出てくるはずの驚異的な質問の嵐が一つも思い浮かばない。次に何て声をかければよいのか分からず、とても気まずい状況である。
(えっと…。ええっと……)
あれこれ考えを巡らせていると、「もう家に帰りなよ」と声がした。
気がつくと、目の前まで冷斗が近づいてきて様子を伺っていた。
「あ、あ、そうだね。そうだよね!」
焦って、ズレてもいない眼鏡を掛け直す。
「じゃあ、あの、ありがとう?」
ぎこちない別れの挨拶を口にすると、冷斗は無言で走り去る。見えなくなるまでその背から目を離すことはできなかった。星々が輝く夏の夜空の下、冬亜もやっと帰路についた。五階までの階段を登り切り、自宅の玄関扉を開いた。
「あんた!どこ行ってたの?!突然出ていくからびっくりしたじゃん」
ドタドタと足音を立ててリビングから出てきた母親の顔は険しい表情だった。心配させてしまったようだ。
「ごめん。公園で竜樹と会ってた。海獣見つけたって連絡あって」
母親は目をしぱたたかせている。
「……はーー。海獣を研究するのも観に行くのもいいけど夜はやめて。もう十時だよ!」
スマホを出して確認すると十時五分と表示された。怒涛の出来事があったとは言え、まさか一時間も経っていたとは思わなかった。母親の姿に目を向けると、寝巻きを着て肩にタオルを掛けている。家を出る時を思い返すと、まだ白い半袖の私服を着ていたはずだった。本当に心配はしているのだろうが、「まぁ、帰ってくるだろう」という気持ちが見え見えである。まさに放任主義である冬亜の母親らしい。
「あんたも早く風呂入って寝なさいよ」
眉尻を下げた呆れ顔で一言そう言うと、さっさと自室へと入ってしまった。少しするとドライヤーの音が聞こえ始めた。
ほっとすると夕飯を食べ損ね、空腹であったことを思い出した。とりあえずキッチンに向かい、冷蔵庫を漁る。ちょうどチルド室にサラダチキンがあるのを見つけその場で食べた。風呂に入るのが怠くそのまま歯も磨かずに自室のベッドへ飛び込む。ヴーヴーとスマホの着信音が鳴った。伏せていた目を画面に向けると【竜樹】の文字が表示されていた。
【無事に家に着いたか?】
わざわざ心配して連絡をよこしてくれたのだ。冬亜も竜樹が無事に家へ辿り着いたか心配だったがこの文を読む限り、無事帰れたのだろう。
【今さっき帰ってこれたー】
安否の文だけ送信してスマホを閉じる。
(天宮さんと連絡先交換しとけばよかったな……)
考えているうちに瞼が下りてきてそのまま意識を手放した。
次に目が覚めると、もう朝になっていた。
時刻は八時半。あんな事があったとは思えないほどぐっすり眠れた。今日はまだ日曜日、昨日偶然会えたとは言え、また天宮冷斗に確実に会うには一日待たなくてはいけない。冬亜からすれば長い長い一日だ。