屋根裏監獄の訪問者〜もうすぐ売られる私に、ちんちくりんの精霊(?)が話しかけてくるのですが〜
【7日連続】短編投稿予定です!
第4弾はこちら↓↓↓
「ハハハ、こいつ、またコケてやがる」
「まったく、みっともない!」
窓の外には、みぞれ混じりの冷たい雨が降っていた。
「申し訳ございません」
謝るしかない。大切な蝋燭を無駄にしてしまった。
足には、妹の悪意に満ちた足の先が絡んでいたのだが。
シャーニャ・アーチェマが私の名前。
妹のドラクスは母親と一緒に、倒れた私のことを見下し、笑っていた。
「本当に、この小娘ではなくて、あの人が生きてくれればよかったのに」
それが母の口癖だ。
父に連れられアーチェマ家の屋敷へとやってきたはいいものの、シャーニャに愛を注いでくれた父は、3年前に流行病で亡くなった。
その日から、シャーニャの屋敷での立場は、みるみるうちに失われていった。
「ちょっとドラクスちゃん、お願いがあるの。この蝋燭で汚れた娘を、外で洗ってきてくれないかしら?」
妹、ドラクスは私とは違う。異母姉妹だ。母は、自分の生き写しのような顔を持つドラクスを溺愛している。私とは、ぜんぜん違う……。
「おい、綺麗にしてやるっつってんだよ、早く来い」
ドラクスは粗末な平民服に身を包んだシャーニャの体を強く引っ張り、雨の降りしきる外へと連れ出す。
暗い林のなかへと連れていかれる。周りには誰もいない。シャーニャは、涙がこぼれそうになる。
「ボフッッ」「ボフッッ」
地面に溜まった泥水に、何度も顔が押しつけられる。顔面の毛細血管が、その冷たさに縮こまってゆく。痛みすら感じないほどの痛みが、声にならない悲鳴を上げながら。
「ほら、汚ねえ顔を洗ってやったんだからな! 感謝しろよ!」
そう言い捨てると、ドラクスは家の中へと入っていった。
口の中に入った泥水の味がする。苦しかったが、水に浸かっている間は怖くはなかった。
家の中にいる毎日の方が、よっぽど地獄だったから。
いつまでシャーニャはその場にいただろう。
空から降る雨が、体を打ち付ける。
ふと人の気配がして、シャーニャは周囲を見た。
「そこに……誰かいるの?」
「また、いつの日か……」
そんな声が、聞こえた気がした。シャーニャは声の主を探したが、そこには誰もいなかった。
☆ ☆
シャーニャがこのアーチェマ家にやってきたのは6年前の寒い冬だった。
アーチェマ家の農場はとてつもなく広い。元を辿れば貴族筋だと言う話もあるのだが、現在では多くの貧しい小作人を抱え、不当に働かせ、大規模な農場を経営する豪農になっていた。
父・テセウスは伯爵家に生まれた三男だったという。しかし兄弟きっての変わり者で、家を飛び出して、在野で研究に勤しんだらしい。
父がなぜこの成金的な雰囲気漂うアーチェマ家に私を連れてやってきたのか、本当の理由をシャーニャは知らない。
私を生んだ母を亡くした父は、やはり寂しかったのだろうか?
娘と二人で生活していくほどの稼ぎがなかったのだろうか?
正直に言えば、シャーニャは本当の母と父と、三人で暮らしている時から、父の仕事が不思議だった。どれだけ立派でも、お金のもらえない仕事なのだと感じたこともあった。
それでも、シャーニャは研究者である父の話が大好きだった。
なかでも特によく覚えているのは、寝る前にベッドで優しく教えてくれたこんなお話。
「かわいいかわいい宝物のシャーニャ。世界というのは本当に広くて、不思議なことで満ちていて、街を一歩出れば、見たこともない美しい鳥が飛び、色鮮やかな花が咲いている。シャーニャは、そんな素晴らしい世界に生まれてきたんだよ」
鳥は知っている。花も知っている。でも、この世界にはもっと美しくて、素敵な鳥や花がいるんだ……。私が見たことのないどこかで。
「でもね、一番すごいのは……海さ!」
「ウミ?」
「ああ。でもこの街に海はない。街には収まらないほど大きくてとてつもなくて、あらゆることを包み込んでいる。そうだ! シャーニャが大きくなったら、一緒に海を見に行こうか。お父さんとの約束だぞ?」
「やくそくー!」
約束……守ってよ。お父さん。シャーニャは父のことを思い出しては切なくなる。
「海……」
いつかその場所に、行ける日は来るだろうか。父と一緒には、叶わなかったけれど。
☆ ☆
今はもう、シャーニャに外の世界のことを教えてくれる人はいない。
朝は屋敷の誰よりも早く起き、母と妹の洋服をきれいに伸ばしてならべ、食事を作り、屋敷中を掃除する。
小作人と同じだ。肉体労働の日々なのだ。
そこに、人間らしい尊厳はない。
シャーニャが蝋燭を倒し、「しつけ」を受けたあの日から、母と妹からのいじめはますますエスカレートしていった。
しかし、彼女たちがシャーニャへの憎悪をさらに募らせたのには一つの理由がある。
私は、魔法が使えない。
そう、発覚したのだ。
人は成長に従って、体内に魔力を蓄えていく。魔法のひとつやふたつ、男でも女でも使えるのが当たり前。しかし、シャーニャはいくら勉強し、努力しても、魔法を使うことができなかった。
優秀な妹は、あたらしく習得した攻撃魔法や炎の魔法を、「練習台」だといってシャーニャに向けて放った。
「この世界で魔法の使えない人間なんて、生きている価値がないじゃない! ギャハハ」
そう楽しそうに言い捨てながら。
母は「もっとほら、ここをよく狙いなさい?」とドラクスをけしかける。シャーニャの美しいブロンドの髪を指差して。
「キャハハ! 最高!」
ドラクスは無邪気に杖をふりかざす。本当の母によく似た、私のブロンドの髪の毛が、燃えて、焦げて、溶けてゆく。
「ごめんなさいって言え! ごめんなさいって言え!」
妹、ドラクスは繰り返す。シャーニャには、しかし受け入れるしかないのだ。自分が、生き延びていくために……。
「ごめんなさい、生きていて、ごめんなさい」
窓の外では土砂降りの雨が、美しいはずの世界を、濡らしていた。
☆ ☆
「器量が悪い。魔法も使えない。そんなあなたが、唯一価値になる方法があるのよ?」
ある日、シャーニャは母にそんな言葉をかけられた。
後ろで、ドラクスがにやにやとした笑みを浮かべている。
「あなた、盟主さまのところにいってらっしゃい。盟主さまはあなたの価値に見合わないほどの大金を、私たち一家に下さると言うのよ」
「盟主さま……とはどなたなのでしょうか?」
私の問いかけに、ドラクスは間髪入れずに反応する。
「こいつ、そんなことも知らないなんてマヌケもいいところね! ああ、恥ずかしい。こんな物知らずが仮にも姉だなんてねえ」
「盟主さまってのはね、カンバ・ドルドー男爵家のことよ。もうわかるでしょう?」
二人が言っていることが、シャーニャにはわからなかった。
「私は、ドルドー男爵家という場所で、今後一生暮らして行くのでしょうか?」
「だまらっしゃい! もう二度と説明させるんじゃないよ!」
そう母はいつもの喧騒でまくしてて、冷たい顔で言ったのだ。
「あんたは“少女奴隷”として、そこで新しい旦那様に売られるのよ。ドルドー男爵家は、その秘密のオークション会場のこと。そこであなたはオークションまでの日を過ごし、物好きな金持ちのオトコに、売られるの!」
キャアア! と狂ったような声をあげてドラクスが笑う。その声が、なんとも不吉に静かな屋敷の空気を揺らす。
「不幸の似合うあなたに、ぴったりじゃない!」
そうか、私は売られるのか……。
自分の運命を知ったシャーニャだが、その時の感情は「悲しさ」でもない、「無」に近かったように思う。
どこにいても、そこが私のあたらしい地獄なのだから。
「アカの他人であるあなたを、ここまで善意で育ててあげた私たちに、せめてもの恩返しをしたい。そう、あなたも思うでしょう?」
ここまでストレートな物言いだと、逆にすっきりしてしまう。この人は、これまでもずっと、私と早く絶縁したかったのだ。
シャーニャは静かに頷いていた。そして翌日、私はアーチェマ家の屋敷を出て、ドルドー男爵家へと向かった。
☆ ☆
街はずれの、人気のない丘の上に、ドルドー男爵の五角形の館は建っていた。煉瓦造りの、冷たい、冷たい建物だった。
「ここから脱走するなんて、できっこないのだろうな」
そんなことをシャーニャは考えた。
しかし、そもそも脱走しようなどと思ってはいなかった。私は魔法も使えない、出来損ないの女にすぎない。どうせ見つかって連れ戻されて、売人である男爵、そして母と妹にこっぴどく罵倒されるのが関の山だ。
期待もしていなかったが、ドルドー男爵家での生活は、やっぱり人間以下のものだった。
屋敷にはシャーニャ以外にも、同年代らしい少女が複数監禁されているらしかった。
シャーニャにあてがわれたのは、屋敷の屋根裏部屋、ベッド一つが入るだけのあまりに小さく粗末な空間だった。
男爵はシャーニャがそこへ入る前、中に置かれていた雑巾や箒などを乱雑に出し、シャーニャのスペースを作った。つまり、物同然なのだ、奴隷少女というのは。
食事は1日1回。不味いスープと硬いパンだけ。風呂は3日に1回。呼び出される時は、名前ではなく番号で。
シャーニャはアーチェマ家の農場の隣にあった豚小屋のことを思い出した。
木の棒で尻を叩かれ、干からびた牧草を無理やり食わせる。言うことを聞かなければ、硬いブーツの底で蹴り飛ばされる。豚はそれでも、何も言い返せないし、何もやり返せない。
その姿を見て、ドラクスが大笑いする。
それは豚が豚として、このアーチェマ家の農場に生まれてきてしまったから。残酷だけど、運命。きっと、たったそれだけのことなのだ。
シャーニャは硬いベッドの横の壁に埋め込まれたささやかな小窓のふちを触りながら、思う。
ここは屋根裏部屋ではない、屋根裏監獄だ。
男爵は一度、私たち奴隷少女を一堂に集めて、このような話をした。
「先日ハルバート侯爵の元へと買われたお前たちの中の一人が、1ヶ月も経たずに死亡した。そんな勝手をする自由が、お前たちにあるとでも思っている者はいないだろうな? おかげでこちらは、商売人としての信頼を失うことになる。もう一度言う。貴様らには死ぬ自由すらない。決してない! すべて、買われた先の主人の命令に忠実に従って生きるよう。自分が高価な商品であるという自覚を持つように」
買われて1ヶ月で亡くなったという少女は、その家でどんな仕打ちを受けたのだろう? シャーニャは想像しようとして、やめた。想像するまでもなく、近いうちに私にもやってくる現実の苦しみなのだから。
☆ ☆
この屋敷の奴隷オークションが好事家たちの間で人気なのには理由があった。
それは毎日夕方になると、私たち「商品」が軒先へと手足を縛られ、見世物にされる「陳列の時間」があるからだ。
つまり、何度でもじっくりと実物を見てからオークションに参加することができるのだ。
その日は、雨だった。
いつものように夕刻、軒先での陳列が終わり部屋へと戻ると、シャーニャは目を疑った。
「あなた……だれ?」
見たことのない妖精のような小さなものが、小窓の近くに浮いていた。
どんなに惨めな仕打ちを受けたとしても、もう自分の心は乱さない。シャーニャはそう思って生きてきた。
でも……。
目の前に突然現れたライトブルーのモンスター(?)には驚かざるを得なかった。
大きさはちょうどシャーニャの手のひらに乗るくらい。形は頭のほうがウェーブしながらツンとしぼむ“しずく型”で、可愛らしい目と口、バランスの取れなさそうな小さな手と足もついている。
「目、まんまるだよ? こわい?」
(しゃべった……!)
怖いと言うか……誰でも驚くだろう、この部屋に来て初めての、訪問者なのだから。
「あなたはどこから、入ってきたの?」
「そりゃあ」
と言って、ライトブルーの浮遊モンスターはくるっと小さな体を反転させて、小窓の外を見る。
しとしとと、細やかな雨粒が天から降り注いでいる。
「ここからだよ!」
「ここからって……窓は閉まっていたでしょう?」
えー、どういうことー? とでも言いたげに小さなモンスターは口をすぼませる。モンスターなのになんだか、表情が豊かだし感情が見えて……カワイイ……。
「僕は水の精霊。だから僕は水があるところを、すいすいーっと伝って来たんだ。ほら、こんな雨の日の空気には、水蒸気がたっぷりと含まれているでしょ?」
(……そういう、ことか?)
水の精霊の言う話は半信半疑だったが、世界には「精霊使い」という職もあると聞いたことがある。まあ、非常に稀有な才能で、世界人口のごくわずかの人間にしかその称号は与えられないはずだけど。
「あなたの名前は?」
シャーニャが聞くと、水の精霊はとびきりキュートな笑顔で、こう言った。
「僕はマレポイ!」
それでー、とマレポイは続ける。
「それで、君の名前は?」
わたしは……と考えて、シャーニャは苦しくなった。
この男爵屋敷に来てから、私の名前を呼ぶ人間はいない。ただ、割り振られた無機質な「番号」が与えられているだけなのだから。
しかし、そればかりではない。
この屋敷の外にも、きっと、わたしの名前をちゃんと覚えてくれている人なんて、いないのだ。母も妹も、いつも私のことを「お前」とか「アンタ」と呼んでいた。
「わたしは、わたしはシャーニャ。苗字は……今はない、かな」
シャーニャはそう答えながら、はにかみ笑いをつくる。
(お父さまが、いてくれたらなあ)
何かにつけて、やっぱり思い出してしまう。でも、悲しくならずに済んだのは、目の前にマレポイがいたからだった。
「悲しいかお? ぼくはシャーニャに出会えて、こんなに嬉しいのに!」
そう言って、マレポイはその場でピョンピョンと飛び跳ね、くるくると体を回転させながら小さな水飛沫を出す。
「ねえ、ベッドが濡れちゃうでしょう?」
そう言ってマレポイの小さなふたつの瞳を見るシャーニャの顔には、無垢で美しい笑みが浮かんでいた。
あなたは、どんな場所からやってきたの?
あなたの、使い主はいるの? どんな人?
あなたには、家族がいる? お父さんや、お母さんは?
そして……。
あなたは、なぜわたしの元へとやってきたの?
聞きたいことは、山ほどあった。でも、シャーニャがそれを訪ねる前に、水の精霊マレポイは去っていってしまう。
「また、いつの日か……!」
そう笑顔で言い残して。
☆ ☆
マレポイとの突然の出会いは、シャーニャの日々に一瞬だけ戻った、儚い彩りだった。とっても鮮やかで、幸福な。
だが、もちろんシャーニャの男爵屋敷での暮らしが変わるわけではない。
周囲を埋め尽くすのは、これまでと変わらない、人間以下の、尊厳を奪われた色のない時間だった。
1日1回与えられるスープは、日に日に味がしなくなっていった。
しかし、シャーニャの心は明るくなった。
マレポイが時々、シャーニャの屋根裏監獄の小窓に、やって来てくれるようになったのだ。
それは、決まって雨の日だった。体を冷やす霧雨の日も、天を割くような雷雨の日も、ひそやかな小雨の日だって。
男爵屋敷の軒先で、貴族たちの好奇の目線と冷たい雨に晒される時間は、か細いシャーニャにとってもちろん辛いものだったが、その後にはマレポイと会うことができた。
彼は明るくて優しくて、ちょっとおとぼけだけど素直で。
屋根裏のドアを開けて、小さなライトブルーの体を見つけると、本当にシャーニャは小躍りしたい気分だった。
マレポイはシャーニャに、いろいろな話をしてくれた。シャーニャが部屋から出られない代わりに、外の世界を教えてくれた。
ある雨の日、マレポイはシャーニャに「こんなお話があるんだ」と話し始めた。
《とてもとても昔のこと。ある国に、勇気があって優秀で、素晴らしい心を持った国王と妃がいた。その国は平和に繁栄し、二人は民衆からとても慕われていた。
国王は勇者、妃は才能ある魔女だった。
しかしある日、その国を恐ろしい大雨が襲った。民家が流され、田畑は壊れ、多くの人が亡くなった。
「どうにかしなければ……」そう思った勇者と魔女だが、天災を解決する方法がない。困った魔女は、海へと向かった。
そして、荒れ狂う海へ向かって、言った。
「わたしの命と引き換えに、この災いを鎮めたまえ。それが叶うのならば、命など惜しくない」
そして魔女が大海原へと身を投げると……海は、魔女の心を受け止めた。大洪水は、終わったのだ。
魔女の死を心から悼み、勇者は毎日のように海に向かって感謝の気持ちを述べた。そして悲しみに暮れる代わりに、自らの天命として、荒れ果てた国土の立て直しに注力した。
勤勉な国王の先導で見事な復興を遂げた国は、それまで以上に繁栄したのだ。》
マレポイはこんなに可愛らしい見た目だけれど、語ってくれたストーリーはとても儚くて切ない。けれど、そんな話を聞いている間、シャーニャの世界は小さくて埃だらけの屋根裏をするすると抜け出して、大きく羽ばたき始めるのだ。
「それで、そのお話は終わり?」
「いいや、実はまだ続きがあるんだ」
そう前置いて、マレポイはまた物語を続ける。
《そして神は誠実な勇者に、「海の精霊使い」の力を授けた。その勇者が天寿を全うして亡くなると、その正統後継者へと「海の精霊使い」の力が継承されることになった。
いにしえの勇者が何人死んでも、どれだけ時が流れても、そうして「海の精霊使い」は脈々と受け継がれてきたという。
一方、神は自らの命を投げ出した慈悲深い魔女のためにも、何かを与えたいと考えた。しかし彼女はもうこの世にいない。
だから、神は「海の魔女」の特別な力を、世界の片隅で生きる少女に、無作為で与えることにした。》
そこまで語ると、マレポイは「『海の魔女』が死ぬと、またランダムで新たな少女が選ばれる、ってことらしいよ」と付け加える。
「『海の魔女』かあ」
「そう。それで、このお話の最後はこう」
《海の精霊使いと海の魔女が再び出会う時、素晴らしい幸福がこの世界を包むだろう》
☆ ☆
生活は変わらない。
それでも、マレポイと話している間だけは、シャーニャは現実を忘れることができた。私の心は誰のものでもない。自分だけのもなのだ、と。
しかし、現実は残酷だった。
静かでささやかな幸福を切り裂いたのは、これまで何度も聞いた、陰湿な声だった。
「うわぁ! マジでいるじゃん、あいつ! 前よりメッチャ汚くなってるし。うわ、こっち見た」
「刺激しちゃダメよ、ドラクスちゃん。もしまたあの子が変な気を起こして、うちに帰りたいなんて言い出したらたまらないからね」
忌まわしい母と妹がなんの目的か、男爵屋敷へとやってきたのは夕刻の「陳列」の時間だった。
ドラクスは社会科見学でもするような能天気さで、陳列された私たちを見下しながらゆっくりと歩いていく。
私の前で立ち止まると、全身をジロリと舐めるように見て、「クッサ!」と言い捨てた。
そして、シャーニャが胸の前で両手で掲げる「スペックリスト」の板を大袈裟に見る。
「キャー、コイツ、『魔法能力:0』だって! 逆に激レアじゃね、お前がロクな金持ちに売れるわけねえか!」
「ほんとうね。恥ずかしいとは思わないのかしら。私はとっても恥ずかしいわよ、数回だとしても、『お母さま』だなんて呼ばれてしまっていたのだからね」
「もう2度と、私たちのこと家族だなんて思うなよ! あー、寒気する」
「帰りましょうか、ドラクスちゃん。じゃあアナタ、せいぜい買われるまでの時間を楽しみなさい。永遠に、さようなら」
その時、シャーニャは自分のことを大きなスープ皿のようだと思った。何も入ってはいない。空っぽの、空洞。中にあるのは、無だ。
だから、彼女たちに何を言われても、何も感じなかった。
帰り際、シャーニャは自分の「スペックリスト」を見た。殴るような文字で書かれた「魔法能力:0」。私は、空っぽの空洞だ。
その時ふと、ぱらぱらと雨がシャーニャの肩を濡らした。急ぎ足で屋根裏へと戻る。「もしかしたら……」
「今日も来ちゃったー」
やはり、来てくれた。それだけがシャーニャの心の支えだ。
マレポイはシャーニャの浮かない顔を見て、「何かあったの?」と聞く。
「ううん。なんでもないの」
そっかー、とマレポイは言う。そして、
「この間話した『海の精霊使いと海の魔女の話』、覚えてる?」
「もちろん。とっても、素敵だったから」
それでね、とマレポイは珍しくかしこまったような表情を作る。浮いているのに、短い脚を正座するみたいにくいと折り曲げて。
「シャーニャに、言わなきゃいけないことがあるんだ。本当はきみが、いまの『海の魔女』なんじゃないかって」
「わたしが、『海の魔女』??」
そんなわけ、あるはずがないじゃないか。その時シャーニャは、マレポイらしくないひどい冗談だよと思った。だって私はこれから、悪い主人の元へと売られていくんだよ?
「そりゃあ、いきなり信じろって言うのも難しいとは思うけど……」
いろいろと、反論したいことばかりだ。
「私はこの街で生きてきて、まだ海を見たことすらないの。それがどんな場所なのかもわからない。そんな人が、『海の魔女』なわけないでしょう? それに……」
シャーニャは息を紡ぐ。
「それに、私は魔法が使えないんだよ? 魔法が使えない魔女なんて、そんな話あるわけないわ。それがいちばんの、証拠だよ……」
「シャーニャは僕の話、面白いから好きだって言ってくれたじゃん。信じてよ!」
「それはそうだけど……」
その時、扉の外で「ドン、ドン」と大きな音が鳴った。男爵から、なにか命令があるときの合図だ。
「お前たちが参加する、オークションの開催日がついに決まった。今週末だ。自分の価値が少しでも釣り上がるよう、それぞれ身なりを整え、用意しておくことだ」
いよいよ、その時が来たのだ。
あたらしい地獄と、目を合わせないといけない時が。
「もう私たち、お別れの時みたい」
シャーニャは悲しそうにマレポイに言う。
マレポイは、そんなシャーニャを見つめて、めずらしく強い声で言った。
「シャーニャは僕と一緒に、暮らしたくないの?」
「だから、さっきの話聞いていたでしょう? 私は今週末、この屋敷を出て、新しい家へ買われていくの。あなたのことは大好き。でも、一緒にはいられない」
「いられるさ! シャーニャが心から、それを望んでくれるのならば。それに僕は……これからもずっと、シャーニャと一緒にいたいんだ。きみのことが、好きだから」
そんな言葉を掛けられたのは、生まれて初めてだった。シャーニャはその時、自分のこれまでの人生のことを、思い出していた。
お父さまとの温かな日々。
アーチェマ家での下女のような生活と、ドラクスからされた「しつけ」。
感情を無くした男爵屋敷での陳列、そして……。
屋根裏監獄でマレポイと過ごした、儚くてかけがえのない時間。
「わたしは……わたしは、あなたと一緒に暮らしたい。わたしの地獄を、とめて……」
捻り出したようなか細い声だった。
しかし、マレポイはのんきなもの。
「やったあ! シャーニャなら、そう言ってくれると思ってたよ。約束は、オークションの日! その日、僕は必ずキミを迎えにいくから」
屋根から、雨粒が垂れる。ぽつり、ぽつり、と。
そしてマレポイは、シャーニャの前から、消えた。
☆ ☆
迎えた、オークションの日。
男爵屋敷の地下2階にある広間には、さまざまな土地からやって来た怪しげな金持ちの男たちが集まっていた。
「トン、トン」
「120グルでそちらの紳士が落札!」
オークションはもう始まっている。
他の娘たちが売り飛ばされていくのを、シャーニャは肩を震わせながら奥の部屋で聞いていた。
「マレポイ……来てくれないじゃん。嘘つき……」
男爵の手下が、丁重な手つきでシャーニャの肩を掴む。
「立て」
「……はい」
シャーニャは広間へと歩み出る。見定めるような男たちの視線に、シャーニャは吐き気を覚える。
この中の誰かの元へ、私は買われていく。
「それでは、はじめます」
私の値段がコールされていく。
少しずつ、数字が大きくなるにつれ、重たい間が会場を包むようになる。
「ただいま180グル。ほかに入札をご希望の紳士は?」
……。
その時だった。
広間の大きな両開きの扉が、音を立てて開いた。
「その乙女は、私のものだ。他人などには、決して渡さぬ」
そう言って現れたのは、誰もが目を見張るほどの美貌を体全身にたたえた、荘厳な青年だった。
その顔は目、鼻、口と表情を司るそれぞれのパーツが繊細ながら主張し合い均整を保っている。すらりと伸びる身体は、ただならぬ気品を感じさせるシワひとつない皇装に包まれて、ただそこにいるというだけで人々の注目を集めるにふさわしい存在感を放っている。
そして、手入れの行き届いた髪の毛は、一度見たら忘れられない、鮮やかなライトブルー。
「だ、だれだ、貴様は!」
「こんな男を、誰が招待しやがった?」
参加者たちの間にざわめきの波がたつ。
暗い地下オークション会場の怪しげなニュアンスは、彼の登場で壊され、ほぐされていく。それはまるで、朝日がまだ居座ろうとする物欲しげな宵闇を、みずからの強い光で吹き飛ばしていくように。
手足を拘束され、中央に立たされていたシャーニャは、美しい青年と目があった。
「その乙女は私のものだ、って……あなたまさか……」
美しい青年は、厳しい表情で会場中をぐるりと見渡すと、シャーニャのもとへと歩き出す。
サファイアの輝きを宿した青年の瞳が細められ、くしゃっとした微笑みに変わる。
「迎えに来たぞ、シャーニャ」
「え……あなたは一体……?」
シャーニャのぽかんとした表情を見た青年は、「あはは」と笑って言う。
「ならば、これでどうかな?」
青年が手に持った杖を空中でくるりとまわすと……。
ーーポンッ!
「ぼくが約束を破ると思ったのー? ひどいよ、シャーニャ! でもまた会えて嬉しい!」
現れたのは、シャーニャがあの屋根裏監獄で何度も見た、ライトブルーの小さなからだ。
「マレポイ……!」
青年が言う。
「彼は我が第1精霊、マレポイ・エルバンダー。私の分身精霊であり、私の意志そのものだ」
シャーニャはマレポイと青年を同時に見る。
「じゃあ、あの部屋で私が本当に会話をしていた相手は……」
シャーニャが問うと、青年は少し恥ずかしそうに顔を赤らめる。
「私だ」
「あなたは一体……どなたなのですか?」
「ブレラネウス国王、マレス・ロッカーマン。そして、当代の『海の精霊使い』である」
周囲が、激しくざわめき始める。
「本当にあの大国ブルネレウスの国王なのか?」
「海の精霊使いって……?」
「そんな方が、なぜこんなところに……」
周囲には目もくれず、マレスはシャーニャの両肩を抱きしめた。優しく、それでいて強く。
「本当に……助けに来てくれたのですね……」
シャーニャはその瞬間、大きなものに救われた気がした。マレスの体温が伝わってくるのを感じる。貧相な服を着て、風呂にも満足に入れていない自分のことが恥ずかしい。けれど同時にシャーニャの全身を包んでいたのは、これまでの人生では感じたことのない幸福感だった。
「小僧。誰が、俺の屋敷に入っていいと言った? さっさとこいつを締め出せ!」
ドルドー男爵は唾をあちこちに飛ばしながら叫んだ。
「話はすでにこちらの国王陛下にもつけてある。シャーニャと同時に、今ここにいるすべての少女の解放を要求し、奴隷売買の罪で警察隊へと報告する」
参加者たちは逃げ出す者もいれば、あまりの出来事に声も出せず震えている者もいた。
しかし、男爵だけは醜悪な態度を崩さず、より一層尊大な態度で大笑いしながら叫び出す。
「オイオイ、どこに奴隷売買の証拠があるって? 俺は身寄りのない少女たちを、助けてやっていただけだ。金銭は受け取っちゃいないんだから、奴隷売買なんて物騒な言いがかりに過ぎん。さっさと立ち去れ!」
しかし、マレス・ロッカーマンには一切の動揺もない。「フッ」と小さく笑みを作ると、「こちらへ!」と扉の外へと呼びかける。
「な、なんだ?」
「えっ……」
やって来た人物に、最も驚いたのはシャーニャだった。
「お母様、それに、ドラクスも……」
シャーニャをいじめ続けてきた母の腕には、シャーニャを男爵家へと売り飛ばしたあの日、男爵から与えられた高価なネックレスや髪飾りの数々。2人の表情は、光の届かない海底のような陰鬱さで満ちている。
「証人にも来てもらった。シャーニャを貴様に売り飛ばした当本人たちだ。これで、言い逃れのしようもあるまいな?」
言葉に詰まったドルドー男爵は、その場から逃げようとした瞬間、短い足が絡まりドテンと地面に転がった。「お、俺だって言われてやっただけなんだ」とわめきながら、男爵は必死で会場から逃げていった。
☆ ☆
人もまばらになったオークション会場で、マレスに背中を支えられたシャーニャは、自分を売ったかつての家族たちと向き合った。
「シャーニャちゃん。ごめんね、私たち、どうやら何か勘違いしてて。大切な家族の一員であるシャーニャちゃんを、私たちが売るわけないでしょう? ちょっとしたすれ違いよね、さあ、またお家に帰りましょう?」
シャーニャへと語りかける母は、不自然な作り笑いを必死で顔面に貼り付けている。
シャーニャは首から下げていた「スペックリスト」の板を、自分の手で外し、2人を正面で見つめた。
「これまで育ててくれて、ありがとうございました。でも……もうあなたたちは、私の家族じゃない。あなたたちにとって、私は大量生産される野菜たちと同じ存在でしかなかったんだと、あの日気がついたから」
ドラクスが悔しそうに、唇を噛む。
「じゃあオマエは、どうする気だよ」
「私は、マレス様とともにゆきます」
「金輪際、あなた方にはシャーニャに近づかないでもらいたい。ブレラネウス国として、そう要求する」
2人へと言い放ったマレスは、シャーニャの手をとった。
「シャーニャに話したこと、覚えてる? 今、きみは『海の魔女』で、僕が『海の精霊使い』。本当だよ?」
「でも、私は魔法のひとつも使えないんですよ……?」
「『海の魔女』は、あることの対価として、通常の魔法が使えなくなるんだ。だけどその代わりに……」
そうだ、せっかくだから……と言ってマレスは自分の杖をシャーニャに手渡すと、「それを掲げながら、『オケア・セラプト』と唱えてみて」と楽しそうな顔をつくる。
半信半疑のシャーニャが『オケア・セラプト』と唱えると……。
ーーズズズズズズズ
どこからか大きな地響きのような音が聞こえてくる。
「逃げよう!」
マレスは遊んでいるみたいな笑顔でシャーニャの手を取る。
2人が建物の外へと飛び出すと……。
ーーブゥアーーーー!
屋敷の前の巨大な噴水が、天高く逆流しながら飛び出し、巨大な水柱を形作っている。
「すごーーい! これ、シャーニャがやったんだよ!」
マレポイがくるくる飛び跳ねながら叫ぶ。
あまりのことに驚くシャーニャ。マレスは真剣な表情を作ると、言うのだった。
「僕の妃に、なっていただけますか。海の魔女」
もう、シャーニャに迷いはなかった。
「はい、海の精霊使い様」
噴水から飛び出した飛沫は、美しい虹を描いた。
☆ ☆
国土のおよそ半分が海に面している大国・ブレラネウス。潮風は時に、体を打ち付けるほどの荒々しい一面を見せる。
それでも、シャーニャは風に身を任せ、この浜辺をゆっくりと歩くのが好きだ。
この人が、横にいてくれるからーー。
一つだけ、気になっていたことがある。
「私には、いつ『海の魔女』の素質が芽生えたのでしょうか?」
マレスは「そうだなあ……」と少し考えていた。
「それは、みぞれ混じりの冷たい雨が降っていた冬の日だった。僕は雨空を仰ぎ見ながら、どこにいるかもわからない『海の魔女』のことを考えていた。
一滴の雨粒が僕の唇を濡らした時、僕は初めてシャーニャの存在を、遠くだけど近くに、はっきりと、感じとった気がしたんだ」
それは、シャーニャがドラクスの「しつけ」で泥水に何度も顔を埋められた、あの日ーー。
「雨の日には、いつでも君のことだけを考えた。僕らは出会う前から、ずっと繋がっていたんだ」
シャーニャは、運命というものの皮肉屋な不可解さに思わず微笑してしまう。
「愛しています。これからも、ずっと」
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「マレポイ可愛いかも」
「シャーニャの家族ヤバすぎる」
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