世界を救った勇者様と、しがない村人Eの物語
この小さな村にこんなにも人がいたのかと驚くほどの人混みの中で、不意にその黒い瞳と視線が合った。
次の瞬間、その目が驚いたように見開かれる。
そして、強い風が吹き抜けたかと思うと――気づいた時には、彼が目の前に立っていた。
泣いたような、笑ったような、複雑で強い表情で。
「やっと……やっと見つけた!!」
「え、と。あの?」
面識はない。あるわけがない。
今日だって、辺境の村に珍しい有名人が来るというので、村を出る前の思い出作りにでもと立ち寄っただけだった。
あまりにも強い視線に、思わずたじろいでしまう。
「君を探していたんだ」
「私を、ですか?人違いではなく?」
「ああ、君をだよ。エマ」
確かにそれは、私の名前だ。
だけど、私はこの人が探すような大それた人物ではない。
むしろ、ただの、辺境の村のそのまたはずれに住む、しがない村人でしかなかった。
「……本当に間違いじゃないんですか?」
「間違いじゃない。ずっと――そう、君が思うより、ずっと長い間探していたんだよ」
感慨深げに、静かに彼が呟く。
初対面でこんなことを言うなんて、まともな人ではないかもしれない。
でも、立場の差は歴然で、拒否権など無い私には、話を聞く以外の選択肢がなかった。
「はぁ、そうですか。それで、私に何か御用ですか?」
言うや否や、ハッとしたような顔で相手が跪いた。
その突然の奇行に驚愕し、言葉を失い固まる。
「エマ、どうか僕と結婚して欲しい。たとえ何があっても僕が君を守るから」
「…………は?」
だが、その後に続く言葉はさらに私を混乱させた。
頭が追いつかず、理解を拒み、なんとか時間を稼ごうと試みる。
「いや、ちょっと待っ」
「嫌?まさか、恋人がいるのか!?そんなはずは無い!だって、君は……」
突然の静寂。
ある意味こちらの願いは叶ったものの、不自然な位置での小休止に逆に怪訝さが募る。
(だって、君は――何だ?)
私に恋人なんているはずないということだろうか。
事実ではある、確かに事実ではあるのだが……馬鹿にされているというのなら、相手がなんであろうと一発殴らなければいけないと、問いただそうとしたその瞬間。
「……相手の名前を教えてくれ。君に相応しい男か決闘して確かめる」
有無を言わせない濃密な気配が場を支配する。
しかし、しばらくの間言葉を失っていたはずの周囲の野次馬達が、やがて、その意味を理解すると好き勝手に騒ぎ始めた。
「いっ、いや。ちょっ、ストップ!」
「たとえ君の頼みでもそれは無理だ。僕にはそれを見極める責任がある」
「だから……あーっもう!!待てって言ってるでしょーが!!!!」
これが、彼との出会い。
そして、世界を救った勇者様と、しがない村人Eの物語の始まりだった。
◆◆◆◆◆
ギャラリーが多すぎて話にならないので、私の家に無理やり連れて行く。
そして、既にほとんど荷造りを終えていた鞄に嫌々手を突っ込みお茶を汲み入れると、怒りを伝えるように机に乱暴に叩きつけた。
「コルシカのお茶か……なんだか、とても懐かしい味がするね」
佇んでいるだけでも感じるその強者としての格の差故だろうか。
まるで、こちらの怒りなどどこ吹く風といったようなその姿に、怒りを通り越して呆れの気持ちが勝る。
「……はぁ。王都ならこんなの粗茶でもでてこないんじゃないですか?」
「確かに。王室の御用商人でさえ知らなかったくらいだからそうなのかもしれないね」
それはそうだろう。
最近になって魔王が倒されるまでは、この周辺は強い魔物や魔獣がそこら中に溢れていて、行商人を見ることさえなかった。
むしろ、ただここらへんで採れるというだけの大して特徴もないお茶を知っている方がおかしいのだ。
「……それで?あの!御高名な!勇者様が!私なんかをたぶらかしてどうするつもりなんですか?」
「はは、は。言い方に棘があるね」
「あなたの立場を考えれば疑問を抱かない方がおかしいんじゃないですか?」
今代の勇者様――通称『抜かずの勇者』様は歴代でも最強とされ、この辺境でさえその噂が聞こえてくるほどだ。
異世界から呼ばれたはずの彼はただの一度も負けることはなく、全てを切り裂くという聖剣すら、一度も刀身を見せる機会がなかったという。
さらには旅の道中、大きな街より小さな村々を優先して救って回り、魔王を倒した後もその巡回を続けているまさに英雄。
先ほど村の人たちがこぞって押し寄せていた様子に、その人気が覗える。
「…………ただ僕は、君の隣にいたい。ただそれだけなんだ」
またその顔だ。様々な感情が入り混じった複雑な顔。
紡がれた覚悟を滲ませる強い言葉に、頭の中で辻褄が合わせられずに混乱する。
だって、彼と私の間には何もない。今日交わした言葉だけが、二人の共通の記憶だった。
「……一緒に旅をされた王女様が求婚されたと、噂では」
「僕には君以外考えられない……たとえ何度人生を繰り返したとしても、君を選ぶだろう」
その真剣な瞳は、悲壮感さえ感じさせるようなもので。
相手が本当のことを言っているのはなんとなくわかる。
「……そうおっしゃられても……私にはあなたを選ぶ理由がありません」
だからこそ私にはわからない。
そして、得られるであろう豊かで幸せな暮らしというものに、ちっとも心惹かれない。
「………………僕は冷静じゃなくなっていたみたいだ。こうなることは少し考えればわかったはずなのに」
寂し気な笑顔。
どこか納得したその姿が、それに拍車をかけていた。
「困らせるつもりはない。ただ、時間を貰えないだろうか」
「それは、どういう意味でしょう?」
「一緒に旅をしよう。僕がいれば、君が望むどんな場所だっていけるはずだ」
「……なぜ、それを」
私には夢があった。
今は亡き父が、冒険者だった頃に持ち帰ってきた絵本に書かれた世界中の美しい景色を見て回ること。
筆者である古代エルフだからこそ行けたであろうその場所に赴くことが、大きくなるにつれてどれほど無謀なことなのか理解できたとしても捨てられなかった夢が。
「荷造りは終わっているんだろう?この機を逃す理由はないと思うけど」
先ほどと打って変わった楽し気な雰囲気。
こちらをからかうかのようなその態度は、とても癪に障る。
……ただ、その魅力的な提案に首を振ることができないこともまた事実だった。
「………………………………いいでしょう」
「ははっ。ありがとう」
「……ただの用心棒として、よろしくお願いします」
「そうだね。それと、僕の名前は倫太郎だからそう呼んでくれ。敬語も無しでいい。その方が咄嗟の指示も出しやすいだろうしね」
「わかった。私のこともエマでいいわ。これからよろしくね、リンタロウ」
「………………ああ。これからもよろしく。エマ」
その声は、微かに震え、握られた手は軋むほどに強く握られているようだった。
(……変な人。でもまぁ、いいか)
これ以上考えても疲れるだけかと自分の面倒臭がりな性格が顔を出す。
でも、こちらにとって願ってもないことだったのは確かで、その逆に相手にとってのメリットが微塵も思い浮かばない。
だから、それでいいと思った。旅に同行さえしてくれれば、特別仲良くなる必要も無い。
のらりくらりと、付き合ってもらえるだけ付き合ってもらおうと、この時の私はそう思っていた。
◆◆◆◆◆
あの日から、五年。いろいろなところを旅した。
初めの頃、最上位の冒険者達ですら尻込みするような人外の魔境を巡った。
悪鬼が屯する、骨すらも残らない地獄洞穴。
羅刹蟲が生息する、永久の苦しみを与えるという苗床の谷。
大地自体が意志を持つ、永遠の道が続く無限廻廊。
それから、人類が足を踏み入れた記録のない最果ての地を巡った。
竜帝が座する、鉄をも溶かす灼熱に包まれた滅びの山。
氷姫が支配する、吐いた息すら瞬く間に凍る絶対零度の凍原。
邪神の住まう、光を呑み込むほどの闇に包まれた黒染めの神殿。
たくさんのところを旅し、たくさんの記憶を共有した。
人よりは肝の座っていると自負する私すらも顔が引き攣るような場面が多かった。
でも、リンタロウはいつも余裕そうで、楽しそうで、どこにいても、何があっても私を助けてくれた。
「大丈夫。たとえ何があっても僕が君を守るから」
その一言とともに。
そして、今、世界を見下ろすことのできる空中庭園に二人で座っている。
一年中咲いているというここだけに咲く白い花が、淡い光を放っていてとても綺麗だった。
「やっと、君と全部回ることができた……今回の旅は本当に、楽しかったよ」
寝転びながら、楽しそうな声で彼が言う。
「…………そうね、楽しかった。正直、本当に行けるなんて思ってもいなかったの。リンタロウ、全部貴方のおかげよ」
諦めかけていた夢。挑戦して、すぐに屍になるのだろうなとなんとなく思っていた。
でも、私は行きたかった場所、景色をすべて巡って、擦り切れるほどに読み返したその本の最後を今開いている。
≪全てを見し者、願いを叶える≫と、刻まれたそのページを。
「いや、エマ。お礼を言うのは僕の方だ」
旅の途中、繰り返し聞いた彼の口癖。
身に覚えのないその感謝に、何度理由を聞いてもはぐらかされた末に、彼は旅の最後にそれを教えてくれると約束してくれた。
「またそれ……でも、ようやく理由を教えてくれるのよね?」
「…………そうだね。死亡フラグはさすがにもう大丈夫そうかな」
彼の世界の言葉らしい意味の分からない言葉。
今回の旅は必ず生きて乗り越えたいと、縋れるものはなんでも縋ると、何でもできる彼には相応しくないことをその時言っていた気がする。
「なら、いいじゃない」
「……ああ。少し長くなるけど聞いてくれる?」
「もちろん」
いいから早く話せと促す私を見ると、彼は苦笑気味にポツリポツリと話し始めた。
私の知らない、私と彼の話を。
◆◆◆◆◆
平凡な高校生として平和な日本で暮らしていた僕、立花 倫太郎はある日この世界に突然召喚された。
そして、右も左もわからぬうちに、僕は流されるままに勇者として歓迎され、魔王を倒す旅に仲間達と旅立つことになる。
普通であれば、平和な日本で暮らして来た僕に何もできるわけがない。
でも、召喚された時に持っていた聖剣はご都合主義の塊のようなもので、それを鞘から抜くだけで何もかもが手に入った。
あらゆる攻撃を弾き、風よりも早く駆け抜け、どんなものでもバターのように切り裂く。
一人だけがチート状態の中で、何も考えずに剣を振るだけで全てが上手くいく。
いつも称賛してくれる仲間達に、どこにいっても歓迎してくれる人々、そんな世界で甘やかされた僕は、いつしか天狗になっていた。
魔王を倒し、聖剣がその手から消えるその時までは。
最初は良かった。魔王を倒し、凱旋する。
誰もが僕を褒め称え、前世では縁も無かったような美女達が言い寄ってくる。
きっと、ゲーム感覚で楽しんでいた僕はもっと早く気付くべきだったのだ。
これは現実だと。この世界にいる人たちは僕の都合のいいように動いているわけでは無いのだと。
でも、愚かな僕は殺されかけて初めてそれに気づいた。
魔王という脅威が無くなり平和になった世界では、邪魔になった僕を排除したい人がいることに。
あの夜、なぜか目が覚めた僕が周りを見渡すと、剣を構えた騎士達に囲まれていた。
聖剣頼りだった僕はあの時死んでいてもおかしくなかっただろう。
だけど、火事場のクソ力というやつなのか、傷だらけになりながらもなんとか逃げ出すことができた。
その後も不幸は続いた。
翌朝には身に覚えのない罪が幾重にもかけられていて、国中でお尋ね者になっていた。
優しかった人々はその目も眩むような懸賞金に手のひらを返して僕を追いかけるようになり、浮浪者以下の生活が始まった。
そして、長い逃亡の果て。空腹で倒れ、意識が遠のく中で、頭の上から声が聞こえてくる。
「……はぁ。しょうがないわね」
パチパチと音を立てる焚火の音に目が覚めると、恐らく意識がなくなる直前にかかった声の主だろう。
若い女性が目の前でこちらをじっと見つめていた。
「……っ」
逃げようと体を動かそうとするも、すぐに倒れこむ。
這いずってしか動けない僕の姿に呆れたのだろう。
ため息が聞こえると、温かい食事が目の前に置かれた。
「あげるわ。お腹、空いてるんでしょう?」
「…………」
毒を疑いながらも欲望には勝てず、むさぼるようにそれを食べる。
そして、最後の一滴までスープを舐めとるようにしていた時、頃合いを見ていたのか彼女が口を開き始めた。
「あなたが追われてるのは知ってる。一生遊んで暮らせるくらいの懸賞金がかかってることも」
「……………………」
「心配しないで。私にはやることがあって、そんなことしてる暇ないの。まぁ、一応恩もあるっちゃあるしね」
「……恩?」
「私のお父さん、魔王の手下にやられたのよ。冒険者だったし、そうなったのもやむなしとは思っていたけれど……仇打ちといえばそうなるかなと」
投げやりな言葉。
なんと返せばいいか悩み、お礼だけは言った方がいいかと口を開きかけると、それを手で制される。
「お礼はいらないわ。ただ、自分がやりたくてやっただけ。自己満よ、自己満」
自分の中の筋を通しただけ。その潔さが、なんだか眩しかった。
そして、ただ流されるまま、生きてきた僕とは大違いだとも思った。
「…………」
「この後は、どうするの?」
「……わからない」
未来はおろか、今日のことも見通せない。
ただただ、過去の後悔ばかりが堂々巡りになって、それでいて痛いのは、死ぬのは嫌だからと逃げ回っている。
この先のことなんて少しも考える余裕はなかった。
「どうしたいのよ」
「……わからないんだ、本当に」
この意味のない問答に怒りを募らせたのだろう。
気性の粗さを表すように足が地面をたたき始め、眉間に皺がどんどん寄っていく。
射貫くような視線を直視できずに僕が顔を下に伏せると、大きな大きなため息がやがて聞こえてきた。
「……はぁ。なら、私と旅をしましょう、勇者様。命の保証なんてまったくできないけど、それでいいなら」
「…………命の保証なんて、今さら。でも、君はそれでいいの?同じお尋ね者になるかもしれないよ?」
「いいのよ。どうせ、この先進む場所に人なんていないわ。私は夜の見張りの交代役を得られてラッキー、あなたは人外魔境で嫌な記憶も吹っ飛んでラッキー。どう?最高じゃない?」
「は?……はっ、はははっ。それはとても素敵な提案だ」
突拍子もない話に、いつぶりだろうか。思わず笑いが漏れた。
でも、本当に素敵だと思った。この、気持ちのいいほどあっけからんとした彼女と旅ができるなら、それが一番だと。
「でしょ?なら、決まり。私はエマ。よろしくね、勇者様」
「リンタロウでいいよ。こちらこそよろしく、エマ」
そう言って、僕らは二人で旅を始めた。
リンタロウとエマ。
他人に用意された勇者という役ではなく、初めてこの世界で僕が選んだ、僕自身の居場所として。
≪古代遺跡≫
古めかしい遺跡の中を歩いていた時、とても立派な宝箱が目に入った。
さも見てくれと言わんばかりの怪しい置き方をしてあるそれを当然通り過ぎようとしたけど、彼女は目を煌めかせながら僕を引き止めた。
「待って!貴方の目は節穴なの?」
「……ねえエマ、これ絶対罠だと思うんだけど。こんなあからさまな宝箱なんて普通ないよ」
「でも、開けなかったらずっと心残りになりそうじゃない?罠探知の魔術には無反応だし、宝物が入ってるかもでしょ?」
「そうかもしれないけどさ」
「でしょ?じゃあ開けるわよ」
「……気が進まないなぁ」
「ほら、元とはいえ勇者でしょ!シャキッとしなさい」
「はいはい。わかったよ」
確かに罠では無かった。
でも、中にあったのは『愚か者』と刻まれた石板だけで、エマを激怒させた。
そして、それを見て爆笑していると、思いっきりビンタされた。
≪誘い洞窟≫
暗い洞窟の中を光魔術の明かりだけを頼りに歩いていた時、何故か突然前を歩くエマに蹴りを入れられた。
「ちょ、痛いんだけど。急にどうしたの?」
「…………今、お尻触ったでしょ」
「触ってないよ」
「嘘ね。私が千年……いえ、一万年に一度の絶世の美女で触れたくなる気持ちは分かるけど、そういうのはさすがにね」
「いやいや、触ってないから」
「往生際が悪いわね。もういいから、次は貴方が前に行って」
「はぁ。本当に触ってないのに」
そして、僕が前を歩いていると、後ろから肩を叩かれた。
怒っていたので最初は無視していたけど、しつこいくらいに何度も叩いてくるので後ろを振り返った。
「なに?しつこいんだけど」
「え、なにが?」
「なにがって、肩叩いてたでしょ?」
「叩いてないけど」
「そんなわけ…………」
違和感を感じ、光魔術の出力を高めると、近くでは青白い色をした手が浮かんでいた。
手首から下は何もなく、ふわふわと。
「「……ギャー!!!!!!」」
僕らは大きな叫びをあげ、頭を何度も打ちながら逃げ回った。
後で知ったが、そういう系統の魔物で、見た目の不気味さの割には特に害は無かったらしい。
それで余計に怒ったエマが、根絶やしにすると言うのを宥めるのがかなり面倒だったのを覚えている。
≪白夜の大森林≫
夜の来ない大森林で、野営をしていた時、食事当番の彼女が料理を作った。
彼女の味付けはその大雑把な性格がこの上なく出ていて当たり外れが大きい。
「ほら、とっても美味しい私の手料理が出来たわよ」
「今回のは美味しい詐欺じゃなさそう?」
「失礼ね。美味しくなかったことなんて一度もないじゃない」
「意見の相違だね。エマの調理は適当すぎるんだよ」
「そんなことないわ。逆にリンタロウが細か過ぎるのよ」
「舌が上品だからね。文明的な味しか受け付けないんだ」
「……辛い物がダメなお子様舌の癖に」
「……君だって、甘い物大好きのお子ちゃまじゃないか」
「なによ?」
「なんだよ?」
後で思い返すとなんで喧嘩してたのかわからないくらいどうでもいいことでよく喧嘩した。
でも、大体次の日には二人とも忘れていて、きっと覚えていないだけで同じようなことを何度も何度も繰り返してきたのだろうと思う。
本当に色々な思い出をたくさん作った。
二人でああだこうだと言い合いながら、時に逃げ回り、時に戦い、毎日のように笑っていた。
輝かしい最高の日々。僕にとって絶対に手放したくないほどの幸せがそこにはあった。
でもあの日。
彼女を失った日。
その時の僕はまだまだ弱くて、取り返しようのない致命的なミスをした。
自分が傷ついたならよかった。だけど、傷を負ったのは彼女だった。
「エマ、どうして!?なんで庇ったんだよ!」
自己中心的で、気分屋で、それでもいつも楽しそうだった。
ようやく仲間ができて嬉しいと、はにかむように笑っていた。
そんな彼女が浮かべていた必死な表情が――僕を押しのけたその表情が、頭の中に何度も何度もフラッシュバックする。
「…………リンタロウ。最後にお願いがあるの」
「喋っちゃダメだ。すぐに治癒魔術をかけるから」
彼女の体は半分近くが失われていて、治癒魔術で治せないことは明らかだった。
それでも僕は、何度も、何度も光を注ぎ込んだ。どれだけ叫んでも、どれだけ祈っても、魔術の光が弾けるたびに、その現実だけは変わらなかった。
「……お願い」
青白くなる顔。
彼女らしくない吐息のような弱弱しい声に、涙を流しながら、耳を傾ける。
「……何でも言って。必ず、僕が君の願いを叶えるから」
「…………どうか、旅を続けて欲しいの。そして、最後の場所までちゃんと行って」
「ああ、分かった。その願いは必ず叶える」
「………………絶対よ?」
「ああ、絶対だ。他には?」
安堵したような笑みとともに首がかすかに横に揺れる。
「…………………今まで、ありがとう」
「………ううん。お礼を言うのは僕の方だ」
彼女は自分の宝物であるそのくたびれた本を僕に渡すと、満足そうに眠りにつく。
僕の慟哭の声を子守歌にして。
その後は、一人で旅をした。
今まで響いていた二人の笑い声はそこには無く、ただ、前だけを向いて進み続けるつまらない旅。
剣を抱え込んで夜を明かし、休息をとることさえままならず、生死を彷徨うことも日常茶飯事だった。
それでも僕は、その道がどれだけ過酷でも、たとえどれだけ傷ついても、彼女の願いを叶える一心で、歩み続けた。
そして遂に、楽しくもない灰色の旅路を終える。最後の場所に来ても、達成感は一切なかった。
何年かかったかは覚えてない。髪は白く染まり、腰に差した剣は半ばで折れ、心はとっくに擦り切れていた。
「ここが、最後だ。なら、もういいよね?エマ」
誰もいない庭園で抜け殻のように座りこむ。
たぶん彼女は、僕が自分で命を絶たないようにするために、生きるための目標を与えてくれたのだろう。そして、美しい世界を見ながら少しずつでも前を向いて欲しいと願ったのだ。
最後に残った彼女の優しさ、でも僕はそれを台無しにするしかない。
何故なら、彼女のいない世界なんて何の色も感じないから。
「君は、優しすぎるんだよ………………それこそ、残酷なほどに」
立ち上がる気力は既に無い。いや、もはや酷使しすぎた体は限界で、糸が切れてしまった今はもう動かすことすらままならなかった。
そして、そのまま朽ちるのを待とうとしていたとき自分のものではない声が空から響く。
≪全てを見し者、一つ願いを叶えよう≫
確かに、本には願いを叶えると書いてあった。
うるさいという思考とは裏腹に、その言葉に呼び起されて純粋な願いが頭の中を過る。
(……もう一度、やり直したい。今度こそ、エマを守るんだ)
別にそんな話を信じていたわけでは無かった。でも、それは本当だったようだ。
何故なら、気づいた時には再び召喚された日に戻っていたのだから。
過酷な大地を旅した知識も経験も、何よりも彼女との幸せな記憶も全部持ったまま。
そして、僕は魔王討伐の旅をしながら村々を巡り始めた。
彼女が小さな辺境の村出身であるという情報だけを手掛かりにして。
◆◆◆◆◆
「これが、今の君が知らない君と僕の話だよ」
「……そんなことってあるのね」
「ああ、夢みたいな話だ。でも、これは夢じゃない」
彼が、私の手の存在を確かめるようにして握る。そして、嬉しそうに微笑んだ。
「たぶん、そろそろかな」
「なにが?」
彼が唐突に上を向いたので、そちらを見る。しかし、そこにはただ天井が広がっているだけだった。
不思議に思っていると、突然、上から降り注ぐような声が響いた。
≪全てを見し者、一つ願いを叶えよう≫
「これは…………」
なるほど、彼が言っていたのはこれのことだったのだろう。
遠くにいるような、近くにいるような不思議な声だった。
「エマ、君は何を願う?」
「……私は、いいわ。もう叶ったもの」
「本当にいいの?こんな機会滅多にないよ?」
「いいのよ。今度は、ちゃんとリンタロウだけの願いを叶えて」
彼には知らずに多くのものを背負わせてしまっていた。
だから、幸せになって欲しいと背中を押す。
「……わかった。じゃあ、少し後ろを向いていてくれるかい?」
私が後ろを向くと、彼は、何かを願っていたようだ。
しかし、見た目には何も変化は起きていなかった。
「エマ、もういいよ」
その手には、これを願ったのだろう。一対の指輪がある。
台座も飾りも無い、ただ細い輪。なのに、視線が奪われる。
光を吸い込んで、内側から溶かして、また静かに返すような、そんな輝き方をしていた。
確かに、とても綺麗で、誰が見ても素晴らしいものだとわかる。
でも、時を超えることすら可能だったことを思うと、こんな願いで良かったのかと思う。
「…………それこそ、何でも叶えられたのに。本当に、これでよかったの?」
「いいんだ。だって、僕の願いを叶えられるのはあの声の主じゃないから」
そう言うと、彼は最初に会った時のように私の前に跪き、言った。
「エマ、どうか僕と結婚して欲しい。たとえ何があっても僕が君を守るから」
巻き戻しのような光景。
でも、今とあの時ではすべてが違って……彼を選ぶ理由が私にもある。
「………………リンタロウは、もう私の答えわかってるんでしょ?」
「え?まぁ、うん。エマは好き嫌いがわかりやすいしね」
「……それなら、答えは言わないでおこうかな」
ただ、それはそれで、これはこれ。
彼の思い通りになるのはなんだか癪に障る。
それに、熱を帯び始める耳を見られないようにするためには逃げ口実が必要だった。
「は?……いやいやっ。それとこれとは話が違うじゃないか。なぁエマ、頼むよ。君の口から聞きたいんだ」
「言わないったら。言わない」
「そんなっ!人生二回分だよっ!?待ってよ、ちょっと」
歴代最強の勇者があげた情けない声が庭園に響く。そして、その対となる楽しそうな声も。
咲き誇る白い花が、そんな二人をまるで祝福するかのように綺麗に舞い踊っていた。




